31. ユーリとセーキⅠ
お待たせしました。
飴玉を口に放り込み、イツキはものぐさに語り始めた。
「――確執っていっても、こんなのよくある話だと思いますがね。雛小路有理は奇行の目立つ放蕩者の本家嫡男。雛小路正規は手堅く真面目な雛小路分家の長子。雛小路家は古い家だ。何より血統を重んじた。となれば、分家の正規がいくら優秀だろうと家を継ぐのは有理となる。当然、正規は有理をよく思わなかった。……いやあ、よくある話ですね! ありすぎてボクの知り合いに両手両足で数え余るほど実例がいます!」
「……貴様に何がわかる」
それは地の底から響くような、低くしわがれた声だった。イツキは目を丸くしてぼさぼさ髪の青年を見遣った。丸くした目でさらに指で眼鏡をつくって驚きを表現した。雛小路正規の、おそらく数十年ぶりの意味のある肉声。否、これを雛小路正規を称してよいものか。
もはや人間ですらないだろうに。
「あ~、お喋りになるとお身体に障りますよ~。壊死した組織は戻りませんからね。……えっ、もしかして戻るの? どっちでもいいか。――ははっ。難儀な体ですね。言葉を発すると体組織が破壊されていくなんて。いくら老いなくてもボクはごめんです。――サガラ! おじいちゃんの脈は戻った? ――ふぅん、ま、どうでもいいや。話を続けよう。……そうだな、この話の特異なところはおよそ百年前から現在まで続いているということですね。ふふっ。正規は未だ過去の妄執に囚われたまま馬鹿げたオカルト実験を繰り返し? とうとうオカルト『本家本元』に目を着けられ? こうしてボクのような『絶対的正義』が駆り出された、というわけで」
イツキは鉄骨を四方八方に歩き回って話続ける。時折強く吹く風に揺れる身体を楽しみながら、おとぎ話めいた過去を繰る。
「さて、いくら嫉妬だなんだと言っても、時は元号を大正、世界は初の世界大戦を終えた頃の古い話、血筋にはあらがえぬで納得できるものだとボクは思う。しかし、そうならない理由があった。だからこうなった。その理由を調べてみた。――有理と正規は三つほど年が離れていたが、時期を同じくしてロンドンへ海外留学していた。今じゃ落ちぶれて家名も残っていないとは言え、当時は華族だったからね。しかも優秀な正規は初等留学生でお国のお金で行っていたみたいだし、なおさら不自然はないな。不自然はここからだ。超常はここからだ。神秘は霧の都に発端を持つ。……」
鉄骨の上でくるりと身体を反転させ、イツキはまばらな聴衆に問うた。
「――化物を見たんでしょう?」
*
『己は華族の生まれだった。しかも本家で、長子だった。が、家を継ぐ気などさらさらなかった。先に述べた通り、古いしきたりが嫌いでな。分家にいたく優秀な男子がいた。己はそいつに継がせればよかろうと言った。己は旅に出たかったのだ。己は自由を愛したし、神国だけならず、世界を愛した。愛したのだよ。己はやがて家に嫌気がさして海を越えることにした。見聞を広めるためと言って私願留学をかこつけた。およそ五十日をかけて倫敦へ渡った。……倫敦には分家の男子――己はセーキと呼んでいたんだが。そいつが先に留学していてな。己とは違って真面目に勉強していたものだ。立派だと思った。もちろん己も勉強をした。身ぐるみ剥がされながらの実地講習だ。ドーバー海峡を渡って国から国へと流れついては死ぬ思いだった。が、今までの人生で最高に生きていると思った。――奴と出会ったのは、そうして己がユーリ・ソーンロードを名乗り、英吉利本土に戻ったときだった』
華族。戦前の、ずっと昔のひと。
そんなひとが、幽霊になってあたしに語りかけている。
その理由は。まだ、見えない。
『己はしばらく休養を取ろうと思ってな。そろそろ石畳に叩きつけられる生活から離れたかったわけだ。――そいつは倫敦から遠く、木の緑と空の青しか見えないようなクソ田舎の薬屋にいた。顔を隠して、男とも女ともつかない声で店をやっていた。きけば良く効くと評判らしい。週に一度、まとめた買い付けがあるという。で、それ以外は暇なんだと。己にはそれが退屈そうに見えて仕方がなかった。だから己は店を畳ませてそいつを連れ出すことにした』
「えっ」
『ん? どうかしたか』
「あ……いや、そんな簡単にお店を」
ユーリさんは呵々と笑った。
『もちろん、最初はつれないものだった。しかも相手は魔女だ』
「魔女?」
『ああ』
もう死んでいるはずなのに、ユーリさんの瞳は不可思議を語り鮮やかにきらめいた。
『この世界に依りて映す魔法を使う』
時空を超越して、世界の記憶は交錯する。
*
「それは世界に依存し、世界を映す化物だった」
本来ならば人の立ち入ることのない、天空の劇場。照明もない鉄骨のステージで、ソプラノの声は溌溂と謳い上げた。
「いいですか、死にかけジジイども。化物だ。神なんかじゃない。そんなものは此岸彼岸を問わず存在しない。我々の法の埒外に蠢く有象無象は等しく化物だ。――さて、留学の名分でロンドンに渡った有理は、真面目に勉学に取り組む正規とは異なり欧州各地を放浪しやがては裏社会に通じた。有理が化物と手を組んだのはイギリス本土に戻ってからだ。そこからの有理は、ざっくばらんに言えば、各地を荒らしまわったというじゃないか。そして正規はその様子を仔細に聞き及んでいた。なぜなら不思議なことに――有理と正規は――その確執がありながらも――いわゆるペンパルだったのだという。手紙が今でも残っているとは驚いたよ。……正規はね。有理に嫉妬しながらもその性質に焦がれていたらしい。憧憬と嫉妬をこじらせて。やがて正規は有理とその化物を目撃した。かつての正規青年が奇跡と称した現象群を目撃した。そこに居合わせたのがアルバート・ヘリオット。そこで死にかけている……なんだよ、サガラ。あ、死んだ? ふぅん。そう。……もとい、たった今くたばった、第一次世界大戦の帰還兵だ。アルバートと正規は友人関係だったらしいね」
低く、低く、唸り声がイツキの立つ隣の鉄骨から上がる。見ればその青年の白衣はじわりじわりと赤く染まりつつある。ぼと、と鈍い落下音。びしゃりと続く水音。夜風に混じる血の臭い。ははあ、喋りすぎて四肢がもげたな。イツキはやれやれと首を横に振った。常駐する機関本部には呪いの進行を限定的に抑える仕掛けが施されていたらしいが、ここはただの吹きさらしだ。宛てのない言葉だろうと、それは彼の細胞の一つ一つを丹念にすりつぶすのだろう。
「アルバートは化物に魅入られた。そうして見えざる意志の末端となった。正規の嫉妬は憧憬を食い潰した。そうして我欲に理性を乗っ取られた。ここは……ボクにも明かすことができなかったんだけどさ。おそらくは、ボクらに感知できない何らかの存在介入が行われた。二人の青年が己を焼き焦がすほど強い欲を持って、理法の外の化物に接触したタイミングで。狂わされたんだろう。イカレちゃったんでしょう? そうでなければ、どうして化物を模して神を造ろうだなんて酔狂なことを考えるんだ?」
*
『危ないから来るなと言ったんだがな。――いや。己が手紙を出したのが悪かったのだ。セーキは己が魔女ととあるギャングに仕掛けるその現場を覗きに来たのさ。お友達まで連れてきて、だ。己だけが気付いた。当然だ。魔女はセーキの顔を知らない。奴は他人など眼中にない。己はセーキに帰れと言った。セーキは帰らなかった。そのうちに、魔女が始めてしまった。己は魔女が一人で血煙の戦場を作るのを横目に、セーキらを力づくで追い返した。……それからしばらくして、己の下にセーキからたった一文だけの手紙が届いた。“I'll defeat you.”だと。呆れたものだ。己よりよほど優秀なくせに』
『――やがて転機が訪れた。己が魔女に救われたときの話だ。魔女には追手がかけられていた。魔女の知らない理由で、正体の知れない相手から――魔女は命を狙われていた。己と魔女はその追手と遭遇した。追手には魔女の尋常ならざる魔法も効かなかった。魔女は初めて己に謝罪した。巻き込んでしまって申し訳ないと。馬鹿を云う。付き合わせたのは己だ。巻き込んだのは己だ。己は魔女と追手から逃げ切るために万策を尽くした。やがて万策が尽きた。どんなに撒いても偽の情報を流しても、追手は魔女の居場所を突き止めた。見えない糸で繋がっているかのように』
『己と魔女はとある港に追い込まれた。いっそ海に身を投げれば助かったのかも知らんが、選択を誤った。廃屋に身を隠した己たちは火に巻かれた。魔法の火だ。追手も魔女と似た超常の術を行使する。ここまでかと思った。己はあきらめた。君のおかげで楽しい人生だったと魔女に伝えた。するとなんと、殴られた。出会った頃はそんな荒々しい奴じゃなかったんだがな。魔女は己に最後の奇跡をくれてやると云った。お前はこんなところで死ぬ人間ではない。持って生まれた縁を無碍にするな。死ぬなら祖国の土を踏んで死ね。そんなことを云われて――己は気付けば雛小路家の裏口の前に転がっていた』
あたしは目を何度か瞬かせて、
「ワープしたんですか?」と訊ねた。
『Warpか。そうだな。はるかユーラシア大陸を超えて、瑞穂の国までの空間を歪曲させた――まさか己も奴がここまでの神懸りを行使するとは思わなかった。と、同時に疑問に思った。こんなことができるなら、あんな苦労して逃げ回る必要はなかったのではないかと――……』




