5. 神の目撃者
外はまだ明るいけれど、日はどんどん短くなっているからじきに黄昏時になる。逢魔が刻。したらばやつらは現れる。隣り合わせの次元から、不可侵の境をすり抜けて。あたしにはそれを打ち倒す役目がある。――あるんだけど、今日、間に合うのかな。クリスさん、恐々としてたけど。
蛍光灯の冷たい灯りの照らす廊下。あたしはぽつんと立ち尽くしている。どうしたものかな。
カガセオ機関は大きな組織ではない。全構成人数は一クラス分もいないという話だし、ラボだってシャヘルさんがひとりで回しているくらいだ(やっぱりシャヘルさんはすごいのかも。コミュ障だけど)。ほとんどが事務員らしくて、あたしはそのひとたちを全く知らない。廊下ですれ違うこともない。あなたがノーコードと関わる必要はありません、とか言われた気がするけどなんのことだかさっぱりだ。
あたしは右を見る。左を見る。地下に広がるカガセオ機関の本部は広いんだろうけど、あたしはラボ以外に入ったことがない。他の部屋が何なのかも知らない。入るなって言われてるし。となると、行くあてがない。どうしたものかと首を傾げ、手持ちぶさたにケータイを開いた。あっ、ここ圏外だ。
コツ、と靴底がリノリウムを叩く音がした。反射的にそっちを向く。おっさんだ。おっさんがふんぞり返って歩いている。
ホロスさんだ。
「ウオッホン!」
ばかデカい咳払いをして、ホロスさんはにこやかに片手を上げた。あたしは軽く頭を下げた。
「マホロくんじゃないか。どうした、いたずらでもしてラボを追い出されたか? ……ンンッ、ンッ。お茶目だなあ! ……ウオッホン! やはりちゅうがウオッフ! くせウオッホン! ウオッホゲッホグフゲエッ」
「ちょっ……ホロスさん!? 大丈夫ですか? ――って血が……!」
喀血だ。会うたび咳払いが激しいのが気にかかっていたのだが、重い病気だったりするのだろうか。
背中をさすろうとするあたしを、ホロスさんは手で制した。大丈夫だ、ということらしい。
「いや失敬、私もいい年だ。健康には気を付けないとならんね」
ホロスさんは磊落に笑ってふんぞり返った。
いよいよ壮年期に入った英国紳士の出で立ち。長身にステッキを持って堂々歩く様は、ときに街中ではおおいに目立つだろう。容姿から自明な通り、ホロスさんはこの国の人ではない。遠く西方、魔法の島国の出身だ。
ちなみに、
「ホロスさん、今年で何歳です?」
「うむ。機密情報だ」
とのことである。
翡翠の目を瞬かせ、深く皺の刻まれた目尻が笑みを作る。
「マホロくん。君にはおおいに期待している。期待をかけるということはそれだけ施さねばなるまい。苦労はないかね。不便はないか。大きく感情を揺さぶられることは」
「ないですよ。あたしが子どものくせに冷淡すぎるって、よくご存じでしょ。変わりません。変わるきっかけもないです。あたしは今のままでいいんです。普通に学校通って、社会に出て、死ぬときに後悔さえしなければいい」
「欲もないと」
「ないわけじゃないです。今が続いてほしいって思ってます」
あたしが魔法少女を即決したのだって、それが一番大きいのだし。
「重畳」
ホロスさんはにんまり笑った。どのくらい日本にいるのか知らないけど、本当に日本語達者だよなあ。
「きみは素晴らしい。実に素晴らしい。君は最高だ。君こそ私が求めていた存在だ。きっと君ならば我が悲願を達成できる!」
悲願。
神の模造。模造神の支配。人間のための神を造り上げ、その神に統治を請う。それは、ひいては世界の統治。独裁。幼稚に言えば世界征服。まるで悪役なのに、それを追い求めるホロスさんの瞳は小さな子どものように純粋に輝く。その輝きは疑いようのない正義と、溢れるばかりの憧れの表れなのだろう。
神への憧れ、か。
「ホロスさん。神様ってどんなカッコしてるんですか」
「美しかった」
人類史上初の世界大戦。命の綱渡りを終えて凱旋したホロスさんが目にした神様。
「この世の何より美しく不可思議と超常の具現だった。一目見て人非ざる者だとわかった」
ホロスさんはそのときのことを仔細に語りたがらない。夢を壊したくないと願う、そう、やっぱり子どもみたいな人なんだよね。見た目はまあ、おじいちゃんの域に入ってるけど。中身は夢見る子どもだ。そしてその夢を本気で実現すべく力を手に入れた大人。だから賛同者が集まるんだろう。
「君もいずれ目にするだろう」
ホロスさんは過去を語らぬ代わりに未来を物語る。
「この世界の転換点を。模造を超えた創造。世界は神代となる。次元のシークエンスから逸脱した世界はもう、我々のものだ」
あたしはしばらくホロスさんの翡翠の目と見つめあった。些末な偽りも許さないような、そんな瞳だ。誰を許さないのだろう。目標を達成できなかったときの自分かな。
それとも。
「お待たせしました、マホロ――」
沈黙を打ち破ったのはドアの開閉音だった。続くクリスさんの声。後半になるにつれ動揺の色。ホロスさんを見てのことだろう。動揺はやがて怪訝に。やがて、ほんの少しだけばつの悪そうな顔をした。
「ホロス。私たちは責任を負わねばならない。おわかりいただけますね」
ホロスさんはクリスさんの言葉に目を見開いた。未だ背筋の曲がらない老体は微かに震えているように見えた。ドアの奥ではやはりシャヘルさんが申し訳なさそうにうつむいている。
翡翠の目を輝かせ、ホロスさんは満面の笑みで口を開いた。
「すばらしい」
子どもみたいに無邪気な人だなあ、とあたしはぼんやり思った。
次回、敵襲。