22. ガールズトーク
「わ、すごい。初めて上った」
「そうなの? あたし、このくらいの高さならよく来るよ」
「……ああ! マホロは第三世代だから。あたしたちはねえ、まだ空飛んだりできなかったの。致死回避機構もないし。ボロボロになりながら戦ってたわねぇ。五人で」
人間相手にね。
夜景の広がる窓に映ったシェリーの唇は、たぶん、そんなふうに動いた。あたしは、そっか、と曖昧に答えるだけ。イベントデイでもない平日の夜、東京タワーの展望台は人もまばらで、あたしたちは子ども二人。フードを目深にかぶったパーカー姿。目立っていたとしても、双子コーデでデートです、とかで通るかな。目立つどころか、誰の目に留まるわけじゃないんだけど。
都会の夜景は天地が逆転している。窓の光の星は地面に散りばめられて、車のライトは流れ星。黒土の天には月が輝く水たまり、今にも消えそうな雨の痕跡は霞んだ一等星。あたしが守ろうとしていたもの。あたしが壊していたもの。ちょっと悔しい。ていうか。だいぶ。
「そのうち、もっと高いビルとかたくさん建つのかもしれないわね」
「空なんて見えなくなりそうだね」
「六百メートル級の電波塔計画、知らない?」
「何それ。東京タワーの倍もあるじゃん」
「そうねえ」
シェリーがくすくす笑う。あたしはとても笑えない。笑えないよ、シェリー。
「いつか見られるかしら」
「シェリーは見たい?」
「そうねえ。マホロは?」
「うん。……見たいな」
「いつか、見られたらいいわね。上ってみたい」
「……そうだね」
あたしたちに「いつか」なんてない。
シェリーはとっくに死んでいるし、あたしはいずれこの世界から弾き出される。あたしの追想は、予定調和にありえなかったそれは、粛々と進行する狂気めいた計画を早回しするにすぎなかった。止める手立ては一か八か。それでもやっぱり、死人は生き返らないし。
シェリーの黒いパーカーの背中、アップリケみたいに薄青の蛾が止まっている。オオミズアオ(シェリーはアルテミスと学名で呼ぶのを好む)という名のそれをシェリーは媒介なのだと言っていた。整然と並ぶ世界のシステムコードに介入するためのピッキングツール。シェリーと同じくとっくに死んでいて、この世界の法則とは別のそれで動いている。動かされている、と言うべきなのか。
「私ね、彼氏と夜景デートに来るの夢だったのよねぇ……あ、都庁でもいいわ。とにかく、夜景デートよ。夜景。憧れない?」
「それは……別に」
「ま。夢がない」
シェリーは口を尖らせた。冗談めかした口調。道化じみちゃって。
「夢なんてないよ。あたし、今日を生きるのが精いっぱいなのに」
シェリーがくすくす笑う。あたしは目を閉じる。少しだけ押し殺したような笑い声。耳にするほど浮き上がる景象がある。薄く藍を溶かしたような瞳。既視感。ぼんやりとていた過去が輪郭を持ってはっきりした。
あたしはシェリーを知っている。
けれども、あたしがシェリーについて詳細を述べることは憚られる。シェリーを知っているのはあたしであって「あたし」でない。奇妙な感覚。あたしの海馬はたしかに記憶しているのに。豊かな緑発を腰まで伸ばした、たおやめの少女。でもね。彼女が陽だまりのように微笑みかけた幼子はあたしじゃない。
――そうそう。あなたじゃないわ。わたしよ。わかってるの、良い子ね。
だからこそ疑っている。あたしの由縁を知るシェリーにはあたしに目をかける理由がない。しかしシェリーは「あなたに会えて嬉しい」と云った。あたしの意思を訊ねた。あたしにはそれが不可解で、この一週間、ずっと頭の隅で燻ぶっている。
シェリーと――十年前に死んだことになった魔法少女との邂逅から一週間が経つ。
一週間、シェリーはカガセオ機関の目を晦ませつつあたしにその方法を伝授した。カガセオ機関の魔法少女の仕組みについてとその応用。残念ながら、その応用はあたしには真似できないことも多かったけど。ほかにも機関の魔法少女システムの変遷とか、機関の目指しているところだとか(これはかなり拍子抜けした)。クリスさんも誰も教えてくれなかったことをシェリーは知っていて、惜しげもなくあたしに教えた。
たとえば、第三世代魔法少女・試作型「凍てつく最下層の六芒星」――ヘキサグラムのこと。
「リツカちゃんもここにいられたらよかったわよね。あの子がなまじ優秀じゃなければ手遅れにならなかったのに」
「……ああなる前に見つけられた?」
シェリーは泣きそうなくらい優しい顔で頷いた。あたしは口を一文字に結んだ。あたしとシェリーは誰にも認識されない不可視の存在。ここは観客のいない劇場のよう。くさい芝居ばかりで嫌になる。
「カガセオ機関はリツカちゃんにぜーんぶ、教えちゃったから。あ、もちろん目的以外ね。目的は私しか知らない。知ったってなんの役にも立たないし、バカみたいだし……。あの子ね。自分が何をしているか、わかってて。正義感の強い子だったから、ことに背負いこんで、可哀そうだったわ」
どうしてシェリーの言葉を真正面から信じられないのだろう。どうしても何もない。理由なんてわかりきってる。あのことだ。でも、あのことが今の状況にどうしても繋がらない。あたしは考え続けている。懐疑心、懐疑心。表に出ていなきゃいいけど。記憶の旅から帰ってどうにも感情的になりやすくていけない。ナズナなら、「そのくらいがいいよ」とか言ってくれるのかな。ナズナ。会いたいな。元気に揺れるナズナの三つ編みが懐かしく思えた。
「第三世代魔法少女の討伐対象……サクリファイスコード。世界を構築する前の第一質料。その敵性具象体。生命個体単位に分化された、孵化する直前のそれを厳選・演算干渉で奪って、三次元上に顕在化させる。ここで必要な生命個体数は十から百。同時に、素体の感覚質を媒介にした世界記憶へのアクセス。第一質料に強制的に形質と質量を持たせる。でも、そこにはクォークも光子もない。世界の中心教義を無視した森羅の発生。この世界に存在しえない現象。それを、素体の感覚質を演算術式で変換した高次干渉素子で導いた、やっぱり存在しえない現象で破壊する。……行き場を失くした第一質料を因果律で素体に誘導・プールして――途方もなく価値のあるものは、殺して奪うしかないの、ね」
シェリーが自分に言い聞かせるように囁いた。あたしを咎めているわけではないのでしょう。でも、そう聞こえなくもないというか。
実情を知って、あたしは大義名分を失った。
世界を守らないといけない。そのために侵略者を討つ。犠牲は厭わない。無責任な偏在の神にゆだねられた未来を拒んで、自らの手で紡ぐそれを欲する。聖戦。大義の下、代償性の力を行使する。栄えある未来を導く力のあるあなた。あなた。あなたを殺す。そうして現在を救う。神を模り新たな神を造り上げる。新しい世界、正しい世界を――という胡散臭い大義名分がさらさら崩れた。
守る者もなく、新しい世界を、神を造る、そのために数十人単位で殺そう。なんて、それはただのエゴじゃない? 利己主義が過ぎる。傲慢だ。それも、拍子抜けするくらいくだらない、つまらない競争心のために? そのためにあたしは生命を手折り続けたの。
この世界を襲う悪しき侵略者なんて存在していない。カガセオ機関のマッチポンプ。は? なんだそれ。なんだそれ。いやいやいや。なんでそんなこと? この話を初めて聞いたとき、あたしは当然シェリーに聞き返した。シェリーも当然、と答えた。
『それが百年間で見出された、一番安全で確立の高い神様の造り方だから』
シェリーはこうも付け加えた。平然としていた。
『人間のかたちをしていないだけ、私たちより楽なものでしょう?』
……。
胸中に渦巻く淀んだ感情を遠ざけたくて、ふと浮かんだ疑問を提示した。
「……どうして、機関は素体に少女を選んだんだろうね」
銀色の手すりに寄りかかる。夜景から目を背けた。シェリーからも。視界に入る何もかもが鬱陶しかった。あたしは誰の視界にも入らないのに、あたしの目はずっと世界を映している。あの人も。あの人も。デート中のカップルも。家族サービス中のお父さんも。はしゃぐ子供たちも。聞き覚えのない言語を話す旅行客も。もしも神様に心というものがあるのなら、こんなふうに鬱陶しいと思っているのかな。
「そんなの、決まってるじゃない」
シェリーがピンク色に変色した髪をかき上げた。いわく、不要な生体機構から切り捨てていかないと保てないのだそうだ。きっとシェリーの体はもう人間とは大きく違っている。孤立したエネルギー系で、生命は散逸構造を取ることすら許されない。シェリーの時間はとっくの昔に止まっている。
「いつだって、神に見初められるのは。無垢な少女なのよ」
「……どっかで聞いたよ、それ」
「ええ。私もどこかで聞いただけ」
シェリーがくすくす笑った。しらじらしいな、と思う。あたしがまだ気付いてないと思っている? ふわりと香る、濃密な花香。嫌だな。嫌な記憶。途中で途絶えた、あの日と同じ。ショッピングモール。閃くアーミーナイフ。
ねえ、シェリー。あたし、あなたに確かめないといけないことがある。
「ね、マホロ。私に確かめたいことがあるんでしょ?」
シェリーはあたしの胸の内を見透かしたように言った。シェリーを振り向けば、藍の目と視線が交わる。どきりとする。できれば、聞きたくない、言いたくない、でも、聞いておかないと。あたし、あなたをずっと信じられないままだ。
「……シェリーは、どうして――」
言い切らないうちにシェリーが口を開いた。
「――三笠サホをマホロに殺させたのは、私」
こうも付け加えた。平然としていた。
「よくできていたでしょう?」
どこもかしこも自己中心的な人ばかりです。




