陛下、どうか離婚してください
懇願のような言葉だった。
疲れ果てて、息の仕方も忘れた人間が話すような、掠れきった言葉だった。
小さな背中。愛した女が、崩れ落ちたような格好でカーペットの上に座り込むのを、ラインハルトは愕然とした様子で見ていた。
「どうか、離婚してください」と女は言った。
「もう、許してください」と女は言った。
ラインハルトが誰よりも愛した女。
アリアという名前。夜の霧のように美しい女。
ラインハルトはこれまで、アリアの為ならば何だってしてきた。アリアが欲しがるものは全て与えて、アリアの望みは全て叶えた。世界中のぜいたくを集めても足りない程の、ありとあらゆる煌びやかなもので、この王妃宮を満たした。
ラインハルトが貴族の生まれではないアリアを、それでも貴族の反対を押し切って、あらゆる手段を講じて王妃にだってした。
足りないものは全て補って、心無い言葉にアリアが傷付かないように、全てのものから守ってきた。
この女がラインハルトの側で笑っていてくれるならそれ以上のことは望まない。その為ならばどんなものさえ惜しくはないと、本心から思い、その心に違わない行動をしてきたのだ。
その筈だった。
「な、」
英雄王。選ばれた王。勝利の王。
平時であれば、ラインハルトはそんな呼び名に相応しい王だった。平時であればそんな呼び名に相応しく、何があろうと動じず悠然と構えているラインハルトという男は、けれどたった一人の女が関わった時だけ分かりやすいほどに弱くなる。
掠れた声が、喉をこぼれた。青くなった顔の色。表情では狼狽を顕にして、半歩、よろけるような仕草で後退る。
「な、ぜ……」
乾いた声。愕然とした言葉。見捨てられた子供のような顔で、ラインハルトはアリアを見つめた。
そんなラインハルトに、けれどアリアは、何も答えてはくれなかった。
▪︎
私がラインハルトと出会ったのは、彼がまだ十五の少年だった頃。
私がまだ、前の夫を喪ったばかりの、二十三の歳の頃だった。
王都から少し離れた小さな領地。
私はそこで、パン屋の娘として生まれた。二人の兄と一人の弟。女の子が私だけということもあって、家族には随分と大切に育てて貰ったと思う。
両親も兄弟も、とても優しい人達だった。何せ兄たちの真似事をしたがった私が知りたいと望めば、文字まで教えてくれたほどだ。当時「女の子には学など必要ない」という価値観が一般的だったあの町で、それがどれだけ凄いことだったのかは、きっと同じ時代の、同じ平民の女の子達にしか分からないだろう。
つまるところ、私が町でも随分と珍しい「読み書きの出来る女の子」になれたのはそんな寛大な家族のお陰であり、いち平民に過ぎなかった私がかつての夫。領主であった子爵に見初められたのも、元を言えばやはり家族のお陰であったのだ。
最初の夫、ルドルフはとても物静かな人だった。
背が高くて、大きな手のひら。貴族でありながらあまり偉ぶることはなく、身分というよりも、そのひととなりを見てくれるような人。
領地に読み書きの出来る女が居ると知って、「良ければ孤児院で先生役をしてみないか」と声をかけてくれたのが、私とルドルフが出会うきっかけであった。
私達はそれから程なくして恋に落ち、私はそれから程なくして、パン屋の娘から子爵夫人となったのだ。十八の頃だった。
平民でありながら貴族の奥様になれたのは、ルドルフの持つ爵位が、あくまで低位貴族である子爵であったこと。またその子爵家が比較的歴史の浅い、所謂新興貴族と言えるものであったことが強く影響していたのは間違いないけれど、とにかく私達の結婚に家族も友人も随分と喜んでくれていたことには間違いなかった。
「パン屋の娘が貴族になれたのは学があったからだ」なんて噂も広まって、それからあの町では女の子の識字率も随分と上がったという。
私達の結婚生活は、とても穏やかで、幸福に満ちたものだった。
屋敷の中庭で揃って本を読むのが私達の日課であり、少し近視なところがあったルドルフが目に疲れると、私の膝に寝転ぶのもまたいつものことだった。物静かで優しく、けれど確かな愛でもって私を包んでくれていた年上の夫。
私は彼を心から愛していたし、私は彼と共に過ごす時間を宝物のように思っていたのだ。
もっとも。そんな時間は、結局長くは続かなかったけれど。
戦争が起きたのだ。隣国との戦争。結婚から数えて三年目のことだった。
ルドルフは貴族の責務として戦争に参加して、そうして死んだのだ。戦死だった。名誉ある死だと、その知らせを持って来た王城からの使いは言った。ルドルフは王太子殿下を救う為に、単身で敵の兵士に殺されたのだという。
女である私には、死ぬことに名誉の有無があることなんて、ちっとも理解出来なかったけれど。でも、沢山の人がルドルフの名前を出しては、「誇らしいことでしょう」と言ったから、きっとそういうことなのだろうと。
切れ端だけ残ったマントを握りしめながら、ぼんやりとそう思ったことを覚えている。
ルドルフは随分と戦場で活躍したらしかった。王太子殿下の信頼を得て、部隊をいくつか任されたというのだからよっぽどだ。
戦争の後には、ルドルフと共に戦ったのだという人達が何人も屋敷を訪ねてきた。ルドルフが私のことを随分と心配していたからと。
そうして屋敷にやって来た彼らは、皆が皆口を揃えて「彼は素晴らしいひとだった」と話し、それから「彼は心から貴女を愛していた」とも言った。
私はそれに、何を思ったのだったか。
嬉しいとは、思ったのだろう。けれどそれ以上に「なら、どうして」と、そう思わずにはいられなかったような気もする。私の頬を何度も撫でた大きな手のひら。何度と届いた戦場からの手紙。「必ず帰ってくる」と言ったのに、「君が恋しい。君だけが愛だ」と何度だって綴ったくせに、結局あの人は帰って来なかった。
みっともなく縋り付いて泣き喚いてやりたかったのに、亡骸すら戻って来なかったのだ。
ルドルフの葬儀が執り行われることになったのは、戦争が終わってふた月程が経った頃だった。
随分と遅くなったのは、それだけ私が先延ばしにしていたからだ。遺体が無いから、どうしても実感が湧かなくて踏み切れなかったのだ。
情け無いことに、説得に訪れたルドルフの戦友や牧師様に、「でも、まだルドルフが帰って来ていません」と駄々を捏ねるように言ったこともあった。
彼らはそんな私を哀れむような、いたましいものを見るような目をしながら、「それでも、ルドルフの為にも葬儀は執り行わなければ。それが、彼の妻である貴女の役目です」と私に言い聞かせて、そうして行われた彼の葬儀。
空っぽの棺。曇りの空。泣き腫らした目を隠すような黒のベール。夫の葬儀で、私は人生ではじめての喪主になった。
優しい夫の周りには、優しい人が集まるらしい。何人もの夫の友人達が、私を気遣うような仕草で、私の元に挨拶に訪れた。
私はそれに、一つ一つ出来る限り丁寧に答えて、何人目だろうか。
ふと、目を焼くような、鮮やかな赤を見たのである。
それこそが、ラインハルトだったのだ。王妃を母とする正統な王位継承者。当時はまだ王太子だった。
風に靡く黒い髪。穏やかにも見える形の少し目尻が垂れた形の瞳は、けれど明確な意思を宿した鮮やかな赤の色を纏っていた。
私を真っ直ぐと見つめる、射抜くような、赤の色がそこにはあった。
「……子爵夫人」
少年特有の、少し高い声が私を呼んだ。私はそれに、あ、と思ったことを覚えている。
それは人に立つ者が持つような、言ってしまえば、選ばれた者の声であり仕草であったのだ。その時十五の少年は、けれど既に、為政者として生まれたようないでたちを完成させていた。
だから、名乗られる前に分かったのだ。
ああ、彼が王太子なのだと。彼こそが、ルドルフが命を懸けてまで守りたかったものなのだと。
この少年の為ならば確かに、ルドルフは命を懸けられただろうとも思った。あの人は正解の分かる人だから。選ぶべきものを選べる人だから。
分かって、分かるからこそ、そうだ。私は悔しくて、悲しくて堪らなかった。
あの人は選ぶべきものを選んで死んだ。私との未来ではなく、国の将来を、正しい選択をしたからこそ死んだ。
そう理解した途端、止まったはずの涙がまた流れて、とめどなく流れて、私はいっそ崩れ落ちてしまいそうだった。
いきなり泣いた私に、ラインハルトは「夫人……!?」とギョッとして、けれど私が震える手を強く握り締めながらも立っていることを確かめると、やがて静かにハンカチを差し出してくれた。
それが、私達の出会いであったのだ。
▪︎
それからラインハルトは、度々私の元を訪れた。
決して暇な人間では無いだろうに、まるで暇になる度にやって来ているみたいに、半日近くも馬を走らせては領地の子爵邸に訪れたのである。
王太子という彼の身分を考えれば、決して褒められることではない。けれどルドルフが戦場で立てた功績や、結果としてルドルフが彼の命の恩人となった事実が、人々にラインハルトの行動を許容させているようだった。
ラインハルトは、私に様々な話を聞かせてくれた。ルドルフが戦場でどう過ごしていたのかや、どんな風に活躍したのか。たまの宴では壁の花になって、けれど人に慕われていたから、ルドルフの元には話しかける人間が次から次へとやって来ていたということ。
花を見る度に領地に残した妻を思い出し、慣れない手付きで押し花を作っては、手紙に差し込んでいたこと。時折送られてきたあの押し花は、全てルドルフが、私を思い出す度に作られていたのだということ。
そういう話を、ラインハルトは何度でもしてくれた。あの頃の私が自然に笑えるのは、ルドルフの話だけだったというのもあるのだろう。
私達は、何度だってルドルフの話をした。そうするうちにやがて私達は友人になり、そうするうちにラインハルトは少しずつ、自分の話もしてくれるようになったのだ。
ルドルフが死んで一年が経った頃には、私達は確かに私達として、友であったように思う。
王都に来ないか、と誘われたこともある。
王都の屋敷なら用意をするから、社交界シーズンの間だけでも来たらどうかとラインハルトは私に聞いたのだ。
けれど私はその度に「ここを離れるつもりはない」からと断って、それでも言い募ろうとするラインハルトに、何度かはあからさまに話を逸らしたこともあった。
私はどこかで理解していたのだ。
少し歳の離れた歳下の友人。私よりも余程身分のある彼が私を、どんな目で見ているのか。彼が私にどんな思いを抱いているのかを、きっとどこかで分かっていた。見て見ぬふりをしていただけで、いや。それとも、今だけだと甘く見ていたのかもしれない。
少年の頃になら誰もが抱くような、錯覚のような恋だと思っていたのだろう。思っていたかった、と言って良いのかもしれない。
この年頃の男の子なら、少し年上の女に憧れることもあるだろうと。王都を知らない、言ってしまえば俗世から離れたような、田舎の女が珍しいのもあるかもしれないとも思った。やがて大人になって、自分に相応しいひとを見つけたら、自然と忘れ去られていくであろう思い。
ラインハルトが抱いているのはその類のものだと決め付けて、気が付かないふりをして、友人の関係に甘んじるように一線を引いていた。
きっと私は、失いたくなかったのだ。ルドルフのことを話せる友人を。私よりも歳下で、けれど私の知らないたくさんのことを知っている友を。
中庭を散歩して、時には森に入りリスや兎に餌をやるような、なんてことのない話をして笑い合うような時間。友人としてラインハルトと過ごすそんな時間を、私はどうしたって手放したくなかったのだろう。
それが間違いだったのだと気が付いたのは、随分と後になってのことだったけれど。
ラインハルトが言ったのだ。妻になってくれと、私の瞳をじっと見つめて、あの鮮やかな赤でじっと見つめて、縋るような言葉で私に言ったのだ。
「貴女を愛している」と。
「どうか、妻に」と。
恐ろしかった。私を射抜く、赤の瞳が恐ろしかった。
どこまでも真剣で、どこまでも真摯で、隠すことをやめた大きな感情に押し潰されそうだと思ったのだ。断って、無理だと手を振り解いて彼に背中を向けたけれど、ラインハルトがそんなことで諦めてくれるような人間では無いことも分かっていた。
そうして実際ラインハルトは、私が話す言い訳の全てを、ひとつひとつと潰していったのだ。
「ルドルフが忘れられない」と言えば、「忘れなくて良い」と。
「身分の差がある」と言えば、「そんなことは関係ない」と。
「両親は平民だ。議会が許すはずがない」と告げても、「その程度のことをどうにも出来ないほど、甲斐性のない男にはならない」とラインハルトは一蹴した。
何度も何度も屋敷を訪れて、何度も何度も、何度断られても縋るように私が頷くことを願った。
馬車いっぱいのプレゼント。光り輝くダイヤの指輪。百を超える薔薇の花束。なりふり構わないラインハルトの行動はやがて噂になって、醜聞にもなっていたと思う。
けれどラインハルトはそれでも私を諦めなかった。
春の花が散って夏になり、秋が過ぎて冬が来ても、ラインハルトはずっと私の元を通い続けたのだ。私が門を開けなくても、私が彼の前に姿を現さなくても、彼が諦めることはなかった。
「君が居ない人生なんて意味がない」と言って、かつての少年は哀れな男の声で、私の愛を乞うたのだ。
やがてラインハルトの行動を批判していた世間は、世論は、そんなラインハルトを支持するようになった。
元々ラインハルトは、誠実な王子として民から強い支持を得ていた人だった。そんな彼の身分も何も問わない、愛だけを求める姿勢は、随分と世間の心に響いたらしい。
最初は「領主様が死んだ理由のくせに」と顔を顰めていた領地の民達でさえ、やがては「奥様もそろそろ折れてくだされば良いのに」と、「ラインハルト殿下がお可哀想」と話すようになっていったのだ。
長い間ラインハルトを諌めていた議会でさえも、やがてはラインハルトを止めることさえ無くなった。
ラインハルトは優秀な王太子だったのだ。幾つもの戦場に出向いては、幾つもの華々しい勝利を手にした。政治的な手腕も素晴らしく、ラインハルトの行動によって国が一段と豊かになっていたことは、最早誰にも否定出来ない事実となっていた。
ラインハルトはその影響力を強めて、発言力を強めて、王になる頃にはすっかり議会の反対を押し切れるほど、力を強めていたのである。
ラインハルトが王となったのは、私達が出会ってから三回目の春のことだった。
私が彼の妻になったのも、その頃だった。
根負けしたのだ。仕方がないと、そう思ってしまったのもある。
だって八つも歳の離れた身分の低い女を、それでもラインハルトは、何年だって追いかけた。どれだけ若く身分ある少女に迫られても、「アリアだけだ」といつまでも真っ直ぐと、あの赤の瞳で私を見つめた。閉ざされた門の向こうで、何時間だって私を待った。ラインハルトが一向に帰らないから、仕方なく私が姿を現せば、彼はまるで少年のような顔で私が来たことに喜んだ。
ラインハルトはずっと、そんな人だったのだ。
だからだろう。私は、そんなラインハルトの、ラインハルトらしくもない、迷子の子供のような頼りない姿を放っておけなかったのだ。
先王が崩御してすぐ、私の元に現れたラインハルトは、随分と憔悴しきった様子だった。無理もないことだ。何せラインハルトは、父を亡くしたばかりであったのだ。何せラインハルトは、弟を手にかけたばかりであったのだ。
ラインハルトの弟、第二王子は側室の子だった。
王位継承権は低く、またラインハルト程、王としての才覚も持たなかった。けれど誰よりも、王の椅子を欲していた少年でもあったのだという。
果たして、第二王子はある時、反乱を企てた。ラインハルトが地方への視察のため、王城を空けていた時のことだった。
捕えられた王は、長い間を冷たい牢に閉じ込められて、次の王として第二王子を指名することを求められていた。何日も馬を走らせて、地方からラインハルトが戻ってくるまでの間、長い間を拷問を受けて過ごしていたのだ。
結局第二王子の反乱は、地方から戻ってきたラインハルトの手によって制圧されたけれど、弱りきった王の身体ばかりはどうにもならなかった。
ラインハルトは弟が引き起こした反乱の後始末をしながらも、それ以外の時間は父の側に付き添い、励まし、世話をして、けれどラインハルトの懸命な看病虚しく、彼の父はある朝とうとう目覚めなくなってしまった。
第二王子の罪状には、王の殺害への関与も加えられて、彼はある朝とうとう弟を手にかけなければならなくなってしまったのだ。
沢山のことがあって、打ちひしがれて、そうしてラインハルトは私の元にやってきた。
いつものような、言葉を尽くした求婚はなかった。ただ私の手を取って、縋るような仕草で、私の手を自らの額に押し当てていた。「アリア」と、「たのむ」とそれだけを言って。
結局のところ、私はそんな彼を突き放せるほど強い人間では無かったのだ。だから私は彼の側を付き添い、打ちひしがれる彼の元を寄り添い続けた。
「側にいてくれ」と願われて、「側にいます」と約束をした。縋るような手のひらを振り払うことは出来なくて、側にいると約束したから、今更見捨てて離れることも出来なかった。
そうして私は、彼の王妃になったのである。
▪︎
「王妃様は、心を病んでいらっしゃいます」
怯えるように俯きながら、アリアの侍女はそう言った。アリアが子爵夫人だった頃から仕えている、アリアの腹心とも言える女。
ラインハルトはその女が話した言葉に、愕然とした様子では、と言葉を失う。ラインハルトの座る椅子。その側にはベッドがあって、青い顔をしたアリアが寝かされていた。「どうか離婚してください」と、そう話した後、アリアは過呼吸のようになって気絶してしまったのだ。
「──、原因は、」
叫び出してしまいたい衝動を押し込めるようにして、グッと奥歯を噛み締めながらラインハルトは言った。随分と低い声。侍女はそれに、迷うように視線を泳がせる。
「原因は!」
言い淀む侍女に、ラインハルトはそう声を荒げた。すると侍女は怯えるようにビクリと肩を揺らして、「………そ、の、」と、震える言葉をこぼす。
「お、王妃様は、き、気付いていらっしゃったのです」
「……気付く?」
「王妃様の為に、陛下がこれまで、何をなさってきたのかを。お、王子様が本当は、王女様であったこと、にも……」
「…………は、」
はくり、とラインハルトは声になりきれなかった吐息をこぼす。ハッとしたように、側のアリアの方を見た。青い顔。痩せた頬。まるで死人のように、生気のない姿。
震える手のひら。ラインハルトは掴むような仕草で自身の顔を覆った。ああ、と、言葉のような吐息のような、絶望の色をした震えた声がこぼされる。
そんなはずはないと、思いたかった。気付かれないようにと、力を尽くしてきたはずだった。ラインハルトはただ、アリアに幸福な世界をやりたかったのだ。何も知らないまま、与えられた都合の良い世界で幸せを感じていてほしかった。
ラインハルトの腕の中で、ラインハルトがその全てに関与出来る世界の中で。
ラインハルトはただ、アリアを自分の中に閉じ込めておきたかったのだ。だってラインハルトは知っていたのだ。アリアが自分の妻になったのは、同情のためだと知っていた。愛されているわけではないことを知っていた。心変わりが怖かった。だから何をしてでも引き留めたかったのだ。だから何をしてでも、この場所を、アリアにとって居心地の良い、都合の良い世界の鳥籠にしたかった。
その為に、出来ることの全てをやってきた。
「わ、私、は、俺は……」
間違えたのか、と、震える言葉が喉をこぼれる。揺れる瞳。緩やかな動きで、ラインハルトはアリアのことを再び見た。アリアの姿が再び視界に入る。再び死人のように、生気のない顔。疲れきった姿。「もう許してください」と、懇願のように呟く小さな背中を思い出す。
違う、違うのだ。ラインハルトは決して、アリアにそんなことを言わせたかったのではなかった。
幸せにしたかったのだ。何もしなくても良いから、辛いことも悲しいことも何も知らなくて良いから、ただラインハルトの側で笑っていて欲しかった。
何年も昔、少年であった頃のラインハルトがはじめてアリアを見た時、アリアは酷く辛そうな様子で立ち尽くしていた。何年も昔、少年であった頃のラインハルトをアリアがはじめて視界に入れた時、アリアは音もなく沢山の涙を流していた。
ラインハルトは、それに酷く心を揺さぶられた。それまでも、ラインハルトは多くの貴族令嬢を泣かせてきた。誰の恋にも決して応えて来なかったからただ。だけどどんなに可愛らしい娘の涙を見ても、どんなに美しいと言われる娘の涙を見ても、あんなに焦ったことはなかった。
他の誰かが泣いていても、ラインハルトは哀れと思いこそすれ、慰めたいなどと思うことはない。
けれどラインハルトはアリアが泣くと、どうしたら良いか分からなくなるのだ。どうにかして泣き止んで欲しいと思う。焦って、それしか考えられなくて、だけどどうしたら良いのか分からなくて堪らなくなる。
あの日アリアを一目見た時から、ずっとずっと、ラインハルトはそうだった。
「す、まない、すまない……。すまない、アリア……」
アリア、と、ラインハルトは眠るアリアの手を取った。指先まで冷たくなった手のひら。額に押し付けるようにして、ああ、と嗚咽をこぼす。
幸せにしたかった。その筈なのに。
▪︎
王妃になってから、私の生活はガラリと様変わりした。沢山の侍女に囲まれて、暮らす場所はもの静かな子爵邸から煌びやかな王妃宮に。
多くの人に傅かれて、多くの物を与えられた。ラインハルトは常に私に優しくて、いつだって私に身に余るほどの愛をくれた。
きっと、あの頃の私は幸せだった。
王妃という身分には慣れないけれど、学ぶべきことはたくさんあって、子爵邸で一人静かに暮らす頃よりも確かに充実した日々を送れていた。ラインハルトという国王に対して、自分が如何に足りない王妃であるから理解していたから、努力を尽くそうとしていた。
大変だったけれど、楽しかったのだ。
王妃として国王に嫁いだのだから、妻として夫を愛し、夫を立てようとことは当然の義務である。
その点で言えば、ラインハルトは言うところがなかった。年若く、見目麗しく、一心に私を愛してくれる、誰よりも優しい夫を愛そうとすることは、決して難しいことではなかったのだ。
ラインハルトは私のやりたがることに一つも文句を付けることはなくて、私が学びたいと言えばどんなことだって応援してくれた。
そして、新しいことを学べば学ぶほど、ラインハルトに対する尊敬だって生まれた。何て出来た人なのだろう、と思ったのだ。
そんな人が八つも歳上の、それも平民生まれの未亡人であった私をこんなにも愛してくれることは、奇跡のように幸運なことだとも思った。
そんな人が私の前では、まるで少年のような顔をして話し、笑い、眠ってくれることは、それこそかけがえのないことだと感じたのである。
誰よりも有能で、誰よりも尊敬されていて、けれど花の指輪を作るのはとても下手。私の些細な冗談に騙されて、慌てて、それが嘘だと知ると胸を撫で下ろしては拗ねて幼い仕草で唇を突き出す。
そんな人を、愛せないはずなんて無かった。
私は確かに、彼を愛していたのである。
愛に満ちて、幸福に満ちて、充実感にも満ちていたかつての日々。
それが音もなく崩れはじめたのは、いつのことだったか。
私は王妃に相応しくないと話した貴族を、ラインハルトがその貴族家ごと無くしてしまったと知ってしまった時だっただろうか。
「年増の王妃など」と私を嘲り、ラインハルトの寝室に忍び込んだ侍女を惨たらしく殺してた上に、使用人達の前に見せしめに掲げたと知った時だっただろうか。
それとも。あの日、私が確かに産み落とした筈の赤ちゃんが、他の誰でもない。私の夫であり、あの子の父親であるはずのラインハルトによって擦り替えられたのだと気が付いてしまった時だろうか。
女の子だったのだ。
私が産んだのは、女の子のはずだった。
ほんの一瞬、生まれてすぐに抱いただけだった。出産の直後で朦朧とした意識。それでも、母親になったのだ。我が子を見分けられないはずがない。それなのに、なのに。
次に目が覚めた時、私の眠るベッド。その隣に置かれたベビーベッドに寝かせられた赤ん坊は、ああ、そうだ。あの子は、私の子ではなかった。
あの時の絶望を覚えている。私の世話をした医者は、それを「出産による疲労が見せた幻覚」と私に言い聞かせたけれど、そんなはずはないと分かっていた。
だって私が産んだのだ。だって私が、十月十日を、私の腹の中で育ててきたのだ。
私が産んだのは女の子だった。
私の隣に寝かされていたのは、男の子だった。
ラインハルトとしては、きっと私を守る為にそうしたのだろう。
元々、私の王妃としての資質を疑う人間は多かった。生まれが生まれだ。無理もない。
その上やっと生まれた、待望のラインハルトの子が女の子であったと彼らが知ったのなら、きっとその声はますます大きくなっただろう。簡単に想像がつく。
ラインハルトは前々から、私から、ありとあらゆる悪意を退けようとしていたところがあった。
だからこれもまた、その一環なのだろうと、簡単に分かった。分かってしまった。
ああ、でも、でも。
我が子を失うことに比べれば、そんなもの、どうってこと無かったのに。
こんな形で守られたくなんてなかった。
それよりも、どんなに辛くても構わないから、二人で一緒に乗り越えたかった。
思えば思うほど苦しくて堪らなかった。その日から、私の心に募っていた軋みが、音を立てて広がっていったのだ。
擦り替えられた赤ん坊に罪はない。だから私は、その子を「王子」と呼んで、我が子として慈しみ育ててきた。
私の娘と同じ日に生まれた、同じ年頃の男の子。大切に育てて、「母上」と呼ばれる度に「なぁに」と微笑み抱き上げて、愛を注いで育ててきた。
その度に、どこかへ行ってしまったあの日のあの子の姿が脳裏に浮かんでも、それを表に出すことをしないで。
ただ、眠れない夜は増えたけれど。
ぼんやりと宙を見上げて、過ごすだけの夜は増えたけれど。
心の軋みは日に日に大きくなっていて、なんてことのない風を装いながらも、きっと、私はどこかで壊れてしまっていたのだろう。
特に、何かのきっかけがあったわけではなかった。ただ許容量を超えた水を抱えたダムが決壊するように、私は駄目になってしまったのだ。
食事が喉を通らなくなった。王妃としての仕事も、碌に手をつけられなくなった。
一日中泣いて過ごした。時々思い出したようにシーツを割いて首を括る用意を完成させるようになった。それをぼんやりと眺めて、首を吊らなくてはと、義務のような考えに台を探して、けれど立ち上がる気力はなくて緩やかに首を動かして周囲を見渡すばかり。
そうしている内に侍女に見つけられて、「王妃様!」と悲鳴のような声。抱きしめられて、「可哀想なアリア」と、幼い頃のように髪を何度も撫でられた。
子爵邸から付いてきてくれた侍女。私が幼い頃から私の面倒をよく見てくれた、酒場の娘のアン。私よりも年上で、私よりも早くに夫を亡くした。「あたしはアリアのお姉さんだから」と、ルドルフの元に嫁ぐときにも一緒に来てくれた。
ずっとずっと一緒だったアンは、こんな風に壊れた私を見て、どう思ったのだろうか。申し訳なくて、情けなくて、みっともなくて、死んでしまいたいと思った。
「アリア……?」
啜り泣く侍女に抱きしめられて、ぼんやりと座り込む。ここ最近ではそう珍しくもなくなった私の姿。ここ最近ではそう珍しくもなくなったいつもの光景。
それがいつも通りでは無くなったのは、そこに、ラインハルトが現れたからだった。私はそれに、ああ、と思い出す。そう言えば、そろそろラインハルトが戦場から帰ってくる頃だった。
突然に聞こえたラインハルトの声に、ハッとしたようにアンは私から身体を離した。「陛下……!」と焦るような声。アンは私の名誉を守ろうとするように、「これは、」と必死に隠そうとするみたいにラインハルトに言い募り。けれど、ラインハルトはそんなことで誤魔化されてくれるような人ではない。
「アリア、アリア!何故こんな、どうしてこの様な……!!」
大きな手のひらが私を抱き寄せて、強く強くと抱きしめた。いつもの匂い。とても品の良い、ラインハルトの香水の匂い。いつかは抱き寄せられるだけで安心したそれにも、今は心が動かない。
「何があった」
私を抱きしめたまま、ラインハルトはアンを見つめた。酷く低い声だった。アンを睨み付ける赤い瞳。酷く低い声が、アンを責めた。
私はその時、ああ。その時だ。ぷつりと、何かが、糸が切れてしまったような感覚だった。
私はその時はじめて、王妃になってからはじめてラインハルトを突き飛ばした。ドン、とラインハルトの胸を押した。ラインハルトを拒絶した。
「アリア……?」
瞳を揺らし、ラインハルトは戸惑っていた。
私は、どうだったのだろうか。泣いていたようにも、微笑んでいたようにも思う。それとも、どんな表情も浮かばせることが出来なかったかもしれない。
ただ、長く碌に動かなかった口が、長く碌に話せなかった声が、今は酷く簡単に動くような気だけはしていた。
「陛下、」
心から、溢れ落ちるような声。
「どうか。……離婚、してください」
ああ、そうだ。私はずっとそう言いたかった。
私はずっと、もう許して欲しいと、解放されたいと願っていたのだ。