ジャガーノート
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日がな一日をセーフハウスで怠けていては神さまのバチが当たりかねないので、今日もナビシートに相棒の男を縛りつけて車を走らせる。車――フットワークが軽い黄色くて小さな愛車。後部座席に二メートルの大男を乗せた実績を持つがんばり屋さん。
コインパーキングに車を止めた。夜の繁華街を行く。新宿の歌舞伎町を模した街らしいけれど、本家を知らないので答え合わせをすることはできない。人目を引く、引いてしまう。私のスタイルが抜群すぎるせいだろう。ヤクザよりも凶悪な雰囲気をまとう相棒が隣を歩いているせいだろう。目立たないことを要求される仕事であり、だからいつも黒スーツ姿なのだけれど、それでも視線を集めてしまうのだから、困ったものだ。
相棒がアメスピ――緑のボックスから一本取り出し、くわえ、ごついジッポライターで先端に火を灯した。路地へと入っていく。相棒は鼻が利く。危険を嗅ぎつけることに長けている。あとに続く。絹を裂くような女の悲鳴。若い女だ。それくらい誰にだってわかる。相棒がいよいよ駆けだした。縫うようにして路地を走る。なおもついていく。立ち止まった相棒。女のことを抱き止めた。女が叫ぶ。「助けてください!」。相棒は小さく口を動かした。「もう助けたぜ」。それから女を押しつけたきた。むしり取られたようにブラウスが剥がされていて、露出した真っ白な下着が暗闇にあって眩しい。抱き締めて「だいじょうぶだよ」とささやいてやると、女は子どもみたいに泣きだした。
相棒が敵を蹴散らしたであろう頃合いを見計らって、私は女をしっかりと立たせ、そのか細い肩にジャケットを羽織らせてやった。歩を進め、問題の路地にひょいと顔を覗かせる。男が三人倒れていて、うつ伏せの一人の背を相棒は右足で踏みつけていた。ケータイを耳に当てている。警察に通報しているのだろう。近づいた私が「どうすればいい?」と問うと、相棒は「行ってろ」と答えた。偉そうなことだなと思いつつも女のもとへと戻る。ジャケットのポケットに入っているからと言って、女に煙草とライターを出してもらった――パーラメント。細身のそれはジバンシー。
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警察の取り調べ後、女を引き取った。中国がルーツのクォーターらしい。名は訊かなかった。詳しい背景も問わなかった。悪い人物には見えなかったから。捨てられた子猫のように寂しげに映ったから。なにかきっかけが掴めるまでのあいだ、面倒を見てやろうと考えた。象でも寝転べるサイズのベッドで並んで眠った。女は朝が早かった。笑顔とともに「作ってしまいました」と言い、私のために目玉焼きときゅうりのサラダをこしらえてくれた。それは毎日続いた。女はなにを言うにも舌足らずで、その様がまた愛らしかった。
眠気覚ましのシャワーを浴びて出てくると、ダイニングテーブルにはいつものメニュー。私は風呂あがりにいきなり服を着るのが嫌で、だから黒いショーツしかつけていない。胡麻ドレッシングがかかったきゅうりをしゃくしゃくと食べ、目玉焼きの目玉を潰す。とろりと溢れ垂れる黄色い液体。満月が泣いているように見える。
「あなた、名前は?」ついに訊いた。「答えたくなければ、それでもいいんだけれど」
「シャオといいます」ぺこりと頭を下げてみせた。「よろしくお願いします」
「いまさらよろしく?」私は微笑んだ。「で? あの夜はなにがあったの?」
「それは……」シャオは目を伏せ、暗い顔をした。「と言っても、襲われそうになっただけです」
いろいろと考えは巡ったけれど、間違いなくシャオは誠実な人柄で、だからなにか悪さを働くようには思えない。っていうか、悪さ? 悪さってなんだろう。そこはかとない気持ちの悪さは覚える。私は「ごちそうさま」を言うと立ち上がり、衣装部屋へと向かいながら、肩にかけていたバスタオルで濡れた髪を入念に拭いた。ほんとうに、なんだか胸に引っかかるものがある。もやっとする。この頃、知性と感性が鈍ってきたように感じている。
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シャオに「いってらっしゃい」と見送ってもらって出かけた。相棒のマンションの前に黄色い車をつけ、外でパーラメントを吸っていた。そのうち相棒がエントランスから姿を現した。もうアメスピをくわえている。なんだか不機嫌そうな顔をしているものだから「どうしたの?」と訊ねた。そしたら、「昨日抱いた女がよくなかったんだよ」などと臆面もなく答えた。当然、私は怒り心頭となる。左の頬を右の拳で思いきりぶん殴ってやった次第だ。その口からアメスピが飛んだ。
「この野郎、なにしやがる!」
「黙れ! ちょっと相手してやらなかったからってすぐにほかの女と寝るとか、ありえないでしょ!!」
「うるせーうるせーうるせー! 怒鳴るな! 頭にガンガン響くからよ!!」
頭にガンガン響くということは二日酔いなのだ。予想がつく。酒場で浴びるようにアルコールをあおって、その場にいた女を勢いでホテルに連れ込んでセックスしたけれどよくは覚えていなくて、ただあまりイケなかったことだけは記憶に残っていて、気づいたときには女はもういなかった――といったところだろう。すなわち朝帰り。シャワーだけ浴びただけで出てきたのだ。
私はなおも掴みかかる。百八十五あって体重も八十ある鍛え抜かれた身体をしたこの大男に腕力で勝てる女がいるはずもない。――だけど、私のほうが強かったりする。左のボディブローを入れ、左のフックを見舞う。愚直に踏ん張り倒れないあたりがこの男の力強いところだ。「いてーだろうが、このっ!」と右の肩を掴まれた――その左手を右手で絡め取り、関節を極めた状態で背後に回り込む。相棒は「いででででっ!」と喚き拘束から逃れようとする。私は腕を捻り上げたまま、耳元で「次、ほかの女と寝たら殺すよ?」とささやいた。「殺しやがったら、もう俺とはできねーぞ」と返答があった。
「ま、そうか」私は目線を少し上げ、さっぱりと言う。「それはまあ、そのとおりだね」
どんと背を押し解放してやると、相棒はたたらを踏み、それからアスファルトに落ちていたアメスピを拾い上げ、口へと戻した。なんともばっちぃ。
「私という女をあらためて叩き込んでやるから、ウチに来な」
「とっとと連れてけよ、バカ」
バカにバカと言われて腹が立ったので、もう一発、殴ってやった。
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セーフハウスに戻った。「シャオ、ただいま!」と大きな声で帰宅の旨を告げる。返事はない。妙だ。まっすぐ続く廊下の先、寝室のドアが閉じている。普段は開け放ったままだ。閉める理由がないからだ。なにかある? 否、なにかすでに起きている? だけど、ここは「私のセーフハウス」だ。セキュリティは万全だ。唯一、穴があるとするならそれは、だからって、まさか……。――そのまさかだった。ドアを開け、目にしたもの。それはベッドに立つ三人の男だった。いずれもチンピラのような風貌。揃ってこちらに拳銃を向けている。私と相棒を挟み込むようにして、左右からも一人ずつ近づいてきた。ベッドの隅にはシャオの姿――。
両手を上げる。相棒も。相棒に「迂闊なこったな、おい」と指摘された。「どういうこと?」と訊ねると、シャオはベッドから下りて泣きだしそうな顔のまま「ごめんなさい」と頭を下げた。どうしてだろう。相棒と来たら「やっぱそうか」と得意げな顔。「おう、女、テメー、鼻くそみたいなチャイニーズマフィアの構成員だろ?」と言い、「あの夜はヤられんのが怖くて逃げちまったが、結局は帰ることにした。そこにどういう理由があるのかは知らねーが、手土産がこのバカ女ってわけだ。違うか?」と続けた。私は眉をひそめる。「なんであんたがそこまで知ってるの?」と訊いた。「元刑事の勘とコネをナメんじゃねーよ」ということらしい。
シャオのケータイは私が与えたものだ。だから先方から接触してきたわけではない。シャオから連絡したのだ。私は身分までは明かしていない。でも、名は教えた。それだけで素性を知られたということなのだろう。素性――言ってみれば、私たちは「彼ら」の「天敵」だ。隠密性には重きを置いているものの、存在を知っているニンゲンはいる。始末できるのならしたい――「業界人」の総意だろう。にしても、名前だけで身分等々がバレたとなると……相棒は「鼻くそみたいな」と言ったが、そうでもないのかもしれない。
あらためてシャオを見る。すると消え入りそうな声で「組織に恋人が……」と言った。その一言で理解した。なるほど。だったら帰りたいと思うだろう、否、帰らなければと考えるだろう。ツレをエサにされ、すべて白状したというわけだ。しかし、そうなると、用が済んだ時点でその恋人は……否、その限りではない可能性もあるけれど……。シャオが鼻をすすった。一つ、こくりとうなずいた。「もう殺した、って……」――やっぱり。
相棒が「チッ」と舌を打った。このタイミングでの舌打ち。意味がある。3、2、1で状況開始。私は至近距離の相手の右手――銃を持った手を捻り上げつつ背後に回り込んだ。人質にしようと考えた。でも、ベッドの上の連中が次々に発砲してきたものだから即席の盾にしかならなかった。盾のせいで見えないけれど、相棒もきちんと一人潰したらしい。「じっとしてろ!」という大声は残りの三人に向けたものではない。私に向けたものだ。「俺に任せろ!」と声高に謳ったのだ。相変わらず無計画で無鉄砲な奴。だからこそ私の口元には小さな笑みが浮かぶ。ベッドの上の連中はみな相棒の動きに気を取られ、その隙に私は盾を捨て、盾が落とした拳銃を拾い上げ、ヘッドショットを決める。ちゃちゃっと二人沈めた。残りの一人は相棒が殴り飛ばした、はい、状況終了。
シャオに目をやる。どこに隠し持っていたのか、小さなナイフを喉元に当てている。がたがたと震える手。わななく唇。とめどなく溢れ出る涙。私は慌てることはせず、ただひたすらに悲しい目を彼女に向ける。
「シャオ、いいのよ。あなたの行動は間違ってない」
「でも、裏切ってしまいました。あなたを、裏切ってしまいました」
――相棒がベッドを下り、シャオに近づき、柔らかな手つきで彼女からナイフを取り上げた。「オメーが死んでも誰も喜ばねーよ」と告げるとこちらを向いた。「いいな?」と訊かれたので、私はうなずいてみせた。マフィアに居場所を知られたわけだ。もうここにはいられない。だったら後始末は警察に引き継ぐのが理想的で最善だ。いっそ堂々と踏み込んでいただこう。ああ、いよいよこのセーフハウスともサヨナラか。気に入っていたから残念。
私はシャオのことを抱き締める。構成員とはいえ、都合のいいように使われていただけなのだろう。「夜のお仕事」がメインだったのかもしれない。だったらさて、どうしたものかと考えたところで、相棒が言った。「ご退場いただこうぜ。シャオだったか。おまえみたいな女に狂った世界は似合わねーよ」。するとシャオはまた大きな声を上げて泣きじゃくり――。
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新しいセーフハウス。さんざん抱き合いたがいに疲れ果て眠り、ケータイがジリリリリッとベルを鳴らしたところで目が覚めた。
「だーっ! うるせーっ!」隣で勢いよく身体を起こしつつ、相棒が怒鳴った。「アホか、テメーは! もっと静かに起こしやがれ!」
「あんたの声のほうがずっとうるさいよ」
ケータイを操作し、ベルを止めた。
相棒は噛みつくようにアメスピをくわえ、火を灯した。
「灰でベッド汚したら殺すから」
「わぁってるよ。ったく、テメーって奴はどうしてそうもうっとうしいかね」
「愛してるって言ってる?」
「ああ、そうだよ、くっそ」
「かわいいなぁ」
「黙れってんだ」
私も身体を起こした。背もたれクッションに背中を預けたところでケータイが鳴った。メールだ、画像付き。差出人は――。
「誰からだ?」
「気になる?」
「ならねーよ」
「シャオから」
「あの女か」
「見なよ」
相棒にいっそう身体を寄せ、ケータイの画面を見せた。相棒がぷっと吹き出した。「あははっ」と楽しげに笑った。
「あいつは農家に転職したのかよ」
画面には白黒の模様がかわいい子牛と顔を寄せ合っている彼女の姿――彼女の愛らしい笑顔が映し出されている。