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21. 交渉

 彼はひとえに権力者でありはするもの、その社会的身分は成人の庇護下に置かれる子どもにほかならない。()()()()()()からこそすれ、応接間のテーブルの一辺に小さな子どもがひとり、にこやかに座っているのは滑稽にも映ろう。しかしながら、家督たる彼はそのための教育を十分に受けているし、鬼の一族(・・・・)の本流たる彼はその教育を十二分に発揮する天稟の才を授かっている。彼の名を知る者に、彼を笑う者が一人とているはずもなかった。


 なかった、はずなのだが。


「――様、そろそろお時間ですが」


 彼は左手の親指と人差し指で強く下唇をつねった。幼子のつややかな唇には血が滲んでいた。彼は苛立っていた。芳しくない事態だ。まったく、よろしくないったらない。なんてお笑い種だ。


「はぁ? オレまだこいつに話があんの。見てわかんない?」


「ですが、次のご予定はガ」


「あー。あーあーあーあー。あーーーー……」


 彼は応接間いっぱいに響くくらいには大きな舌打ちを鳴らした。幼い顔立ちを顕著な不快に歪めた。振り返った。後ろに控えたスーツ姿の女性は、ついぞ先日あまりの無能ゆえ交代させた新しい付き人は、肩をすくめて口をつぐんだ。怖気づくとは違う。なぜ自分が子どもにこんな扱いをされるのか、と困惑しているふうだった。世間知らず(・・・・・)が過ぎるのだろう。


「優秀なのを寄越せっつうのは、テストの点数が良い奴って意味じゃないんだけどな。重要度、優先度。リンキオーヘン。わかる? アンタ、さてはガリ勉だ? 青鉄会に金積んじゃって。得意教科は数ⅢC」


 口ずさむ。興味はない。すぐに目を背けた。

 彼の瞳はこの世の一切を映すことを拒む、人の立ち入らない深い森の、さらに沼の底を思わせる。その沼の底にテーブルの向かい、眼前の男を沈めた。観察を要した。

 不快な男だ。

 ジェードと名乗ったその男は、品川駅のスーツの濁流に埋没して二度と思い出すことはできないような、特徴のない東洋人だった。権力者たる彼の名を知った上で、人を食ったような態度で軽薄に笑う。その声には小市民的な媚び諂いを窺わせるものの、それは一晩の雨では剥がれる鍍金にすぎない。鍍金は、いかにもな人畜無害を装った風貌をしている。たったの六年の人生で出会うにはあまりに稀少な類だ。この男は、ひいてはこの男の属する組織は、もはや別の次元に存在している。常識や前提が通用しない。信仰が異なる。教義が異なる。価値が異なる。そのような相手との交渉は骨が折れる。往々にして利益にならない。


 彼はソファに深く腰を掛け、床から浮いた足を前後に揺らした。踵でソファを蹴りつけてやった。まだ情緒の制御は苦手であった。それでも声と表情だけは取り繕った。


「つまり、老いぼれどもの後始末をよろしく、ということですね」


 彼がそう言えば、ジェードはハンカチで汗を拭う素振りをした。汗など先ほどから一滴もかいていない。とんだ大根役者だ。


「――ええ、ええ、端的に言えば。まったく、言うは易し、行うは難し、ですから、あなた方にお願いするしかないのです。この国でもっとも権力を持っているのはあなた方、ですよね? この国で最も非道な売国奴はあなた方だと聞き及んでいます」


「ははは。ひどい言われようだ。否定はしませんが」


 所詮、鬼の一族だ。非道と不義が最愛の友人である。そうして繁栄してきた。

 彼は変声期前の高い声で、しかし大人びた口調で言葉を続けた。


もあの医学研究所がキナ臭いことやってるのは知っていましたが。そうですか。実を結んだ、と。で、手に負えなくなった。跡形もなく消去(デリート)したい。私としては見合う代金さえいただければ構いませんよ。――だが」


 彼は小さな手でクラシック・センチュリーを二度ほど回した。その間も笑顔を絶やさなかった。哂え、笑え。強者であれ。そうでなければ彼の存在は価値がない。


「お代だけでは見合いそうにないですね」


 ジェードは沈黙を保った。やれやれ、といったふうだった。いずれにせよ、沈黙は是と見做される。彼は言葉を続けた。


「小切手とは別に、ささやかな贈り物が用意されていることを期待します。もちろん、我々にとって価値あるものでしょうね。というのも、私も個人的に興味を持っているのです。注視しています。私はこの国が大好きです。ですから、この国を乱すものを許しません。ええ、大好きですとも。ですから、素性の知れない男二人ががバブルに乗じて胡散臭い法人を立ち上げたことや、有象無象の成金から金を巻き上げて娯楽を提供していることや、ソ連崩壊以前より、共産圏に通じていること――啓蒙活動に関連しない不自然な資金提供を受けていること、なんかを知ってしまうとねェ」


 すっと目を細める。「この国が大好き」だなんて失笑ものの発言だ。愛国心など欠片もない彼だが、しかし荒らされるのは困るのだ。絶対的な支配者であるため。まにまに操るため。異なる理法に則った、胡乱な無法者の繰る不可視の糸を、解け。


「あんた方のご立派な教祖(・・)は戦争屋か?」


「……――戦争!」


 ジェードはわざとらしく驚いた。その目は輝いていた。


「戦争、戦争ね。それはいい! 我々は毎日戦争ですよ。ちょっと日常をね、ぺらっとめくってごらんなさい。あんた方がやらかすからね、そのためのフィードバック機構がいますからね。いやはや、あんたらも机囲んで優雅に冷戦なんぞしとらんで、たまには派手に血を流した方が健全じゃあないかね。……失敬。我々にその気(・・・)はまったくありません。この世界の恒久的な平和を切望するのが我々です。あなた方にとっては大事なことなのでしょうが、やれアカだとか、自由貿易だとか、統一政府だとか。我々にはどうでもいいことです。そんなみみっちいスケールで動いてはいません」


「何が起ころうと責任は取らない、と解釈していいですかね」


まつりごと(・・・・・)人間(ひと)は滅びませんから。世界は正しく繁栄し、正しく衰退すればよいのです」


「はは。まったくですね」


 内心、舌打ちをする。これだから、宗教家は話が通じない。

 またいら立ちを募らせ始めれば、察してか否かジェードが「それと」と話し始めた。


「――これはおおっぴらにする賄賂の話ですが。あなたが胡散臭いと一蹴した法人機関に面白い玩具がたくさん転がってましてね、まあ、ですから、ひとつ宝探しでもしてみてください。ガラクタに混じっていいものもきっとある。あるったらありますよ。生体(・・)も残ってるかもしれない」


「お楽しみプレゼントですか? わぁ、いいなあ、何があるんだろう?」


 人工的な和やかな空気が醸されはじめた頃、彼の背後で緊迫した声が上がった。

 もちろん、控えていた付き人である。


「お時間です! もう本当に! 今出ないと!」


 彼は顔を歪めた。また付き人を不良品交換に出さねばなるまい。




「ガブリエ~ルおばさんのシュークリームの焼き立てに間に合いませんッッッ」




 彼はさっと真顔に戻った。やや蒼白していた。ジェードだかジャイアンだか知らん男が何事かと口をぽかんと半開きにした。彼はソファから飛び降りたその足で応接間のドアまで飛び跳ねた。着地点にランドセルが飛んできた。ナイスパス! 付き人がぶん投げたに違いなかった。不良品交換はたった今延期になった。

 彼はソプラノを響かせ言い放った。


「おじさんごめんなさいッ☆ ボク行かなきゃいけないから~! ジジイ二人てきとーに消しとくね! バイバイ!」


 目にもとまらぬ速さで応接間から外へ駆け抜ける。

 どれだけ権力を手にしてもままならないものがある。彼は身をもって知っていた。無論、金と権力でどうとでもなるものが無数にあることもよく知っていた。彼にとって人命とは後者であった。とりわけ、彼の暗澹たる未来に光を落とす者などは一刻も早く処理すべきだった。


 何が神だ。何が奇跡だ。都合よく、聞こえのいい言葉になりやがって。それらは理不尽の正当化だ。夜が明け、朝が来ることの。もしくは悪が淘汰され、善が蔓延ることの。させてたまるか。老い先短い生涯だ。窒息するほど濃い闇夜にしか咲けぬ花だ。夜明けをもたらすと言うならば。不要な神秘を顕わすならば。静謐の宵を切り裂くのであれば、それが救済の女神であっても討ち取らねばなるまい。


 「トチ狂った年代物が二体」であれば、なおさらだろう?

次回、東京タワー、ガールズトーク。

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