1.5
カップの液面に映る自分の顔を意味もなく見つめる。濃紅に染められても見慣れたものは面白くもなんともない。せめて何か変化をつけようと細く息を吐いて吹きかけてみる。
「もう一度申し上げますわね」
やわく波が立って揺らぎはするが結局つまらぬものはつまらぬのである。しかし、もうこの意味をなさない行動しかこの苦境を乗り越える手立てが思いつかなかったのだから、致し方ない。風力に強弱をつけてみるとしよう。
「アカンサ様とお会いする機会をいただけませんか?」
ふーーーーーーーーっ
「コンクールに名を連ねるほどの腕前をお持ちなのでしょう?お話を伺ってみたいのです」
ふ~~~~~~…
「近い将来陛下を傍で支える大役を担うわけですもの、そういった分野にも造詣が深くなくては示しがつきませんわ。詳しいご友人がいれば浅学な私でも心強いのですけれど」
ふ、ふーー、ふ、ふ、ふーーー
「もう一度申し上げますわね」
ふぅぅぅぅ……
ため息とも言えるようなものを吐いてしまっても許されていいと思う。この一連の会話はループしてはや21回目である。その上、リナリアは「もう一度」といいつつなぜ会いたいのかの理由は毎回変えてくるし、なんだかんだで最終的に后として必要なんだという落としどころに持ってくるのだ。話の方向を変えるためのネタも早々に尽き、すでに熱を出し尽くした液体に無心でふぅふぅ息を吹きかけるしかなくなった俺とは大違いの会話力である。流石わが婚約者、どんなに口下手な相手にも糸口を見つけて会話を発展させ、最終的に弱みをにぎ、もとい、大層仲良くなると評されるだけのことはある。
だがもうそれなりに深い仲の我々であるからして、その実力を発揮せずとも楽しい会話ができるじゃないだろうか。むしろ発揮しないでほしい。息吐きすぎで若干酸欠になってきた。ついでに茶は熱い方が好きなので、冷めると非常に悲しい。
「リナリア嬢、今日の所はこれくらいにして差し上げてください」
「あらいやですわ、敬愛する陛下との会話なんですものまだ足りないくらいだわ」
「陛下は途中から一言も話していませんが」
「言葉がなくとも通い合うものがありますでしょう?」
「その是非についてはともかく。陛下が酸欠になりかけているようなので」
「まぁ」
そっと口元を隠して労し気にこちらを見てくるがこれは気遣いではない。それは可哀想にとっとと要求を呑めば楽になるよ?ということである。いや、かたくなに息を吐き続けて吸うタイミングを何度か逃している人間に対する憐れみなのかもしれない。先ほどの指の感触が、事実あったものなのかも分からなくなってきた。
「…もういい時間にもなりますわね、楽しい時間はあっという間ですわ。陛下、名残惜しいですけれどまた近いうちにお誘いくださいませ」
何ともきれいな礼をとって、ひらりとリナリアは庭園を後にした。残されたのは漸く思いっきり息を吸える安堵からテーブルに突っ伏する男とそれを掌で咎める男とその2人に早いとこどいてもらってテーブルセットを片づけたいリナリアの従者たちだけである。香水の余韻さえ残らないのはなぜだろう。
「もう少しましな気の逸らし方があったでしょうに」
「あの瞬間に思いつかなかったということはないというのと同義だ」
「そこまでお二方を引き合わせたくないのですか」
「其方も会わぬほうが良いと申したではないか」
「単に会話に骨が折れると伝えたかっただけです」
貴方様にはもっと切実な理由があったように見受けられましたと言われれば、確かにその通り。だが切実だからと言って確度が高いわけでもない話を巧いこと説明できるだろうか。
「あくまで推測に過ぎないが」
「構いません」
「あの御令嬢をリナに会わせたらそれはもう大層気に入って誰が何と言おうと余が抵抗しようと各々の家が反対しようと側妃にねじ込んでくるのではなかろうか」
「何を当たり前のことをおっしゃるのです。あの方が『年の離れた兄姉たちから散々可愛がられた反動で、自分より年下の人間を傍において姉のごとく振る舞いたいと常々思っている』と言っていたのをお忘れですか。」
リナリアは17。あの令嬢は14と言っていたので「妹」にはちょうどよかろう。ついでに小さくて愛らしいものが大層好きな人なので、あの小鳥を思わせる容姿と動きが追い打ちをかける気がする。先ほどの庭園でのやり取りでもやたらとその点を気にしていたのだから、「小鳥」なんて言うべきじゃなかった。大失態である。
「俺も一応年下だからそれで我慢してもらえないものかね」
「夫婦は姉弟とは異なりますでしょうし何より貴方様は『弟妹としての資質に欠ける』そうです」
「一体どういう流れでその会話になったのかはさておき、実際に弟という立場であったことがある上に妹にはなりえないのだが?」
「可愛げがないと思われているのでは。また、どちらにもなりえると思われているのでは」
「お従兄様、酷い!」
「若干『妹』に寄せてくるのはいかがなものかと」
普段よりもずっと高く柔らかな声としとやかな仕草でもって抗議をしたというのに「若干」の差しか認められなかったし、いい加減片づけたいからバカなことしてないでとっとと立ち去れという視線を数多受けるが、傷ついてなどいない。決して。
***********
俺の母は前セントポーリア公の末娘で、今の当主の一番下の妹にあたる。現公爵はデンドロビウム候の長女と教堂で宣誓をし、イベリスをもうけた。そしてリナリアはその侯爵家の末の娘である。したがって俺から見るとイベリスは従兄だし、イベリスから見るとリナリアは年下でも叔母にあたる。
別に血縁でもないが接点は多く、当時何かといろいろあったために交流できる人間が非常に限られていた幼い王に年の近い話し相手が宛がわれることも無理からぬことで。
要するに、
「其方とは長い長い付き合いになるわけだから、其方の決断力と思い切りの良さは十分に理解していたつもりだった」
昨日庭園で婚約者との気の休まらな、もとい、気の置けない会話を楽しんだばかりの国王は、私室の気に入りの椅子にやや姿勢を崩して腰かけている。
そう、ここは俺の部屋である。ついでに割と貴重な、完全に公務のない自由時間である。おかしい。ぷらぷら散策しても咎められない、愛してやまない時間だというのにこんなにも気が重いことがあろうか。
向かいのソファには2人の令嬢が座る。1人はもちろんリナリア。もう1人は、そう、お見込みの通り。相も変わらずきょとりとしている。肝が据わっているのか、何もわかっていないのか。
「陛下がお会いする機会を下さると仰らないんですもの、つい」
「つい、でここまで初対面の令嬢を連れ込んできた手腕には感服する」
「あら、簡単でしてよ?陛下の御姿を描きとどめる隙ができるかもしれない、と言葉の端ににじませだけですわ」
「主君を売るとは何事だ」
「出し渋るほどのものではないでしょう?」
「売ったことは認めるのか」
「口が滑りましたわ」
「認めないでもらいたかったのだが」
いっそ清々しいまでの売却っぷりである。この様子では成立してしまった商談をどうにかすることはできないだろう、この状況を乗り越える方向に舵をとらねば。
…はて、海路が見えないぞ。
「…デンドロビウム様、」
「リナリアとお呼びくださいませ」
「リナリア様。先ほどのお話なのですが、」
「私とお話している間、陛下が動くことなどお出来にならないように致しますから好きなだけ素描なさって?」
「しようと思えばできるのか」
「ほんの1日前の逢瀬を忘れられるなんて私悲しゅうございます」
なぜそんなにも自在に目から滴をこぼせるのか。心臓に悪いのでやめてほしいが、効きがいいと公言するのと同義なので決して言わない。言わなくともばれているだろうが。
「申し訳ありません、そのようなお話をなさっていたとは全く気が付きませんでした」
「――どういうことかしら」
リナリアがわずかに身じろぎする。感情の見せ方を心得ている彼女にしては珍しい。彼女の話を聞き流すような人間も、そんな愚を犯したと正直に言う者も今までいなかったのだから当然といえば当然の反応であるが。
「ご気分を害してしまい申し訳ありません。私、父にも何度も諫められているのですが、目の前に絵画に収めたいと思わせる魅力のある御方がいらっしゃるとつい筆をとりたくなって他に何も考えられなくなってしまうのです。リナリア様は大層可憐なご容姿でいらっしゃいますから、つい目を奪われてお話を聞きそびれた次第ですの。」
「可憐?」
目を見開いて驚きを前面に出す。珍事である。
「はい。妖精の翅や小さな鈴を連想させるその御髪に色づいたばかりの蕾色の瞳と唇、雪原の中で見失ってしまいそうな肌。可憐というほか何がありましょうか」
具体的なようで思い浮かべにくい例えだというのに、動きを止めたリナリアの頬は徐々に淡く色づいていく。驚天動地である。
どの程度起こりえないことのか伝えるためにあえて言うが、俺の婚約者はやや目元がきついとは言われようとも髪は月の光を受けた雨筋の如きだとか雪の精もかくありなんという肌だとか立ち振る舞い容姿すべてにおいて美しいとか、要は美人だと評され称えられ慣れている人である。したがって賛辞は浴びて当然の物なので、彼女が必要であると判断しない限り動揺が肌を透けることなどありえまい。というか見たことない。
「…そのように仰る人は初めてですわ」
挙句目を伏せて恥じらうなどいったい何が起こっているのだろうか。これが俺の言動の所為であればまだしも、実際は目の前に座る2人の間で起こっていることなので口を挟むのもおかしい気がする。俺は何を見せられているんだ。
「――陛下」
状況の把握ができずに固まる俺にリナリアがそっと視線を送る。心臓が平時よりわずかに速度を上げるのが彼女の顔色のせいであればよかったのに、これは来る不幸に対してのささやかな警告でしかない。
「アカンサ様のことは私にお任せください」
「何も任せるべきことはない」
「陛下の御心は存じておりますの、ご安心なさって」
「知っているからこそ、其方は真逆に行動できるのではないか」
「陛下、」
己の名が会話に挙がっているというのにきょとりとしたままの小鳥から離れ、俺のそばに寄ったリナリアはそっと耳打ちをする。
「…この方を側妃にしないというのなら私、貴方様との宣誓を考え直します」
「普通『するならしない』、ではないか?!」
予想していたとしても衝撃と言うものはやってくるのである。目付け役がいないとはいえ懐に入れたわけではない令嬢がいるために必死に被っている国王の皮も剥がれんばかりである。耐えたが。小声で悲壮感たっぷりに叫ぶのはなかなかコツがいるので試してもらいたい。
言いたいことを言いたいだけ言ったリナリアは、平然と俺の疑問を無視し、ソファーの方へ向き直る。
「アカンサ様、甘いものはお好き?」
「毎食では困りますがたまにあると言われるとうれしい程度には好きです」
「お時間よろしければ私とご一緒なさいません?とても美味しくて、誰かにお勧めしたいと思っているものがあるのですけれど、陛下は甘いものを好まれないので」
「まあ、代わりを務めさせていただけるのですか?光栄です」
「では陛下、ごきげんよう」
「失礼いたします、陛下」
効果抜群の脅し文句に動けない国王に対する挨拶もそこそこに2人は去っていった。
・・・最早何を対象にしていいかわからないが、怒ってもいいだろうか。