34. 綺に咲く
畜生、しくじった、などと後悔悪態塵芥を並べるよりも早くイツキは行動を開始した。手元のモニターにチカチカと煌めく光点を観測するや否や人間だか肉塊だかわからなくなったシャヘルを回収、一方でサガラがホロスの遺体を回収しているはずだ。別々に飛び降りた。もうわからない。グッド・ラックだ。サガラのことだからうまくやっているだろう。
「プランは周到に用意しておくべきだよなあ……!」
これは自賛だ。笑いが止まらない。止められない。笑うしかない。これは――この展開は。胸が熱くなって仕方がない。そうだろう。そういうことにしておかないか?
イツキは暁ノ宮綺咲の捕縛について、四つのプランを用意していた。
プランA。七瀬マホロの無力化・人格消滅後、暁ノ宮綺咲への移行期間での捕縛。
プランB。プランA失敗時、エンプレスを発現した暁ノ宮綺咲へのカガセオコンピュータ制御による座標指定・無力化および捕縛。
プランC。プランB失敗時、暁ノ宮綺咲との交戦状態になるものと予想される。その際はカガセオコンピュータを利用した防衛戦へ移行する。高次エネルギー「イリアステル」の具象化による反撃は可能。
プランD。プランC失敗時。カガセオ量子コンピュータが無力化された場合。エンプレスである暁ノ宮綺咲と、新たな手段での市街戦闘へ移行する。制御不能な神の力。この世界にとって未だ知られざるエネルギー。渡り合うには同等の力が必要だ。
もしプランDが失敗した場合――は、考えるのはよそう。
『――イツキ様』
「あれっ、サガラ? 無線復活してたの?」
『コンピュータが粉微塵になってジャミングが収まったようですな。……で、イツキ様。例の――』
「ああ。プランDだよ。もう起動してるはずだ。楽しみだね。ぶっつけ本番無調整。あの子は上手に飛んでくれるかな?」
夜を縦に突き抜けて皮肉を謳い上げる。薄紫に閃いた衝撃はイツキの小さな体躯をなかなかに吹っ飛ばしてくれたようで、東京タワーの大展望台を横目に落下速度を増していく。
「さあ――おいで。もう日の目を浴びることのないきみに。被造の夜明けを浴びさせてあげる」
墜ちながら月のない夜空を見上げる。笑え、嗤え。すべては予定調和だ。これが望んだ形だ。何一つ間違っちゃいないのだ。
仄青い光の柱が夜空を貫いた。
凍り付く空気は天候すら操作する。
「――意外と様になってるんじゃん? ヘキサちゃん……だっけ」
棄てられた魔法少女は、いま再び空を駆ける。
*
たとえば暁ノ宮綺咲がどんな人間か、今、この世界で尋ねたとしたら。
きっと七瀬マホロの所見が返ってくる。しかしその回答に七瀬マホロの名前は出てこない。七瀬マホロはもうこの世界で忘れ去られてしまった。上書きされてしまった。かつて暁ノ宮綺咲がそうであったように。
では、これまで七瀬マホロであった世界の記憶の蓄積は、暁ノ宮綺咲足りうるのか。
「そんなの――」
向かい来る冷気の矢を睨みつけ、大剣を振りかざす。十四歳にしては小さな手にあまるそれはずっと扱いづらくなったが、知ったことか。
「否に決まってるでしょう!」
振り下ろした大剣の軌道が左右に拡張する。淡い紫の燐光が展開し、仄青い冷気の矢を弾く盾となる。一つ残らず弾く。夜を駆る。真っ白な髪が夜明けの色を帯びて輝く。紫陽花の瞳も、白い肌も、夜に染むコートの裾も。もっと、もっとだ。暁ノ宮綺咲は全力で挑まねばならない。
暁ノ宮綺咲が肉薄するや否や、その少女は武器を持ち換えた。青白い弓が虚空にほどけるように消え、宙に現れた魔法陣から双剣を引き出す。二刀流の少女剣士。少女。少女? こんなにいびつな?
「――ねえ、あなた」
言葉をかけたところで意味はないのだろう。それでも暁ノ宮綺咲は。この体は鍔競り合う少女の身を案じている。暁ノ宮綺咲に託された七瀬マホロの記憶。世界から拭い去られてなお、暁ノ宮綺咲の中にそれは在る。冗談じゃない。
「そんな格好で人前に出て恥ずかしくなあい? わたしだったら生き恥晒しの刑かと思うわ」
だから暁ノ宮綺咲は案じない。興味もない。興味があるのは。真っ二つにしてしまいたいものは。暁ノ宮綺咲を所有物のように扱いその支配下に置く意思たちだ。それは人間の形をしているはずだ。こんな――こんな、顔の半分が金属で、眼窩にレンズが埋め込まれていて、左右の腕の長さが違っていて、沓も履けないような異形の足をしていて、生え変わり続ける骨の翼を持った血生臭い怪物なんかではない。
少女の残った片目。蛍光色に光る瞳は何も語ろうとしない。映していない。それなのに、綺咲の行く手を阻もうとする。骨の翼の後方に無数の魔法陣が展開される。はっとして空中を蹴りつけた。上方で体を反転、光量の極大化する魔法陣の背後へ。グロテスクに赤く滲む背中なのか、骨の化物なのか、それを蹴る。向きを操作すれば、その絶対零度の光線の束は地上に閃く。ネオンを閉じ込めた銀世界が瞬く間に広がった。あらまあ。お化けみたいな見た目にしては、意外と綺麗なものが作れるのね?
「――……っ」
脳が焼き切れるような痛みが走る。時間がない? それとも? まさか。違う。違う! 暁ノ宮綺咲はわたしだけなんだから、そうでしょう?
七瀬マホロは、もう、存在しない。
二度と交わることはない。
七瀬マホロは再び現実に顕在しない。
「急がないと」
時間がない。時間がないのだ。ほら、また。外套の裾はとっくに踵に届きそうだ。逆行する記憶が走馬灯のように脳裏を駆け抜けるのを振り払う。
瞬き一つの間に目標の位置を特定する。この銀世界でちゃんと生き残ってる人間。死んでたら良かった。気が済むまで骸をいたぶってあげたのに。きっと、それくらいしかできない。
夜明けの光を纏って飛翔する。いる。いた。まだ生きて、そこに。ビルの屋上。元凶であるあの男はこの世に在らざる力で身を守られている。誰によって? 第三者の介入。宵ヶ峰イツキ。そちら側で余計なことをするのなら容赦はしない。両手でようやく振り上げた大剣に乗せる力は神性。世界を支配下にするそれを、純粋な運動エネルギーに変換する。爆ぜる空気が辺り一面を薙ぎ払う――はずだった。
腕が動かない。
視界に異常を認めた。周囲の景色が発光しているように青い。景色が発光? 違う。足下。魔法陣? 薄青の。記される演算術式は世界の殻を砕き次元の隔壁を打ち破り神になり損ねた綺咲に干渉しつつある。凍り付いた腕が肩から砕けるのを横目に見た。正面にはまだ憎むべき人でなしの姿を見据えていた。
まったく、人でなしだ。身も、心も。そいつはもう人の形を成していない。心臓が動いているだけ、脳に血が巡っているだけ。それでも生きていると目視してわかるのは、間違いなくそいつの目はこちらに向いていて、口元がゆっくりと笑みの形を取ったから。
おぞましい生き物だ。越えてはいけない境界を越え、持続するネゲントロピーは生命を司らない。化物だ。超常。神秘。奇跡。不可思議の霊験、神に通じるすべては従属する信仰なしには神に能わない。
砕けた腕を内蔵する第一質料から再生する。次いで乱雑に生成した夜明けの色をした杭を後方に発射し、それには振り向かずに前へ――血溜まりの下へ。
空中に縫い留められたヘキサグラムの成れ果てが声ならぬ声を上げるのを聞いた。いくらか放たれた冷気の矢が肌を焼く。焼かれた肌は爛れることも、血を流すこともない。白い肌の裂け目からは淡く暁の光が砂のようにこぼれるばかりだ。
「――勝手に死ぬなんて許さないわ」
屋上には絶えず冷気の矢が降り注ぎ、薄青に空間が歪んでいた。血溜まりの中にぼろきれのようになった男がいる。呪いに引き裂かれた体がまだ動いているのはひとえに執念によるものに違いなかった。
そのすぐそばに小さな男の子が三角座りをしている。右手と左手にそれぞれ別の装置を持ち、こちらを見て目を見開いている。どうして、と言った気がした。きっと予想しなかったのだろう。暁ノ宮綺咲が、顕現したエンプレスがこうなること。綺咲はそれを一瞥して息を吐いた。いつしか雪が降り始めていた。
薄青の光の矢と純白の六花の降る視界で、血溜まりの男が口を動かした。
確かにこう言ったはずだ。
ぼ く の か ち だ、 ユ ー リ。
「……――な」
それはここに存在する模造神への称賛であり。
思案する暁ノ宮綺咲への否定の言葉だった。
――わたしを作ったあなたすら、目の前のわたしを見ないというの。
この先の未来に、今こうして思考する暁ノ宮綺咲は存続しない。被造の神は造られたところでその意味を失う。価値を失う。エンプレスは目的のために作られた手段でしかない。それを思い知らされた。
不意に大剣を引きずるほどになった暁ノ宮綺咲に、背後から影が覆いかぶさった。刹那に閃光。衝撃。轟音。
それがヘキサグラムに仕掛けられた自爆装置の作動だとういうこと。暁ノ宮綺咲は逆行する意識の中で認識した。莫大なエネルギーに耐え切れなくなった身体と精神は退行を選び、いずれ消滅する。だから、どうしたって、暁ノ宮綺咲という物語はここで終わりを迎える。その先はどうだろう? これは再現される神降ろしだ。残る降ろされた神の力の欠片はどんな形をとる? それは暁ノ宮綺咲をたどる? それとも――
あーあ。
もう少し、遊びたかったなあ……。
暁ノ宮綺咲ちゃん、またね……




