33. エンプレス
お待たせしました…!
『まあ、そんなところだ』
ユーリさんは一通り話し終えると、あたしを見て唇の片端を吊り上げた。辛気臭い顔をするんじゃない。そう言いたげだったけど、ユーリさんの最期は壮絶で、とても笑って聞けるような話ではなかった。
『己は満足して死んだ。納得できる最期だった。心残りがあるとすれば、祖国の土を踏んでは死ねなかったことだ。魔女との約束を反故にしたことだ。――が、幸運なことに、己は故郷に埋葬されたのだ。まだ墓に手を合わせる人間がいる。縁を絶ってはおらん。あの魔女も、それで許してくれるだろう』
「そう――ですか」
結局、何があたしとユーリさんを繋げたのか。あたしにはわからずじまいで。ちょっとだけ唇を噛む。ユーリさんがあたしに似た気配を持っていると言った魔女。不思議な力を使う人。イギリスだし、本当に魔女だったのかもしれない。あのアレイスター・クロウリーの国だし、魔女がいたっておかしくない。今、目の前に幽霊がいるんだから、魔女だって。
けれど、その魔女が、カガセオ機関に関係しているのなら、あるいは。
……。
ホロスさんの見た神様。第一次世界大戦後、大正時代。ロンドン。魔女。
繋がっているのかもしれない。すべては環を描いて、ここに帰結していたりする、のかも。かといって、それが、あたしをユーリさんが助ける理由にはならないけど。
――話は済んだかしら?
声がする。あたしは応えずに、ユーリさんに向き直った。
「ユーリさん。あたし、実は、もうすぐ死にます」
ユーリさんは顔色一つ変えずに「そうか」と答えた。
どうしようもない事実として、もはやあたしに生き残る手段は残されていない。ここはユークリッド平面状、二字曲線の二つ目の交点はとうに過ぎ去って、もう二度と交わらない。世界から忘却されていた暁ノ宮綺咲の存在が、宵ヶ峰イツキによって明らかにされた。あたしがこうして立っている居場所は、もう綺咲に返さないといけなくて。それなのに、まだあたしがここに存在している理由。過去と交わって錯乱した世界に生じた空費時間なのでしょう。
「どうしようもない理由で死にます。あたしは……本当は、存在しちゃいけない身なので」
『だが、君は存在しているではないか』
ユーリさんの大きな手があたしの肩をがっしり掴んだ。ひやりとする、死者の冷たさ。夜に馴染む半透明があたしを真っ直ぐ見据えている。
「存在――は、まあ、そうなんですけど。違う人間になってしまうというか。とにかくそれが――あたしは、怖い」
生きていたいと思うこと。
在り続けたいと願うこと。
それも、もしかしたら、あたしの願いではなくて、あたしが作られた理由に拠る、機械的な欲求なのかもしれないけれど。
それでもあたしは、願うことを止められないのでしょう。
『君自身が消えてなくなるからと言って、この世界から君が消え去ることはない』
あたしは首を横に振る。きっと消えてしまう。暁ノ宮綺咲が、この数年間、存在しなかったことにされたように。
そんなあたしを見て、ユーリさんはこともなげに言った。
『託せ』
力強い言葉だった。
『己に君の事情はわからん。然し、君がそうあれかしと望むなら。君が君の意志を持って託すといい。君の意志は確かな熱量を持って現世に残るだろう。託した誰かの心を灼き続けるだろう』
死してなお、とユーリさんは続けた。その口許は幽かに笑っている。半透明に満ち足りた表情をしている。こんな満足顔の幽霊がいるなんて、おかしい。未練もなく現世にとどまっているなんて。あたしはふっと頬を緩めた。
『己もまた託された身だ。――とは言え、あの魔女はまだ死んでないと思うがな。そして、託した。連綿と続く意志の継承の果てにこの世は成り立っている。君がここにいて、君の意志を持って君の望みを託す限り。君もこの世から拭い去られることはあるまい。――だから、安心して、死ね』
なんとも晴れやかな「死ね」だった。現代に生きていたら決して聞くことのないだろう、かつて命を賭した人間のそれは。あたしの胸のうちをほぐして、不思議なくらいに安堵を与えた。世界の透明感が増した気がした。目の前のユーリさんが、すうっと薄くなったから。ユーリさんもそれに気付いたみたいだった。
『ふむ……時間が来たらしいな。ふむ。なかなか良い夜だった。後裔に代わり、君に恩を返すことができた。これも巡り合わせなのかもしらん』
ユーリさんが消えていく。同時に、全身を灼くような痛みが再び燻り始める。あたしの手にはメール作成画面の表示されたケータイが握られている。託せ、と言われたから。あたしはあたしなりの方法で託そうと思う。
『そういえば、君の名を聞いていなかったな』
消えかけのユーリさんがぽつりと呟いた。
「あけ――マホロです。あたしは、七瀬マホロ」
ユーリさんはニヤッと笑った。
『そうか。もし魔女に会ったらマホロの話をしておこう。きっと奴なら、世界が果てても生き続けるだろう。世界を映す魔女だ。もし会い見えることがあったなら、挨拶でもしておくといい。不愛想な、風変わりな目をした――』
さようなら、と挨拶をして。
愛想のない、変わった目をした魔女の姿を想像して。
痛み出す体に脂汗が滲むのを感じながら、残ったロスタイムで小さな画面に文字を入力し始めた。
どうかこのメッセージが消えてなくなりませんように。
この名前が忘れ去られませんように。
あたしがここにいたこと。
たしかに息をしていたこと。
全部全部託すから、どうか、忘れないで。
目を瞑ると、そこに真っ白な少女がいる。あたしと同じ顔をして、あたしと同じ声で喋る。けれどそれはあたしじゃない。
――それじゃ、気が済んだかしら。
あたしは何も答えない。答えられない。あたしの存在は時間切れで、どんどん希釈されて、存在を失くしていく。
――そう。そうしたら、ようやくおしまいね。もうあまり時間もないのだけど。
曖昧だ。
見ている世界、聞いている音、触れている感覚、冷たさも温かさもぼやけていて、ただ、ただ、霧散する。
だから、この景色は曖昧な現実で見た最後の夢なんだろうな。
空の青さと木々の緑しかないような、鮮やかで寂しい路の先、拓けた小高い丘の上。人が住んでいるかも怪しい、蔦の這う古ぼけた田舎家。その戸をくぐる。彼女は、あるいは、彼は、己が来ることがわかっているから、顔を覆うベールを外している。昴輝く夜の空気を思わせる冴えたアルトで迎えてくれる。綺麗な顔をしているのだから愛嬌くらい身につければいいものの。愛想のないそいつはニコリともせずに声を発した。
「Hi, Juli」
……。
……。
……。
沈んで、沈んで。
その夕焼けみたいに綺麗な目と、あたしの目が、一瞬合った気がした。
魔女、さん。
どうかあたしのこと、あなたの映した世界に覚えていて。
それじゃ、またいつか。
おやすみなさい。
*
エンプレス。
その名の示唆する通り、彼女はこの世界を統べる力を持っている。
「すぅーーーー……はぁーーーーーー……」
彼女は孤独だ。たった一人で、この世界に異物として放り出された。
「……急がなきゃ」
飾り気のないコンパクト型の端末。並ぶスイッチボタン。もはや必要のないものだ。しかし幼い彼女にとって「変身ヒロイン」や「魔法少女」は興味を惹く存在であるから、形だけ使用している。いわゆる雰囲気作りである。
「さあ――ようやく、わたしの時間」
彼女は幼く、眠り続けるには有り余る感情を持つ。それを長い間封じ込められていた。
それがある日、莫大な神懸りの力を与えられ。解放されたならば。
コンパクトのボタンを適当に押し込み、それとは関係なく衣装が変化する。それはカガセオ機関の魔法少女・セプテットが使用していたものと同じものだ。それは彼女がセプテットの魔法少女活動を羨んでいたためにほかならない。紫電を散らす大剣も同様である。下ろした髪を自由になびかせ、彼女は空中に舞い上がった。薄紫の燐光を纏い始め、彼女は不敵に笑う。それはこの世界で観測不能な異質なエネルギーであるはずなのに、その強大さゆえこの世界を侵食し始めていた。
綻びはじめていた。
「心配ないわ。もう歪んだ世界だもの」
溢れてやまぬ感情が彼女を衝動に駆り立てる。
何もかもめちゃくちゃに壊してしまえば、この衝動はおさまるかしら? 彼女は自問する。自答する。答えはノーだ。なぜなら彼女には圧倒的に時間が足りない。
「どいつも、こいつも――」
振り上げた大剣が強烈な光を放ち始めた。夜明けを錯覚させるほどのそれはとっくに現実に観測されているだろう。知ったことか。
「――ぶっ壊れちゃえ!」
振り下ろした大剣から閃く光刃。そこにはもはやいかなる理論も演算もなく、正義もなければ大義もない。ただの癇癪だ。幼い子どものがだだをこねるような、軽率に振るわれる暴力だ。
それは東京タワーの特別展望台に炸裂し。
地上二百五十メートルから上部を吹き飛ばした。
マホロちゃん、またいつか。




