1-1 当て馬にしかなれない男
アステラが好きになる人は皆、別の人と結ばれる。
細身ながらも鍛えた体。金髪碧眼の澄んだ色合い。大型犬を思わせる、老若男女に受けのいい顔立ち。しかし、いかにもモテそうな外見に反して、アステラの恋心が報われたことは、二十一年間で一度もない。
アステラは、いわゆる『当て馬』男だった。
この人いいなあとお近づきになろうとしただけで間男扱いされることもあれば、傷ついた想い人を慰めた結果、なぜか恋のキューピッド役になること数知れず。呪われているのではないかと疑う程度には、毎回毎回ツキがない。
そして悲しいかな、当て馬男が修羅場に巻き込まれるときには、不思議と虫の知らせがあるものなのだ。
「よう、アステラ。職場で逢い引きとは、なかなか豪胆だな! サレと言ったか? お前のかわいい恋人、資料室の奥の部屋に行くのを見かけたぞ」
近衛隊の上司が、にやつきながらアステラの肩を叩く。門番の引き継ぎ作業をしていたアステラは、口角を引きつらせながら、ぎこちなく上司を振り仰いだ。
「そ、そうなんですか? 今日、伯爵家の屋敷に来るなんて言ってなかったのに」
「なんだ、アステラと待ち合わせてたんじゃなかったのか? 彼、妙にそわそわしているように見えたから、てっきり逢い引きするんだとばかり思ったが」
真面目なお前にしては珍しいとは思ったんだ、と上司は拍子抜けした様子で頭をかいた。
「この間付き合い始めたばかりだと言っていたじゃないか。少しばかり羽目を外したところで、別に怒りやしないぞ? 傭兵上がりの流れ者が近衛に入ると聞いたときはどうなることかと思ったが、お前ほど仕事熱心なやつは見たことがないからな!」
はっはっは、と白い歯を見せつけながら上司は笑う。世辞か本気か判断のつかない褒め言葉に恐縮しながら、アステラはそそくさと仕事を切り上げた。
踵を返したアステラは、礼儀を欠かないぎりぎりの速さで伯爵家の屋敷を突っ切っていく。
目指すは資料室の奥の部屋。掃除担当の使用人でさえ滅多に近づかないはずの、隅の小部屋だ。
ここ数日というもの、サレは何かに悩んでいる様子だった。サレが仕事で伯爵家の屋敷に出入りすること自体はおかしくないが、仮にも恋人だというのなら、アステラにそれを隠す理由はないはずだ。
嫌な予感がした。アステラの経験豊富な当て馬としての勘が、全力で警鐘を鳴らしていた。
隅の小部屋の前に差し掛かると、扉の向こう側から複数人の話し声が聞こえてくる。
「お許しください、旦那様……!」
若い男の声が聞こえた。聞き間違えようもなく、アステラの恋人であるサレの声だ。
いまにも泣きそうなその声を聞きながら、アステラはそっと扉を押し開け、恐る恐る中を覗き込む。
部屋の中には、三人の男がいた。
正確には、ふたりの人間と、ひどく見覚えのある、ひとりの人魚が。
「やーめーろっ! 離せやこの気狂い男!」
檻の中で騒がしく喚く男の下半身は、美しい魚の形をしていた。
鮮やかな水色の尾びれの上に見えるのは、鍛えられた無骨な男の肉体だ。肩ほどの長さで揃えられた波打つような銀髪と、真珠を紐で括っただけの質素な首飾りが、その肉体美を強調している。その姿は、まさに神秘的な人魚そのものだった。
ただし、首から上を見なければ、の話だが。
残念ながら、両目を覆う長い前髪のせいで顔立ちははっきりとは窺えないし、そうでなくとも全体的にもっさりとした髪型のせいで、野暮ったい印象ばかりが先に立つ。とどめのように、西の育ちであることを示す方言が、とても神秘の生き物とは思えぬ親近感を醸し出していた。
(なんでお前がここにいるんだよ!)
うっかり叫びそうになるが、そんな自分をアステラは必死に制した。
囚われの人魚の名はダガン。アステラの古い友人だ。
人間に捕獲されたことは数知れず、闇オークションに掛けられたり、悪徳貴族に監禁されたりと、見かけるたびにトラブルに巻き込まれている人魚だ。
アステラが唯一、自分以上に不幸だと認める男でもある。
十年来の知り合いとはいえ、錆びかけた檻に首輪で繋がれている情けない姿と言ったら、間抜けすぎて正視するに耐えない。
実際、アステラは必死に目を逸らしていた。
知人の醜態を見たくないのはもちろんのこと、己の失恋確定現場を直視したくなかったからだ。
「お願いだ、サレ。どうかこの異形の血を飲んでおくれ。私は君を、どうしても死なせたくないのだ……!」
ぎゃあぎゃあ喚くダガンの声を丸っと無視して、海辺の街の麗しき領主ことヴィンブルク伯爵が、部屋の片隅で跪く。アステラの雇い主でもある彼が切羽詰まった様子で見上げる先には、これまた天使のように美しい青年・サレが立っていた。
「いいえ、僕は神樹に仕える者。僕の寿命は、神の与えた予言で定められたものなのです。神を謀るわけには参りません」
瞳を潤ませ、慕わしげに伯爵を見つめる己の恋人を、アステラは血の涙を流しながら覗き見る。
「旦那様。あなた様と僕とでは、身分があまりに違いすぎます。幼いころの思い出は、思い出のままにしておきましょう。それが皆のためです」
「どうかそのようによそよそしいことを言わないでおくれ。私が聞きたいのは、君の意思だ。神樹の予言でもなく、世間の声でもない」
「言えるはずがありません……!」
ヴィンブルク伯爵とサレは、すっかり盛り上がっている様子で、ふたりの世界を展開していた。
そんなふたりを、ほらな、とアステラは諦念混じりに眺める。さながら今回のアステラは、身分違いの幼馴染の間に割り込んだ、ぽっと出の当て馬だろうか。
サレに告白したとき、「君のような明るい人と一緒にいたら、忘れられるかな」と意味深に返された返事の意味が、今なら分かる。あの時「忘れさせてあげるよ」なんて自分の言葉に酔う前に、サレが誰を忘れたがっていたのか、アステラはもっとよく考えるべきだったのだ。
「君の意思を尊重したかった、サレ。けれど、君が他の男と一緒にいるところを見るのは耐えられない。嫌なら逃げてくれ。そうでなければ、私は……!」
唸るように言ったヴィンブルク伯爵が、大胆にもサレを抱き寄せる。迷う素振りを見せたサレは、しかし一秒後には両目を瞑って、口付けを受け入れた。
アステラの失恋が確定した瞬間だった。
ちゅ、ちゅ、と破廉恥なリップ音が何度も響く。見たこともないほどうっとりと蕩けたサレの顔を、アステラは涙目になりながら黙って見つめた。
「おい。おーい! 見えとんのやろ! 無視すんな! ここから出せ!」
アステラが涙を飲んでいる間にも、空気の読めない人魚男は、がしゃがしゃと檻を揺らしては、イラついたように喚き続ける。
「人前でいちゃつきよって! 他人のえっぐいキスシーンなんざ見たくないねん! そういうんは夜に二人で隠れてやれ!」
悲しいかな、ダガンの抗議は届かない。がっつり数分間の深い口付けの後、ヴィンブルク伯爵は血走った目を、檻の中へとようやく向けた。