16. cherie
本当のこと、って、なに。
知ってどうするの。
知ってしまったら、変わってしまう。存続しない。それはいけないこと。
「…………ぅ」
美味しそうな匂いがする。お腹がぐうと鳴った。どれくらい寝ていたんだろう。もう朝かな。だったらお腹空いてても当然だし。
「……うーん」
天井が青い。空の色じゃない。水色。薄緑? まだらに染まっている。ていうか、なんかうごめいてない? まだ焦点が合わない。合わせるべきでないような気がする。だって今、バサッてした。天井が。バサッ! って。
「…………――うっわぁ」
焦点が合った。
合ってしまった。
えっ。どうしよう。どうすればいいのかな。騒ぐとよくないのかな。翅の広げ方。ああ、蝶々じゃないもんなあ。
蛾の群れだ。
「起きたぁ?」
横になったまま声のした方を向く。バサバサする天井は視界の外へ。この異様な天井について、声の主はまるで気にしてなさそうだった。ことの大小問わず気にしない人なんだと思う。なんていったって、全裸だし。蛾の天井と、すがすがしいまでの一糸纏わず。なんだろう、考えない方がよさそうかな。
「……起きました……けど……」
体を起こすと部屋全体が目に入る。民家というよりホテルの一室っぽい。ほどよくスタイリッシュなのが蛾屋敷みたいになってるけど。虫がダメな人には拷問部屋みたいになっているけれど。
「んー……シャワー浴びたんだけど、タオルが見つかんないのよねぇ。冷えちゃう」
大人びた少女だった。
見た目はあたしよりいくつか上だと思う。そんな少女の見た目に、大人がぎゅうぎゅうに押し込まれているような。そんな印象を受ける。不自然で、ちぐはぐ。首を傾げてしまう。例えば、水を滴らせた毒々しいピンク色の髪、とか。
「はい。コンソメあげる。インスタントは重宝するわねぇ」
「……はい」
脈絡のなさに躊躇しつつもカップを受け取る。おいしそうな匂い。とりあえず一口。おいしい。おなかが空いてるから、今ならなんでもおいしい。
「あっ! やっとタオル見つけた~! わかりにくいわねぇ、おしゃれなとこってこういうところよくないわ」
「…………」
「ガウンはっけーん。いる? お洋服洗濯してるから」
「はぁ………………ん?」
ちょうど起こした体から布団がするりと滑り落ちた。
服がない。
ない。
全裸。
水色の蛾がおちょくるみたいに肩に止まって、すぐに飛んでいった。ずいぶん大きい。手のひらくらいありそうだった。
「アルテミスをいじめないであげてちょうだいね。ここを護ってくれているから」
「アルテミス?」
聞き返すと同時にドライヤーの音。クリーム色のガウンを着た彼女はピンク色の髪を乾かしはじめた。きっとあたしの声は聞こえてない。
部屋をぐるりと見回す。何十頭の蛾がいるんだろう。もっと? まじないの類いなのか、あのピンクな人の趣味なのか。趣味の範疇じゃない気がするけど。
そもそも、あたしはなんでこんなところにいるの。
部屋に窓はない。外の景色はうかがえない。ヘキサグラムはどうなったの。討伐途中だったSコードは。クリスさんに連絡を――ケータイが見当たらない。ルーシーの緊急回線では? そのルーシーがどこにもいない。 七色にきらめくキーホルダーはどこにもない。
今、あたしは服も着ていなくて、文字通り身一つで。
外部への連絡手段は断たれていて。
状況がわからないまま、見知らぬ相手と二人きり。
最後の記憶は嵐の夜。失われていく身体感覚と、月光翅の蝶の幻覚。誘うように問う声。
「…………ん?」
布団に張りついていた蛾をつまみ上げた。胴がなかなかのモフモフだ。
「あのとき飛んでたのって、これじゃ……」
手を放すと大きな翅をバサバサさせて飛んでいった。
ほどけた髪をかき回す。ひどく思考が鈍重で、ともすれば眠りに落ちそうになる。
『本当のことを知りたくない?』
知りたい。でも、あたしがそんなふうに思っていいの?
この現状維持を変えてしまってかまわない?
「教えてほしいことがたくさんあるでしょう」
誘う声は毒蛾の鱗粉。惹起される炎症反応は衝動に熱を与える。
「待たせてごめんなさい。――ああ、怯えた顔も怖い顔もしてくれないのね」
声に同調する、胸焼けしそうな甘い匂い。その主はあたしの目の前にいる。
「………………あなたは」
彼女は重力を感じさせない妖精みたいな動きであたしの上にのしかかって、ぐっと顔を近付けた。何かを確かめるように見つめる、黒に藍を一滴垂らしたような瞳を、あたしはどこかで見たような気がした。
「私はね…………マホロのお母さん!」
「冗談やめてください。母なら首を吊って死にました」
「ふふ。嘘。きっと、今のマホロには何を言っても嘘になるわね」
笑っているのに、その目は全然笑えていなかった。冷めて、凍てついて、希望の一切が失われたような藍の目。遠い昔に命を落とした、光のない死者の瞳。
「だから私、ほかのだれでもない暁ノ宮マホロを覚ましてあげる」
ぎゅっと抱きしめられた。素肌に触れたのは、冷たい体温。そこに生命があるとは感じさせない。鼓動はなく、血潮は巡らない。停滞している。人間じゃない。悟ったあたしに彼女は耳元で囁いた。泣きそうな声だった。
「私はシェリー。マホロの先々代。カガセオ機関の魔法少女、だった」
モールでの一幕を眺めていた少女との邂逅。
一方、マホロとの連絡が途絶えたカガセオ機関では――