3.31
一部の人間が大変な悲しみに包まれようとも世界はいつも通りに回っていく。
目の前に積まれた書類の山が俺の状況を加味して低くならないのはその為だ。
悄然としつつも山崩しに挑んだが、書きにくさに早々ペンを置く。右手での筆記に使われ続けたペンというものは左手で書く方向に動かすと掠れてしまうのだ。以前サンドウィッチ皇子に返事を出した時に用いたものも、既に右手の癖がついてしまっているので結果は同じだろう。
このままではいつ終わるとも知れない。悲しみも癒えない。王都から出て少し馬を走らせれば辿り着く、気持ちの良い風が抜ける丘に行きたい気分だ。
執務室から厩舎まで人目を忍んで行く為の経路を探っていたら、頭を叩かれた。
「本日に限り決して逃しはしません」
「八つ当たりはどうかと思う」
「正当な対応です」
「…城下の西地区の奥の方に菓子屋ができたんだって。この前リナが言ってた」
「書類が残っています」
「保存処理したやつだけどマスカットのケーキがあるそうな。あと、テイクアウト可」
大変胡乱な目を向けられる。が、仕事をする気にもなれないので脱線を続ける。
「ついでに、以前遊びに出た時持ち運べるティーセットを衝動買いしてだね」
「…何が仰りたいのですか」
「その時一緒にいたカトレヤに変装用具一式買うように仕向けられてっ」
話の最後まで言えずに叩かれた。
「自分で言うのもなんだけど本人より従順で愛らしい演技が出来、武器の使用はいけないと思う!!!」
「実物より良い対応をされてご覧なさい、如何に本物が酷かったかを再認識するだけでしょう」
「その鈍器は不条理な現実に向けるべきであって俺に振りかぶるべきの物ではないはずだ」
「忌々しいものの代わりになると言うのですから、この打撃も受けていただくのが当然と言うものでは」
それもそうか。では変装オプションはなしで。
「ピクニック行かない?!」
「書類が、」
「いつもの茶葉の受け取りのついでに」
振りかぶるのに丁度良い長さ・重さ・形状の文鎮が定位置に戻る。
「駄目にしたインクの補填を考えるのも必要だろ?絨毯は流石に重いから別にして」
「…それは他の者に任せればよろしい」
「いや…正直に言うとちょっと新しいペンが欲しくて」
今日はいい天気ですよ。風も程良く陽光爽やか。買い物にピッタリの気候ですし、終わったらあの丘の上で微睡むのも談笑するのも宜しいのではないでしょうか。
「左手専用に使おうかと。こう言う事態に陥った時に備えてさ」
「陥らないように努力すべきではありませんか」
「それはそれとして現状書類が進まないという問題を解決するにはペンの新調をするしかないのでは」
何でしたら不平不満苦情文句その他諸々愛憎渦巻くお言葉の聞き手になります。
いかがでしょう?
「…帰ったら、必ずこの山を片付けるのですよ」
「よっしゃやった着替えて来るから待っとれ…あ、顔の包帯外してこ。あ、馬。お前最近乗ってないっけ何処にいる」
「ご自分の支度の心配だけなさい。あと騒がない、勘付かれます」
久々の勝利に足取りも軽くなる。私室へと向かう為の扉を開く。
「ーーーうわっ」
「あら随分なご挨拶ですこと」
静かに閉めようとした戸は、すっと差し込まれた華奢な爪先によって固定された。いつの間にそんな技を。
「楽しそうですわね。どこかに行かれるのかしら」
「やだな仕事があるのにそんなことできるわけないだ」
「今日はいい日和ですわね。ピクニックに最適な?」
色々聞こえていたようである。
「…用事は何だい、リナちゃん」
「そうそう、この前お伝えしたお店、最近リンゴのタルトを新作で出しているそうですのよ。それでしたら陛下もお召しになれるかと思ってご一緒できる日取りがないかお尋ねしたかったんですの」
いつの間にかリナは部屋に入っており、俺は壁際に追い込まれている。
言いようの無い危険を感じて助けを求めるが、共犯関係にあるはずの人物は明後日の方向を向いている。裏切り者。
「私、もしかしたら陛下とご一緒できるかもしれないと、今日まで行かずにおりましたのよ?」
「そんなこと言われたらとても嬉しくて声が震えちゃう」
「陛下」
流麗な仕草で壁に両手をつき、にっこり微笑んでくる婚約者は今日も大変美しい。彼女と壁の間で俺が縮こまっているのはその幸運の重さに押しつぶされているからであろう。
「例えばカトレヤ様やアカンサ様やあなたの従姉妹方お城のお勤めの方々もしくは私の姉達やラルゴ様が同行してということなら構いませんのよ」
「後半については色々構って欲しい特に最後」
「あちらの方だけは許しませんわ」
笑みは深まり眼光は鋭くなる。死神の鎌が研がれて鋭くなるのを見るのはこんな気持ちであろうか。
「いや知っての通り彼奴はあ」
「許さないわ」
そういう台詞はそんな穏やかな声で言って欲しくない。
「私あなたの王妃になるのよ」
「俺にとっての僥こ」
「妃は王の筆頭の家臣のはずだわ」
「頼もしい限」
「許さないわ」
薄紅の瞳には俺しか映っていない。嬉しい事態であるはずなのに喜べないのは何故なのか。
「私負けませんわ」
「何の勝負」
「負けませんから」
どうも俺に言っている訳ではないらしい。宣戦布告の相手に視線を送…
いない!!
「彼奴逃げやがっ」
「ジスト?」
最も珍しい呼び方をされてしまった。ついでにしなやかな指が上下の唇を閉じた形で固定してくる。
「お仕事が残っているのでしょう?その手ではなかなか難しいでしょうからお手伝い致しますわ。どうしてそんな怪我をなさったのかも一緒に教えてくださいませ」
返事をしようにも顔が僅かにしか動かせないので横には振れない。ゆっくりと静かに縦になら動けた。
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度の強い眼鏡の奥からの視線はいつも通り。
「オークス様、もう少々お待ちくださいませ」
「お急ぎ頂かなくとも結構でございます。通常よりも早くお預かりできそうですから」
側の体温は異常事態。
筆記用具を握れない右手の代わりを務めるリナリアがすぐ隣にいるのである。書面を俺に確認させ記入事項を聞き取るためという名目で、大変距離が近い。今日の香水は2年前の婚約記念日に贈った物のようだ。いたく気に入ったようで出来ることなら何度も贈れれば良かったのだが、生憎と一点物。そう説明したら特別な用事にしか使わないと宣言された記憶がある。
「陛下、きちんと読んで頂かないと書くものも書けませんわ。それとも見えませんか?」
「気遣い無用、もちっと離れても明瞭に見えるとも」
何なら部屋の端から端の距離でだって見えるという言葉は飲み込んで、大人しくリナが差し出す書類に目を向ける。先の教伯毒殺事件の調査の途中報告だ。
ぱっと視界の中に鈍い光が見える。
「こ、婚約指輪までしてる」
「そのようなことは記載した覚えがありませんが」
「やはり遠くて見づらいのかしら」
「近すぎて逆に見えなうわ嘘だろイヤリングもかよ」
雫型の紫水晶の飾りが揺れる。こんにちは、何年振りだい?
「てかもう読んだ、了解した、引き続き侯爵並びに侯配と連携して前侯と彼の商会の接触がないかを探るように」
「書面で回答をお願いします」
「お任せくださいませ。私今文字通り陛下の右腕ですのよ」
胸を張る仕草でそれとなく手で示された位置に目をやれば、イヤリングと揃いで渡したネックレスがある。
戦況の悪さに頭を抱えている内に記入が終わったらしい。オークスが書類を受け取って俺の方に向く。
「執政官殿はいずこにおられますか」
「余が聞きたい」
「その方にご用事でも?」
「いえ。状況の説明をしていただこうかと思ったのですが」
「うふふ。見ての通りですわ」
よくよく見れば化粧もいつもと少し違う。柔らかめで明るい色合いで纏めているらしく、年相応の愛らしさを引き出していると言えよう。
結論。俺の大敗である。
「逢引きの約束を忘れて執政官殿とお戯れになっていましたか?」
「当たらずとも遠からず、というところかしら」
「約束はまだしてない。問題は、その約束を取り付けようという時こそ手の込んだ支度をしてくるという予想外のいじらしさが、あるかどうかもわからない良心を痛めつけてくること…」
「なるほど。私めはお邪魔でしたか」
「いられると居た堪れないが二人きりもキツイのでもう少し止まらないか?」
「馬に蹴られたくはありませんので」
「其方は酷い勘違いをしている。これを睦み合いと取るなど誤解も甚だしい、おい待て待てと言って、王の言葉で止まらぬのなら其方は何で止まるのだ」
立ち上がって追いかけることも出来ない。1人では十分にゆとりがあったとしても2人掛けを想定されていない椅子である。要はリナにつかえて降りられない。
…こっそり立ち上がって距離をとれないだろうか?
「陛下」
「お許しください出来心だ」
「立とうとなさったことを咎めているのではありませんわ。カトレヤ様のことで」
何を怒られるというのだ。インク瓶破裂の顛末は既に叱られ済みだろうに。
「気落ちなさってませんこと?教伯はお父様の様な存在でしょう」
「ああ…まあライラックもラルゴもついてるし取り敢えずは平気だろう。アカンサ嬢も良く付いてくれていると聞いているし」
「もう少し様子を見るなり側にいるなりなさったらいかが」
「………えぇ…?」
イベリスと外出するのは許さないのに?
「ご友人でしょう?その役目を果たすべきですわ」
「俺の役目は前侯を取っ捕まえることだろう」
「あらあらそんなこと仰って、もう…」
こちらを向いて溜息を吐かないでほしい。首に、かかる。
「あなたは小さい子に懐かれるのに肝心なところで冷たいんですから」
「小さいって程小さかないだろ」
「どうしてこの方が懐かれて私は少し遠巻きにされるのかしら。動物もそうだけれど」
俺の場合雑に扱われているだけな気がするが。
「どうせ執政官様は弁済のインクや敷物の手配に出られたのでしょう?お渡しになるときにカトレヤ様と遊んでさしあげなさいな」
「国王はそれなりに忙しいんだが」
「それなりなら私が代わりに政務を致します」
「絨毯って重いんだぜ」
「ではインクのみを」
「何でそんな勝手んっ!!」
文句を言うための口が塞がれた。
「ーーーーいきなり何すんだ!!」
「私、歌巫女様のファンですの。心配でたまりませんのよ」
「暇潰し用に婚約者を差し出す奴があるか!」
「お願いしましたからね?」
「…は?!今のその為??」
報酬先払いというのは如何な物か。断れないじゃないか。
矢鱈と震える手でハンカチを探っている間に、リナは椅子から降りて退出の構えをとっている。確かに書類の山は粗方片付いたが、このまま帰られたくはない。
「ではよろしくお願い致します」
「一寸、」
「大きなお声を出さないで。人が来たら困るのはあなたでしょう?」
では、と簡単な言葉だけ残されて置き去りである。
とは言え彼女の言う通り、誰かが来たら困るのは俺だ。
そっと机の引き出しから鏡を取り出し、口元にハンカチを当てる。この処分も考えねばならない。拭ったものは洗っても落ちないのだ。
「冷え切った水を溜めた桶に顔を突っ込みたい…」
そんなことをすれば大騒ぎになるに決まっているので、そっと開いたハンカチを顔の上に乗せ椅子に横たわる。
…結果、埋葬を待つ人間の様になり漏れなく大騒ぎになったけど。




