35. さよならは言わない
はらはらと舞う季節外れの雪が世界を覆っていく。白く、白く、何もかもを秘密に染め上げていくように。氷点下に凍り付いた廃都市がそれを厭うことはなく、超常の隠蔽にはいたく従順だった。
その超常の象徴のように、真っ白な少女が立ち尽くしている。
理に逆行した姿は幼く、夜明け色の瞳は不安で揺れていた。
「とうさまはどこ?」
もはや幼女と言ってもいいくらいだ。
自分よりも小さな背丈になった彼女に歩み寄り、イツキは吐き棄てるように言った。
「いないよ」
吐き棄てるように言った、つもりだった。
「きみのお父さんは、遠くに行ってしまったから、ね」
口を開いてみれば、自分の声音のなんと優しいことか。優しいだと。優しさだと? 情をかけているのか。まさか。衝撃に耐えきれなかった臓腑が痛んで上手く声が出ないだけだ。大半を喪失した張力による錯覚だ。そうだろう?
「かあさまは?」
「いないよ」
「どうしていないの?」
「遠くに行っちゃったんだよ」
「わたしを置いて?」
「……きみを置いて」
ただの、子ども同士の寂しい会話だ。死すら認めないあどけなさが未だ存在感を持っている。
暁ノ宮綺咲が夢に見た、七瀬マホロの八年間は失われた。
全く未知の法則の下に働く技術体系をものにするのは易くなかった。この結末は予測できなかった。もう少し時間があったら間に合ったか? 否だ。宵ヶ峰の技術の粋を集めたところで、大脳に直結する思考モジュールを入れ替えたところで、この物語は最も重要な役者を欠いている。
人間は神にはなれない。神を造れない。
そんなシンプルな事実が、幼女の姿で立ち尽くしていた。
「わたし、どうして置いて行かれちゃったの?」
ずず、すすり上げる音を聞いてはっとなる。白磁の頬が赤く染め、幼女は泣いていた。喪失だ、と実感する。目の前にいるのは誰でもない、暁ノ宮綺咲の姿をした、神懸りの力を持っていただけの。それだけの、幼い子どもにすぎない。この世界の異物となった少女はこんなにもか弱い。容易く折ることができるだろう。さらば、折れ。服従させろ。徹底的に、利用し尽くせ。それば自分の役目だ。宵ヶ峰という一族のひとりの在り方だ。
それなのに。
「――ごめんね」
言葉は裏腹に湿度をはらんだ。
「ボクにもわからないけど、きっとちゃんと戻ってくるよ。きみを見つけてくれる」
「うそよ」
嘘だ。
「信じて」
「うそだ!」
イツキは言葉を詰まらせた。
自分はどうしたいのだろう。どうして彼女に希望を持たせようとするのだろう。
「探しにいくわ」
綺咲が踵を返して歩き出す。真っ白な髪がふわりと舞う。
「パパとママを見つけるわ。わたし、ひとりじゃないの。もう、ひとりじゃないの、パパと、ママと、ねえさまと、にいさまと……」
歩みはひどく鈍い。靴を履いていない足に凍てついたアスファルトが堪えるのだろう。それでも彼女は歩みを止めない。止めないからなんだ。止めろ。引き戻せ。そいつを逃がすな。イツキはまだ機能する左の拳を握り締めた。歯を食いしばった。
「わたしがここにいる理由を探しにいくの。わたし、キサキっていうのよ。パパとママを見つけるわ。わたしを探しにいくの……」
ふらふらと、やがて声が遠く聞こえなくなる。姿が小さく見えなくなる。
強く噛んだ唇からは血の味がした。どうしても彼女を止められなかった。その理由がわからなくて、ことさら声が出せなかった。
「――イツキ様」
いつの間にかそばに控えていたサガラが慇懃なほど柔和に呼びかけた。イツキは俯いて「なんだよ」と返した。
「鬼にはなりきれませんか。まだ無垢の子どもにすぎませぬか」
「抜かせ。ただ、オレは――オレはさ……」
何度も不条理に未来を奪われる命を見ては慣れていくのが鬼だ。宵ヶ峰とはそういう一族だ。いずれ必ずこの身が迎える最期への恐怖を狂気で中和し栄える、呪われた生を受けている。鬼にならねば呪われた最期を迎える前に気が狂う。お笑い種だ。
「そんなことよりサガラ、替えのパーツの手配だ。ヘキサグラムのため込んだイリアステルの自爆をモロに食らった。機関からパクった凝集結晶じゃ防ぎきれなくて内臓がめちゃくちゃだよ。感覚器は半分死んでる。……まったく。世知辛いな、仮にも御曹司が現場のパシリで重傷って……」
「この一帯の後処理もイツキ様がすることになるでしょうな」
「うえぇ。ゲロダル……」
倒壊した東京タワーを爆心地として広がる都会の街は、未だ凍り付いて超常の傷跡を残している。雪は当分の間、やみそうにない。遠くからサイレンの音が聞こえる。騒がしくなる前に瓦礫を越えて、鬼の一族として平然と構えていなくてはならない。
キサキはどこへ向かったのだろう。何を目指すのだろう。一世紀に渡る実験はこの先にどんな未来をもたらすのだろう。どこへ続く? 誰に託された? そう遠くない未来、次の戯曲は喜劇足りうるか?
暁に咲いた少女らは大人たちの邪念に朽ちた。
世界は異物を抱えて歪んだまま、何食わぬ顔で廻り続けるのだろう。
歪み、綻び、張り裂けた世界はいつか未来を放棄するのかもしれない。
それでもなお、明日を願うのであれば――




