2.28
一向に降りてこない人間にこれ以上何を言っても埒が明かないだろう。折角ビンカやホスタを巻き込んで洗い立てのシーツまで犠牲にしてまで用意した舞台をこうも無碍にされるとは思わなかったが、これ以上譲歩してやる必要もない。俺は寛大な王ではないし、寛容も度が過ぎれば甘くみられる。王は最低限、臣民から畏怖されねばならない。未だ嘗てされたことはないが、舐められるよりはましだろう。すでに舐められていたら開き直るしかないが。
ともかく正規の手続きをとるためにこの領地の責任者に話をつけようと、先ほど何やら言い募っていた姿を探す。…見当たらない。おかしい、あんなにでかい人間をそうそう見失うわけがない。
視線を巡らせば、先ほどの芝居の出発点にまだ膝を折ったままの姿勢でいるホスタが上を見上げてぽかんとした表情――オクサリスに言わせれば平時と変わらぬ無表情――をしているのが見える。その視点を辿って同じように上を見上げれば、
「奥歯をかみしめておれこの軟弱者!!」
などと俺の張り上げた声とは比べ物にならない地響きのような銅鑼声が聞こえ、同時に人一人を抱えた巨体が振ってきた。それもシーツの山から幾分か離れた所に。
俺が一人で喋り続けている間にソリダスター伯はベラトラムの元に向かっていたらしい。あの巨躯に追いかけられれば反射で逃げ出すだろう、着地点が俺の物とずれていたのは抱えられたまま震えている人間の逃走によるものの様だ。
そうしてそのずれた着地点からどすどすとこちらに移動してきた御老体は、抱えていた者をぺいとその場に放り投げた。この男は暴れ牛もこんなふうに運搬して投げるのだろうかとどうでもいいことと、ベラトラムが息をしていないのではないかという割と困った予測が頭をよぎる。小刻みに震えているのが見えたので、とりあえずは生きているらしい。
「さあ陛下、思う存分剣を振るってくだされ!!」
「…そこな腰が引けて戦意の欠片もない人間に向かってか?」
「なんと!舌を噛まぬよう助言したというのに吾輩の情けを無駄にするとは!!」
「いや舌を噛んだらこうはならんだろう」
単に大柄の老人に担ぎ上げられ3階の高さから落下したのが怖かっただけだと思う。
しかしこの老人、なぜあの高さから落ちて元気に地面を蹴りつづけられるのだろう。憤るのは構わないが、大地を陥没させるのではないかという勢いでそれを表現するのはやめてほしい。土煙凄い。咽る。
「ごほっ…どの道っ、ぐ、もう『剣の裁定』をするつもりはな……げほっ、ないか、んんっ……ないから、ごほごほっ、ぐっ、おいやめんか息ができん!!!」
咳き込んだ結果涙目になった主君の必死の命令にようやっと地団太を止めた伯爵の足元には深さ数センチの窪みができている。正確に同じ位置に着けていたらしく、幅はそれほど大きくない。あの土煙も納得の陥没を見て、やはりこの男とは関わらない様にしようと固く自分に誓う。
だが、この誓いは立てられてすぐ破られねばならない。
「デルフ=ソリダスター」
確か父王に忠誠だか何だかを持っているとの申告を受けていたので、常の仮声ではなく地声で紡ぐ。即座に反応して片膝をついた伯を見て、この判断は正しかったと安堵する。声が一緒だと感激のあまり暴れ牛を追加で持ってこられたらどうしようかと心配していたのだ。
兎も角、勅命の体は取れたようだ。形式というのは大事なもので、俺がヘラヘラお願いをしても大抵聞き入れられないことも国王の命令なら大体聞いてもらえる。全部ではないところがきっとこの国の長所なのだろう。前もその前も、今に至るまでの面倒事が生まれた原因に王の命令を余すことなく聞き入れたことがあると俺は思っている。
「早急に王城へ使いを。この者への沙汰を決めねばならん」
「御意」
それなりに体力を奪われる会話を覚悟していたので一言で片がついたことは幸運というべきか。
ささやかなれど重大な幸福に若干感動していると、筋肉の量からは到底信じられない俊敏さで伯が立ちあがった。筋肉は重いと、王城の書庫の2階の右から7番目入口から4番目の位置にある棚の3段目の左から18冊目の本に書いてあったのに。
「ではいって参りますぞ!!」
「余の話を聞かんか使いを出せと言ったのだ」
「我が領で最も疾く駆けるハーゼを御せるのは吾輩のみであります故、早急にとのご用命を叶えるには吾輩自ら使者となるのが最善かつ最良の方法かと!」
運が良かったというのは気のせいだった。そもそも俺はアルディジアに見離されているのだから運がいいわけない。いいのは悪運ばかりである。
「其方の孫娘が使っていた最速特急なるもので十分だから、其方は余の城に近づくでない」
「最速特急部隊はアカンサの所有であります故、吾輩が使うわけにはまいりません。そして近いうちに陛下の下に参じようと思っておりますので王城に近づくなというご期待には沿えません!!」
「参じようと思って参じられるものではない。というか来るな、これは厳命である!!」
「はははははっ、義理とはいえ祖父になる相手にかような遠慮は不要ですぞ!!」
「遠慮は其方にこそ必要なものだろうがっ!その馬鹿みたいに頑強な足腰で歩いてみろ、王城に辿り着く以前にはね橋が壊れるわっっ!!」
「なんとっっ!!!!」
胸を打たれたように大きな手をこれまた大きな胸板において伯が項垂れる。急に心臓発作でも起こしたのかと、そっと様子をうかがうと大粒の涙をボロボロこぼしていた。意味がわからない。
「どういう情緒なのか説明してもらえるかね」
「感激至極にございます……っ今のお言葉が…最期にコリウス様に賜ったものとそっくりそのまま同じでございます故……!」
意味がわからない。
「やはり陛下は我が剣を捧ぐに相応しい御方であります……っ!!!」
「意味がわからない」
ついに口に出してしまった。だって本当に意味が分からない。
頭が理解することを拒否し始めたので、命令先を変えよう。
「ヴィンクル=ビンカ、王城への使者を手配できるかね」
「ご歓談の間に手筈を整えておきました」
流石は「気が利くが見る目のない中間管理職」、仕事が早くて助かる。今後は「気が利いて仕事も早いが見る目のない中間管理」の称号で呼ぼう。
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気が利いて仕事も早いが見る目のない中間管理が手配した使いが王城に向かった後、正体をばらした国王が騎士団にいるわけにもいかないとソリダスター家の屋敷に案内された。今回はきちんと「案内」であったので、俺の些末な「王の威厳」とやらも守られただろう。
もともと夜のうちに伯爵家の馬を拝借するか適当に辻馬車を捕まえて帰るつもりだったのだが、王城へ使いについでに俺を持ち帰る人員を用意してこちらに寄こすよう手配されてしまったようだ。勝手に帰って入れ違いになった場合、配送員が誰かによって生命の危機に瀕することになる。したがって今夜は帰れないのでこの屋敷に泊まれるよう交渉しなければならない。だが、いくらソリダスター伯爵の屋敷がそれなりに広いとは言え、一向に王都に帰らない「姉」と「妹」のために客室が埋まっている可能性もある。
前を歩いて案内をする家令と思しき男に、それとなく敷布の予備の有無を聞いたら変な顔をされた。流石に床に直で眠るのは憚られる。日頃敷物にしているマントを今は身に着けていないのだから。そういったらさらに変な顔をされ、そっと屋敷の見取り図を渡される。部屋は沢山あるということだろうか。意図がわからず取りあえず眺めた見取り図から、向かっているのが昨日の甘味地獄の現場であることがわかった。口の中の記憶がよみがえりつい顔を顰めてしまう。それを見た家令はもっと変な顔をした。
そうして2日続けて同じ部屋に案内され席に着いて一息入れる暇もなく、俺はなぜか椅子の背もたれに手をかけて追跡者の動きを注視しなければならなくなっている。テーブルたちを中心に円を描きながら俺を追いかけまわした可憐な追跡者は、その小さな手に縁一杯に液体の入った大きな瓶を握りしめている。あれは恐ろしい液体だと、今までの経験で知っているので同じようにグルグル回りながら逃げていたのだ。
逃げる上で可動域を広げたかったのと、走り回ると熱いのと、液体をかけられて裏地に縫い付けたリボンが被害を被るのを避けるため、手に持った上着が握りしめたことによって皺だらけになっている。
それでも追跡者はにじり寄ろうとして来るので困る。
「逃げないでください、ほっぺたの手当てができないでしょっ」
「放っておけば塞がる傷になぜそんなにも大量の消毒液をかけようとしているのかね、我が『妹』よ」
あの薬、物凄く沁みるのだ。
「痕が残ったら大変だからです『お兄様』」
「消毒液には傷を残さない効能はないと思いますわよ」
「ならば追加の瓶をカトレヤに渡すのをおやめください『姉上』」
自分の座っている席を含めたテーブルセットの周りを駆けまわる人間2人のことなど見えてなかったかのように優雅に本に目を通していたリナリアは、カトレヤに支援物資を渡しながらさらりと言う。
「雑菌が入って感染症になったら一大事でしょう?アカンサ様、私の可愛い『弟』を捕まえていてくださいませんこと?」
「畏まりました」
「ま―――イダダダダダダ?!」
捻じり上げられた腕と一緒に悲鳴を上げる。きっと祖父譲りであろう剛腕は、一見すると俺よりもか細いのに淀みなく力をかけてくる。
痛い、いや痛いなんてものじゃない。いっっっっったい!!
「この前といい、其方は余の腕をへし折る気か!?」
「その場合はもう少し力を加えます」
「か、加減をしていたのか?!」
当然でしょうとでも言いたげに瞬く相手に恐る恐る尋ねる。一応結婚相手その2である。夫婦生活を送る上で確認しなければならないことがあるのだ。
「其方、剣術とか、何か伯から手ほどきを受けていたりはしまいな?」
「幼い時に少々。ですがさしたる腕ではございません」
「どの程度嗜むのか参考までに聞かせてもらえるかね?」
「苦心してビンカから一本取れた程度です」
「中隊長から、一本?」
本人の剣の腕はこの目では見ていないが、確かホスタが「ビンカはコーデイト、オクサリスよりも強い」という趣旨の話をしていたと記憶している。
その相手から、一本?
思わず固まった俺を見つめていたアカンサ嬢は不意に捻じり上げていた腕を解放し、考え込むように顎に手をやった後、やはり唐突に口を開いた。
「以前、ホスタがアルディジア主教堂の祭典に参加したことがあると聞きおよびまして。ホスタの実家は音楽家を多く輩出しているので、彼も声楽などに関心が強くその関係で赴いたとのことでした。
私、その当時はあまり王都に行く機会もございませんでしたから、あの主教堂に赴けるなんて羨ましくって。あの天井画、この間拝見させていただきましたけど、一度は目にしたいと思っておりました。それでホスタにどんなにすばらしい絵画だったか聞きましたけれど、彼はどういう建物の構造で音響がどう素晴らしいとか、オルガンの音色の味わい深さとか、歌い手の歌と演奏の素晴らしさをとうとうと語るだけで一向に私の質問には答えてませんでした。
今より幼かったこともありますが、つい癇癪を起して斬りかかってしまったところをビンカが止めに入り、最終的に決闘によって敗者となった私は罰として1週間苦手な野菜ばかりの食事をとることとなりました」
俺の語尾の上がった言葉を質問と判じたらしい小鳥は、しかし全く方向の違う回答を滔々と述べる。俺が言いたかったのはビンカから一本取れるくらいの腕があるのか、という半ば信じたくないという気持ちのこもった独り言であって、どうして一本をとることになったのかという次第ではない。
「それって何年前のことですか?」
「確か…4年ほど前かと」
「あぎゃっ!!」
十歳児は大人と決闘して相手の剣を弾き飛ばせるのか?
急に話に入ってきたカトレヤへの回答によって更なる衝撃的な事実が判明しさらに呆然としていたところに、情け容赦なく消毒液をかけられた。こういうのは綿に含ませて軽く患部につけるもので、上着がびちょびちょになるまで、瓶が空になるまで注ぐものではないはずなのだが。
「沁みる上に冷たい!!!」
「へーか聞きました?4年前ですって」
「この惨状を見よ、余の服どうなってると思う?」
「私が歌巫女になる前です!」
「よく聞いて見ておくれよ、カティ」
服の惨状を両手を広げて訴えてみせる人間の切実な願いも虚しく、彼女は何一つ答えないまま目を輝かせて先ほどリナリアから提供された支援物資の蓋に手をかける。
いや待って待って待って。
「邪気払いの酒じゃないんだからそんな景気よく―――だから冷たいっ!!」
「ララちゃんが歌ってるとこ、見た人がここにいるってことですよ」
「リナちゃん止めて、絨毯がダメになる!!!」
「我が家で弁済しますわ」
「止めてって!!」
やたらと嬉しそうなカトレヤによってズボンまで水分を含むことになった。消毒液特有の匂いが呼吸の度に強く感じ取れるわ、すーっという冷感がかすり傷だけではなく全く傷一つない部位にもあってひたすらに寒い。足元の絨毯はもう既に水分によって変色している。色々寒い。
「話聞きに行きましょ、ほら早く」
「目が急に悪くなってしまったのかな君は。この状態で外に出ろと言うのかね?」
「だってララちゃん、歌巫子さんの時の話聞くと嫌がるんだもん、今しかチャンスないじゃないですか」
「チャービルたちに聞きゃいいだろ」
「ララちゃんに嫌われたら可哀想でしょ、聞けませんよ。へーかは分からないって言うし」
むっと口を尖らせても分からないものは分からない。そして外に出たくない状況なのも変わらない。
ぐいぐいと扉の方向へ俺を押し出そうとする力に全力で抗えば、今度は胴にしがみつかれる。小鳥はぴくりと動くが、リナリアは読んでいる本から目を離しもしない。慣れの差と言うものか。どの道胸に顔を埋めてくるこの爆弾娘を引き離してはくれなさそうだ。
流石に消毒液まみれの服に顔を押し付けているのは不味いとカトレヤの肩に手をかけると、胸の辺りに当たる唇が何事を紡いだ。
音は布に吸収されやすい。だから、彼女の言った言葉はすぐそばでパチパチと瞬く小鳥にも、それより離れたリナリアにも届かなかっただろう。
至近距離にいるが故に聞こえてしまった俺は、静かにため息をついて濃紅の髪をなでてやるしかない。きゅっとしがみつく力が増す。
「君の気持はわかっているつもりだけどね――」
「陛下、御来客です。あとお怪我をされたというのは本当でっ」
この国の人間というのはノックをしないのかしても返事を待たない奴しかいないのだろうか。
きっと彼の胃は王城で報告を待つのに耐えられなかったのだろう。俺の「潜入捜査」なるものの開始に合わせて死に物狂いで仕事を終わらせて数日職場を離れられるよう調整した上で、婿入り先の伯爵家に詰めていたアコニト=ソリダスター、要するにアカンサ嬢の父君が、カトレヤにしがみ付かれた消毒液まみれの俺を見て固まっている。
アコニトは体は固まったまま視線を俺からカトレヤ、カトレヤから自身の娘、そしてリナリアへとせわしなく動かした後、ぽつりとつぶやいた。
「お、じゃまいたしました~……」
「静かに後退するなこちらへ来い扉に手をかけるな音の出ないようにそっとゆっくり閉め始めるな」
「いえあの、浅学寡聞にしてそのような嗜好については知識がありませんで」
「余が喜々として消毒液まみれになっているとでも言いたいのか其方は」
「婚約者の前で他の女性と肌の透けた服でそのような体勢になっていることについて驚愕しているだけでございます!!」
服が透けてる?
慌ててカトレヤを引きはがして確認する。消毒液でしっとりした男に引っ付いた影響で折角の可愛らしい意匠のワンピースに染みがついてしまっているが、色の濃い生地のおかげで透けてはいない。ほっとしたらアコニトの悲鳴が耳に刺さる。
「陛下の方ですよ!!」
「ああ、うん。瓶2つ分の液体含めばこうなるだろうよ」
それがどうしたと返せば悲鳴を上げる形のままアコニトが固まった。
もともとシャツ一枚だったこともあり濡れた部分はぴっちりと肌に張り付いて青ざめた肌の色が良く見える。布地がこうもゆとりなく体に着いていると、貧相な体格が露わになって少々悲しい。もしやそれを憐れんでいるのだろうか?
硬直から抜け出したアコニトがゆっくりと口を開く。
「…そちらのお嬢さんとの関係は存じ上げませんが、デンドロビウム嬢と信じがたいことに私の娘は陛下の婚約者でいらっしゃいます」
「ああ」
「婚姻前ですよね」
「そうだな」
「その恰好はいかがなものかと」
「ふむ?」
良く分からないが、濡れたままの服がまずいということだろうか。
となればとる方法は一つである。
「――お待ちくださっ状況を何故悪化させるのですかぁぁっ!!!」
「ええっ…?」
ちゃちゃっとボタンをはずして肩までシャツを降ろしたところで止められるとは思わなかった。そしてなぜ彼は目を覆っているのだろう。
「へーか、脱ぐのはいいですけど替えのお洋服あるんですか?」
「おお、考えてなかった。まぁこのままでいいだろ」
「良くないっ、です!あとっ!そこのお嬢さん!!」
「はい?」
「脱ぐのもだめです!!」
「そうなんですか?」
「そうなのかね」
「あなた方そういう関係なんですか?!――どさくさに紛れて完全に脱がないっ!!」
ばれた。でも途中でやめたままというのはおかしいから脱いだ方がいいと思う。乾かし易くなるし。
「暖炉に火をつけてもいいだろうか。この部屋では其方らが暑いだろうからどこか別の、」
「シオン」
今まで沈黙していたリナリアが話を遮ってきた。話を遮られるのは慣れっこなので構わないのだが、呼び方と声色が気になる。
「貴方が逃亡魔で追跡をかわすために走りながら着替えるという離れ業をできるというのは城内でも貴方の居住域に近いところに務める者達だけですから何のためらいもなく服を脱ぐのはおやめなさい」
「下じゃなくて上着、」
「おやめなさい」
「はい」
本音を言えば下着をつけていればズボンも脱いだってかまわないのだが、リナの目が滅多に見ないほど冷たい光を宿しているので大人しく従っておく。幸い下半身の被害は太もも以下の部分だ。下着まで濡れていたら気持ちが悪いのでどうにかして着替えるだろうが、今はそれほど切羽詰まっていない。
「わかったなら早くその破廉恥な恰好をどうにかしてくださいな」
「別に破廉恥ではな、」
「シオン?」
「着替えがないんだよリナちゃん」
一度脱いでしまうと濡れた部分が冷えて再度着たいとは思えなくなるのだ。消毒液なので乾くのも早いだろうが、まだその域に達していない服を羽織るのはためらわれる。
途方に暮れているとカトレヤがパッと動いた。
「こうすればいいですかね」
「こそばゆい」
「ガマン!」
「――――何をしとんだこのクソガキっ!!!!!!!!!!!!!」
アコニトが逃げそびれて開け放していた扉から聞きなれた罵声が聞こえて体が反射的に跳ねる。逃げようとして、それが叶わなかった名残だ。胴にぴったりとしがみ付かれては動きようがない。
仕方なく両手を顔の前に挙げて恭順の意を示す。憤るアルディジア主教堂長には全く響かなかったらしい、恐ろしい形相から大層恐ろしい形相に変わった。
「大勢の前で半裸でうちの歌巫女に抱き着くなんてどういう了見だっああっ?!!」
「よく見ろ逆だ」
「逆だろうが正位置だろうがどうでもよろしいのでまずはお召し物を」
「恐ろしく準備がいいのはさておき、そこな今にも余に飛びかかりそうな不届き者を止めてはくれないか」
「不届き者はお前の方だろうがカトレヤから離れろ!!!!!!」
とても砕けた口調で俺に話しかけるチャービルは全く気にせず服を差し出してくる従兄殿にため息をつく。受け取った服と交換で上着を預けながら声を掛ける。
「先ほど使いをやったが無駄だったわけか。ここに来る前に迎えなどは頼んでいなかったが?」
「陛下のことですから最終日の夜の暗がりを勝手に盗んだ馬で駆ける、馬車を強奪して走らせる、乗合馬車を奪取して疾走するなどの手法をとられるでしょう。それを阻止すべく参上いたしました。チャービル殿はカトレヤ嬢の迎えにと同行いただいております」
「其方、余を何だと思っているんだ」
「唯一の主と思っております。また、今の例示は決して的外れではないと確信しております」
「流石に乗合馬車を乗っ取ろうと思ったことはないぞ」
「他はあるんですか?楽しそうなので私も誘ってください」
「君、馬乗れないじゃないか」
「乗せてくださいよ」
「気が向いたらね」
「気が向くんじゃなぃぃぃいい加減離れろこのクソガキっ!」
「堂長声が大きくてうるさいです、あっち行ってください」
「なっ…!」
先ほどまでの勢いはどこへやら、途端に色をなくして胸を押さえるチャービルは息も絶え絶えの体である。耳の良いカトレヤは大きな音が苦手であることは育ての親の彼が知らぬわけがないが、それを飛び越えるほどの憤りであったということだろう。
「カティ…まさか本当に、」
「へーか、風邪ひいちゃいますからお洋服着て来てください――私たちも多分一緒に帰るんですよね、『お姉さま』?」
「席が空いていましたら…陛下、着替えるなら部屋を移ってくださいまし。アカンサ様、お隣の部屋は空いていますか?」
終始静かだった小鳥は今度も口を開かずコクリと頷いた。なぜか先程からそっぽを向いているので表情はうかがえない。
それなら、と弾んだ声を出して俺をくるっと回転させ扉の方に押しやりだしたカトレヤは、傍を通った人間の蒼白の顔が目に入らないらしい。イベリスの元まで俺を搬送した途端にリナリアの下に駆けよっていった。
「あまり待たせないでくださいね」
ひらひらと手を振る彼女に何を言っても無駄だと悟ったらしいチャービルは、そっと俺の肩に手をのせてなぜか一緒に歩き出す。そっとのせてはいるが勢いをつけていないだけで力と体重はかかっている。要するに、痛い。
「余に当たるな。思春期の娘に嫌われるのは避けて通れぬ男親の試練だろう」
「乗り越えられないものは試練ではないのです」
「挑め。あと手をどけろついてくるな」
「支えがないと倒れそうです居たたまれなくてあの場にいられません」
思っていた以上に酷い傷を負った様だ。紙一枚の厚みくらいには憐憫の情が沸いてくる。
「あまり気にするな。ただ『鬱陶しい話しかけるな顔も見たくない』と蛇蝎の如く嫌われただけだろう」
チャービルはぐっと息を詰めて胸を押さえよろめいた。
肩が自由になったのでイベリスに渡されていた服に袖を通す。襟も袖も無駄な装飾のついたいつも通りのシャツである。この数日動きやすい服装だったので余計に気になる。引きちぎってしまおうか。
「陛下、」
「引きちぎろうなんて僅かにも考えてはおらんぞ」
「嘘仰い。あとお召し物の話ではありませんよ」
「何?」
イベリスは常の無表情を崩さず、ちらと後ろを振り返った。つられてそちらを向けば壁にもたれて項垂れる人間が見える。
「――お戯れが過ぎます」
「そう?」
大体あっていると思うけどなと呟きながらベルトに手をかけると無言で頭を叩かれた。なぜ?
「こんなところで着替えないでください」
「あれを放置して移動するよりこの場でさっさと着替えてあれを回収するのがいいのでは」
「さっさと隣室に移ってさっさと着替えてキャービル殿を回収するのが最善です」
「左様か」
傍を通りかかったあの家令がやはり変な顔をしてチャービルを見つめているが、俺の従兄殿はいつだって正しいので大人しく提案を飲むことにした。




