3.2
カクンと首が動いて意識が戻る。
手元を見れば、見事なインクだまりが紙の上にできていた。書き直す気も起きないのでこっそり処理済みの書類の山の中腹辺りに忍ばせようとする。途端、大きな手に阻まれる。
諦め悪く、掴まれた左手に持っていた書類を右手に渡して山を目指す。同時にイベリスも、俺の左手を掴んでいた手を入れ替え山へ向かう手も拘束してきた。
言い換えると、座っている後ろに回られて両手を拘束されている状態である。何だこれ。
上手く回らない頭を働かせるのは諦めて、掴まれた腕をブンブン動かす。ブンブンと言ってもぼんやりしているせいで速度はひどく鈍いが。
「離せぇ~~~ぇ」
「…仮眠をとりましょう」
「仮眠で済まなそうぅぅぅ持ち上げんなよぉ…」
降ろせとべしべし叩くが腕の下から回された手はびくともしない。
椅子から引きずり降ろされ来客用のソファに放り投げられる。
「おにいさまがらんぼうする」
「馬鹿なこと言ってないで少し寝なさい」
「自分が寝たいだけだなっ」
「私はまだ平気です。子どもは長く寝る必要があるものですよ」
「もう背も伸びないのに?」
「伸びるかもしれません」
「…服を仕立て直すの面倒だから起きるぅぅぅ~~…」
起き上がろうとしたら顔面を押さえつけられた。酷い。
あまりの仕打ちに少し目が覚めた。
「少し横になって目を瞑るだけでも違いますから」
「それは実力行使でさせられる類の物だろうか?」
「貴方様の場合は致し方ないかと」
「国王差別だ」
「貴方様個人の問題ですので王かどうかは関係ありません」
「ただの差別だ」
「いいから黙って目を瞑ってなさい」
これは下手に抵抗すると意識を強制的に刈り取られる可能性がある。
しかし。寝ろと言われて大人しく寝る気にもならないのもまた事実である。
眠い、眠いけど。なんか寝たら負けな気がしてきた。
「…貴方様を寝かしつけるのは大変骨の折れる作業であったことを思い出しました」
「いつの話してんだよ」
「ようやっと大人しく寝入り始めたと思った矢先に毎回あの阿呆が騒いで入ってきましたね」
「阿呆」
「何度ぶん殴ってやろうかと拳を握ったことでしょう」
「…実際殴ってたような?」
「手直にあった布製品を投げつけていただけです」
「ああ…殴り返してたのはあっちかぁ」
「ええ」
そんなこともあったなぁと考えていると瞼が下りてきた。見上げていた天井の代わりにあの日の景色が良く見える。俺が寝かしつけられている最中だとあの人が察した途端に小声での罵り合いと小規模な格闘に移行した2人を見て、なぜだか安心して眠りに落ちていった頃。
世界は天蓋に仕切られて、ほんの僅かな住人しかいなかった頃。
戻りたいとは願わないけどただ静かに慈しむには鮮やかな、夢――――
少々長く夢に浸りすぎたようだ。飛び起きたら日付が変わって結構な時間が経っている。
「くそっ…謀ったな…!」
「申し訳ありません。起こすのが忍びなく」
「欠片も悪びれずに謝罪を述べるんじゃねぇ!!」
「起きていらっしゃると斯様に可愛くありませんのでつい」
「17の従弟に可愛げを求めるなっ」
いいから早く座れとばかりに椅子を引かれるのでドカリと座り込む。
多少寝過ぎたが、先程よりは頭も回りそうだ。大きく伸びをしてペンを握り直す。
「朝議までに区切りをつける」
「あまり無理をなさいませんように」
「無理と馬鹿は若いうちにやるもんだ」
そう誰かが言ってたぞーと呟きつつ書類の山を崩しにかかる。そっと横に差し出された茶に礼を言いつつパラパラと紙をめくって文字を追う。量は多いが書かれた事項は共通している。
一通り目を通し終わったので一口茶を含んだ。ぱっと見は普通の紅茶なのだがふんわりと甘い花の香りがする。従兄殿が好んでいる茶葉だ。
「…やっぱりサンギネウスの領地が近いな」
「地図に起こしますか」
「そうだな…経路の候補も絞れそうだし、と」
イベリスが差し出す大判の地図を広げるために机を占領していた書類たちを移動させる。茶の方は地図と引き換えに渡しておいた。
ブリオニアの東部地方の地図。他の地区と同じく複数の家の領地があるが、中でもサンギネウス侯爵家の物が大きく目立つものだ。その上に報告書にあった地点に合わせて印をつけていく。
「こんなもんか」
「毎度ながら一度で覚えられるというのは便利ですね」
「国王を便利道具扱いすんなよ」
「サンギネウス領の中でもやや北東部に偏っていますね」
俺の抗議は聞き流して地図を辿る指は、東の隣国との国境まで動いて止まった。
「――ヴァステヴィルダ」
「…そうなるよな」
ううと唸りながら髪を掻き回す。面倒だ。面倒極まりない。
「東側の方が発生時期が早いですから、西へと行動範囲が広がっていると考えるべきでしょうか」
「何事も最初は手近で試すもんな。で、いけそうなら広げていくと」
「…その例えはどうかと」
それもそうかと思いつつ、時計を見て地図を畳むことにした。そろそろ朝議だ。
「仕度は何か口にされてからでも…厨房に頼みましょうか」
「いや、いい。奴らは軽いものを頼んでもやたらと多く出してくる」
「そうですか。では、こちらをどうぞ」
あまりのんびりもしていられないので朝食抜きで行こうかと思っていたところに皿に乗せられた真っ赤な果物が差し出された。
「…林檎?」
「ご覧の通りです」
「食べていいの?このまま?」
「皮むき用のナイフがありませんので」
「ま、丸かじりしていいと?」
「良くはありませんが致し方ありません」
「なんと贅沢な…!」
滅多にできない「林檎丸ごと1個そのまま食べ」に歓喜して手に乗せた赤い球体を眺めていると、じっと見つめられているのに気が付く。表情は何も浮かべていないが何を考えているかなんて手に取るようにわかる。伊達に17年近くこいつの従弟兼監視対象をやっていない。
「『普通、王城勤めの料理人が手を加えたものを有難がるべきで無造作に置かれた果物1つでそうも動じるのは如何なものか』?」
「惜しいですね。『それはともかく子どもの頃から1ミリも変わっていない』が後に続きます」
「何を言うか、あの頃とは大きく違うぞ」
一体どこがだという視線に堂々と胸を張って答える。
「子どもの頃は丸々一個は食べられなかった!!」
だが今は食えると続けようとしたら、突然俺の頭を撫で始めた。
なんだってんだ。何をそんな上機嫌に人の頭を撫でることがある。
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「人身売買?」
一頻り頭を撫でられた不満いっぱいのまま林檎を完食し朝議に向かった俺は、何よりも先に地図に起こした案件の話を取り上げた。
普段の朝議には参加しないが、この案件に関わるため呼び出されたチャービルが反応した不穏な単語がまさにそれである。
「ミネオーアの…サ、サン…サンドイッチ皇子」
「――サントウィラード第五皇子」
「そう、あの皇子から情報提供があってだな。ミネオーアの北部…要はヴァステヴィルダとの国境近くの村や町で行方不明者が増えてると。もともとヴァステヴィルダには人買いの噂があったろう?」
「それだけで決めつけるのは早計では…」
「うちの東部でも最近失踪人の数が増えてる。それもサンギネウス家の領が近い」
彼の侯爵家の名を出した途端、教伯の顔が微かに強張る。
対照的に表情を1つも崩さないオークスが俺の言葉を拾って問いかけてくる。
「前の領主は確かに後ろ暗いことに関わっている疑いの強い人物でしたが、当代は別でしょう」
「先代が追い出されて大人しく干からびてくれてれば特に心配する必要はないんだがな」
「…何か動きが?」
「何とも言えん。ただの世代交代って体で追い出させたからあまり監視を置けてない。そこでだ、クローブ教伯」
「――サンギネウス領と付近の教堂から情報収集をしろということですね。目立たない様に気を付けますが…カトレヤのこともありますし警戒される可能性が高いかと」
「それならそれでよし、逆にそれで行方知れずの届け出の数が減れば疑わしきは罰するで行く」
「“罰せず”です、陛下」
「余が法だ、オークス」
眼光が鋭くなったオークスの横で宰相がそわそわと体を動かしている。
「あまり無茶しないでくださいよ。私、心配で仕事が手につかなくなります」
「余が今まで無茶をしてきたことがあるとでも?」
「ダメだそもそも無茶の基準が違う…イベリス、止めなさい」
「私にそのような権限はございませんので」
「権限はなくても実行力はあるだろうに!」
きゃいきゃい一方通行の親子喧嘩を始めた宰相達には目もくれず、チャービルは組んだ手に力を込めている。それでも表情はいつも通り穏やかに見えるのだから、この男は食えない。
「早い段階でお話しいただけたのはありがたいですが、今後こういったことを我が家に伝える時は先ず私にお伝えください」
「…今後も何も其方に一番に伝えているしそれが筋というものだろう」
「ラルゴに、話したのではないのですか?…思いつめたような様子でいたのでてっきりこの話を聞かされたのかと」
「思い詰めた様子…」
まさかとは思うが。
「話しかけても反応が一拍遅れるんです。何か考え込んでいるようで…陛下、何かご存知で?」
…存じてはいる。だが、ここで言ったら色々と不都合しかない。
だから、さぁと曖昧に濁して宰相親子の口論を止める姿勢をとる。他にも話し合わねばならないことがいくつかあるのだ。切り上げたとしても不審には取られまい。
暫くはあの教堂には近づかない方が身のためだと思いつつ、避けられない用事があるのもまた事実。ただでさえ面倒なことにさらに面倒なことが重なってしまったらしい。
そのことに溜息を吐きつつ、表向き言い合いをやめない親戚にうんざりした表情をとって声を張る。
「一旦この話はやめだ!次、次の話に行くぞ!!」
後はいつもと同じだ。俺を通さないとならない案件を聞いて、俺を通さなくてもいい案件の結果を聞く。即位してからの数年間は年少なことと寝込みがちだったこともあり、基本的な運営は国王がいなくても成り立つようになっている。
なら国王がいなくなってもいいような気もするのだが、そういうと大半の人間から咎められ、一部の人間からは怒鳴られ、ごく一部の人間は無言で制裁を加えてくる。咎められるのも怒鳴られるのも慣れっこだが無言の制裁は心臓に非常に悪いので、「さっさと隠居したいな」くらいに言葉を留めている。留めても思っていることはばれるので、結局制裁は受けるが。
「では、本日の朝議は以上ですね。法案改正の会議がありますのでお先に失礼いたします」
オークスがさっと退室する。
彼女は公爵家の出ではあるが初めから官僚になるつもりで登城し、並み居る求婚者や足を引っ張ろうとする同僚、若い娘が政治に参加しようとすることに苦言を呈したい老若男女ほか、己の道の上に現れる邪魔者をそもそも邪魔者と認識することもなく眼中に入れずひたすら突き進んできた。その功名か、やたらと歩くのが早い。退室を申し出る彼女を引き留められる者はもうこの国には存在しないくらいに。
――ねぇ。少しだけ時間を頂戴。貴方に見てもらいたい物があるのよ
不意に、オークスの足さえ止めた風の音が聞こえた気がして慌てて頭を振る。
最近頓に蘇るのは、あの絵を見たからか。それともサンギネウスのことがあるからか。
「どうなさいました」
「別に。少し眠くなっただけだ」
チャービルから気遣いの言葉をかけられ、嘘というわけでもない言葉を吐く。実際眠気はある。ここ数日スケジュールを詰めてサンギネウス領とヴァステヴィルダについての資料を見ていたせいだ。仮眠は取ったがそろそろ自主休業して丸一日寝たいところである。
「体を休めたいと仰れば調整しますから、自主的に休もうと仕事から逃れないでください」
「お加減が悪いのですか?」
「休みたいと言うとこの堂長の様に体調が悪いのではないかと様子伺いの連中が大挙して押し寄せて眠れなくなるから嫌だ」
「寝てらっしゃらない?」
「仮眠はお取りになりましたが数時間です。朝食も果実1つだけと大変簡単に済ませておいでです」
「なんてことだ、そんなんじゃ体壊しちゃいますよ陛下!!お前もなんで止めないの!」
「宰相殿、煩い」
「その通りでございますね」
息子と甥がひどいと泣き真似をする宰相を横目に、チャービルは相も変わらず心配そうに俺を見ている。いつも罵詈雑言を浴びせてくるくせに、こういう様子の時は梃子でも心配をやめない。
「宣誓の儀の打ち合わせを少しずらしましょうか?」
「婚約者殿の予定もあるからそれはしたくない」
「しかし、先ほどの件もお調べでしょう。無理をなさって熱でも出たらそれこそ予定外にスケジュールがずれて大変迷惑です」
「本音は隠すものでは。あと、熱でても動けるからな。それは杞憂だ」
「……どう言えば思い通りに動いていただけるのでしょうね」
はぁと溜息を吐いて引き下がる人間の言葉の意味が分からず首をかしげる。俺を思い通りに動かせるとしたらこの国の手綱を握ったようなものだと思われるかもしれないが、実際は要所要所他の人間の承認などが必要なのであまり好き勝手はできない。要は、俺を思い通りに動かすということに何ら利点を見込めないのだ。
「其方の望むことは良く分からんな」
「そうでしょうね、陛下は何もお分かりになりませんから」
「そうだ、話は変わるが先ほどオークスが言っていた改正法のことなんだがな」
「…はぁぁぁ~~…、なんです?」
「サンギネウス家での特例を通例にするための物だそうだ」
黒々とした瞳がこちらを見る。こう色味が濃いとどう物が見えるのだろうかと昔聞いたことがあった。笑いながら「きっとシオン様と同じように見えてますよ」と答えた人間は、どうしてかあの頃とさして見た目が変わらない。大きく変わったのは向き合う視線の高さくらいだ。
「…いささか、反発の多そうなものですね」
「構わんさ。着任の条件だからな」
そして、オークスは必ず成し遂げるだろう。彼女が喪したものはそれだけ大きい。
「だからな、教伯よ。そのうちサンギネウス候と話し合いになると思っておけ。義妹君のことをひどく案じているようだから」
「…本人には、話していらっしゃるのですか?」
「この後行くときに話そうかと思ってな。先に其方は知っておいた方がいいだろう?
――それとも、其方の方から本人に話したほうがいいかね」
そうですねと言って少し目を伏せる姿を見て、親子というのはこういったところも似るのだなと何となく思った。




