4. 予兆
「ねーえ、マホロぉ。マホロはいつも家で何してんの?」
「寝てるか、起きてるか、かな」
「や、だれだってそりゃそうだよ」
苦笑するナズナ。あたしは釈然としない。これ以上なく明瞭に答えたのに。
六時間目の体育のあとの更衣室は、ほかの時間より幾分か気だるい。制汗剤の人工香料の匂いでむせ返りそうな甘い空気。にぎやぐフリートークは教室よりも遠慮がない。どんなエリート校だって、中学生は中学生に変わりない、ってわけ。
「なんかさー、マホロ、プライベートのこと全然話さないじゃん? ここにいるってことは、家のことはなんとかなったんでしょ」
ナズナは一拍置いて付け足した。
「後見人」
合わせたわけじゃないけど、あたしも一拍置いて応えた。
「――うん」
ナズナの物言いには遠慮がない。その遠慮のなさは生来のものもある。けれど、それ以上に圧がかかっているゆえということ。あたしも、こっそり聞き耳を立てているクラスメイトたちだって暗黙に了解している。
みんな知りたがっているのだ。
あたしの生家。失われた十年間という景気後退のさなかに急伸した、暁ノ宮家の行方について。
「いい人だよ。善意で手を貸してくれて。ただの子どものあたしが困らないように」
「ねえ」
遠慮のない声は幾らか棘を増す。これはナズナの言葉ではない。ご承知の通り、ここはアリストクラシーの代理戦争会場。ナズナの生家、瀬織家の。あるいは財界の総意。ああ、もちろん王子さまは例外だろうけど。
「暁ノ宮の事業は休眠中なんだってね。――後見人のひとも、そこは未着手? 登記は――引き継げる人が誰もいない、ってこと?」
妙にトーンダウンした更衣室。あたしは体操着を畳んでしまって袋を平らにならして、
「魔法少女産業に鞍替え予定なんだよ」
と、言った。
ナズナは笑っていた。
更衣室はもとの活気を取り戻していた。
***
今日はラボラトリーに長いこと拘束されている。というのも、使用端末とルーシーの調子がおかしくて、昨夜の化物退治ではあやうく半身不随になるところだった。空中移動が基本の魔法少女なのに、そのシステムが一時停止。東京タワーのてっぺんから地面に叩きつけられたら、当然ただじゃ済まないでしょう。
「命の危険があったわけですが、あまり動じませんね」
クリスさんが問いかける。あたしは、まあ、とだけ。
本当なら、クリスさんはラボラトリーにいる人じゃない。クリスさんはエージェント。機関の対外業務が担当。といっても、人知れず深夜の化物退治に精を出すこの機関が対外的に何をしているのかなんて知らないけど。じゃあ、どうしてここに。あたしのケアのため? やだな、あたし、そんな子どもじゃない。理由はたったひとつ。このラボラトリーの担当のせいだ。
「……ぁ……………………」
白衣を着た、いかにも研究者風の出で立ちをした猫背の小男。せっかくのティファニーの眼鏡もぼさぼさの髪で滅多に見えない。陰気の塊、っていうか、陰キャ。
「シャヘルさん」
「……………………………し………」
「コンパクト、壊れてたんですか?」
「…………ん………………………………………ぃ…………………」
「ルーシーがバグってるっていうのは」
「……………………て…………………………………ぇ………………………………………………………な…………………」
もはや筆談の方がマシというものである。
クリスさんのピンヒールが大理石を叩く音が響いた。同時に、大袈裟なため息も。
「ドクターシャヘル、打ち出した報告書を。……これだから日本人は。いくら優秀でも自己主張が弱い」
自己主張とかの問題なのかな。ていうかシャヘルさん日本人だったんだ。本名知らないし話さないからわからなかった。
シャヘルさんはラボの奥で照明も当たらないデスクの上をあさりはじめた。なんか、書類仕事よりキノコ栽培のほうが向いてそう。
報告書を受け取ったクリスさんはまたも大きく息をつく。
「ドクターシャヘル、あなたは紛れもなく天才です。ホロスの机上の空論を実証したのはあなた。あなたは神の実在を証明した。さらには再現しようとしているのです。神の存在を。およそ一世紀も昔、遠くアルビオンの地でホロスが目撃した神秘の具象を。……自信を持ちなさい」
シャヘルさんはボソボソと弁明したようだけど、あたしに聞き取れるわけもなく。
あたしは別のことを考えている。ホロス。ホロスさん。神の目撃者。約一世紀も昔に。その人は今はこの機関の代表を務めている。なんでも、第一次世界大戦からの帰国後に神を見たらしい。となれば齢百をゆうに超えるはずなんだけど、記憶の中のあたしのおじいちゃんより全然若い。色々あって胴体を両断されてしまったおじいちゃんだけど、まだ還暦をすぎてしばらく経っていなかったはずだ。太極拳をやっているから若々しさが保てているらしい。そんなにすごいのかな。太極拳。
クリスさんはやけに長いこと沈黙していた。報告書をめくる音が機械の動作音に時折混ざるだけ。で、ふと見上げたクリスさんの顔の険しさといったら。
「まさか。ありえないでしょう。彼女が動けるはずがない」
クリスさんは焦っているみたいだった。それはシャヘルさんも同じみたいで、せわしなくぼさぼさ髪をかきまわしている。
「彼女は自滅し、我々の前から姿を消しました。エンプレスの可能性を奪われたプライマリーコードが生存できるはずがない」
「――エンプレス? って?」
聞き返したあたしに、クリスさんは「しまった」みたいな顔をした。ばつが悪そうに口を引き結んで、やれやれと首を振る。
「席を外してください、マホロ。端末とサポートシステムの調整が完了したら呼びます」
「へ? でもここほかに待ってられるような場所――ちょっと、クリスさ……」
なかば追い出されるかたちでラボを出るあたしを、シャヘルさんはどこか申し訳なさそうに見遣っている。
次回、神の目撃者は語る。