lull. チカのヒーロー(後編)
夜空を眺めど星は降ってこないけれど、奇妙なことが起きた。見間違いかと思ってぐりぐり目を擦った。だって、ありえない。なんだそれは。冗談じゃない。いや、冗談なんだろう。
満天の星空に亀裂が入るのを見た。
じわり、じわりと空が裂けていく。
「……――!」
チカは部屋を飛び出して廊下を駆け抜けた。玄関から外に出ようとして、あわてて裏口へ引き返す。裏口は母の店と繋がっているのだ。
すでに店じまいをして曇らせたグラスを磨く母が目を丸くしてチカを見た。息を切らせてドアを跳ね開けたチカの慌てぶりと来たら、良くないことも想像させる。母が心配そうに、しかしおっとりと口を開く前にチカは声を上げた。
「そッ――空ッ! なんか、星――えっ、星? ヤバい! 変なやつが……!」
「あら、まあ。UFOでも見つけた? 見に行ってもいいけど、気を付けてね」
きょとんとして、ついでくすくす笑う母に二度三度頷いて、チカはサンダル履きのまま猛然と走り出した。勢いよく開けた店のドアからしゃららら、と音がする。星の流れるような音。けれど、星は流れずに裂けた闇に飲み込まれていった。
実を言えば、チカはわくわくしていた。色めき立っていた。高揚していた。もしかしたら、あれは世界を侵略する化物の仕業で。チカはヒーローに選ばれて。世界を救えるのはチカだけで。そうだったらどうだろう? もしもそうなら、世界が一変するのなら。
チカは、変革された自分を好きになれる気がしたのだ。
「や、やややや……ッば……なんだあれ」
チカは、星空に目を凝らした。裂け目とは別に、星空を汚すもやのようなものがある。雲ではない。真っ黒だ。夜空も十分に黒なのだけど、濁っている。真っ黒に煤けていく星空。走りながら手を伸ばした。届け。届け。何に届けって言うんだ。わからないけれど、この高揚に任せて。自然と声が出た。うわああ。わああ。息を切らせながら、浮わついた声はやがてはっきりした叫び声に変わった。自分でも何をしているのかわからなかった。何でもよかった。やみくもに叫んで、わめき散らして、何もかもぶちまけてしまいたかった。誰でもいいから聞いてほしかったのだ。
誰でもいいとは言ったけど。
「うわああ……がッ……――は、ぁ――、はひゅッ」
チカは、理外の化物を対象に入れていない。
「う、わ、わ」
おかげで、上下逆さまに空を飛んでいるわけだし。
「うぅわああああああああああああああああ!」
伸ばした腕が音もなく現れた黒いもやに絡まった。一瞬だった。一瞬でもやが形を成した。ばかでかい翼だった。その形を目にした次の刹那には足が浮いた。浮いた足がもやに絡んだ。弾みで腕がほどけた。あっという間に逆さまになったことに気付いたときにはもう、街が遥か下に見えた。
「あ……ぁぁ、ぁ……は、ひ、ぃ……」
あまりに恐怖が過ぎると声が出ないこと。チカはこの日、初めて知った。
地面が遠い。どんどん遠ざかっていく。上下左右から風を受ける。吐きそうだ。夕飯を食べたばかりだから? でも、夕飯よりも心臓を吐き出しそうで、まろび出てしまいそうで、絡まっているのは片足だけだからともすればまっ逆さまに落ちそうで、怖くて、気を失ってしまいそうで、死ぬのかなと茫然と思う。チカは自分のことが嫌いだ。大嫌いだ。でも死にたくはないのだ。チカはずっと生きていたいし母を安心させたいし父を感嘆させたいのだ。大好きな街を色んな人に伝えたいし、そのためにたくさんの場所に行きたいし、コンクリート・ジャングルに憧れないわけじゃない。チカはまだ何も知らない。チカは何者でもない。チカはチカだ。チカは「チカ」でいたくない。チカは、「チカ」を何者かせしめるヒーローになりたいのだ。ほかでもない、チカ自身がそうありたいと強く思う。足枷なしに自由にはなれない。自由は満ち足りてはならない。欲すること。渇望すること。闘うこと。生きるということ。
チカの手は、まだどこにも届いちゃいない。
『Heart shot. ――Ready』
「――Fire!」
声が聞こえた。
二つ。機械みたいに平淡な大人の女性の声と少女の声。
「……――あ」
それ以上の声は出なかった。
北アルプスのふもと。空に近い町。冴えわたる星空の中。
ヒーローがそこにいた。
真っ白な髪を黒いリボンでくくって、夜に融けそうな闇色のコートをはためかせて。真っ赤に燃え盛る大剣を振り下ろした少女は、チカよりも少し大人びていた。
チカの足に絡み付いていた黒いもやが真っ赤に爆発した。チカは吹き飛ばされたけれど熱くはなかった。不思議な赤だった。焔によく似た赤い光は散じてもなお紅く輝いて、幻想的な夜を映していた。
ふわり、とチカのからだが抱きかかえられた。
新雪のように白い髪は夜闇すら染められず、ぼうっと輝いているように見えた。ばっちりと目が合う。合ってしまった。美少女中の美少女だった。ハルキの彼女のリサなんか比べ物にならない。華奢ではかなげな美少女。そんなお姫様みたいな女の子にお姫様抱っこされるとか。されるとか。されるとか……。
耳まで熱くなる思いだ。実際に熱い。チカは、あわあわ狼狽えながらも礼を言おうとした。そんな様子のチカを見ても少女はクスリともしない。怪訝な顔もしない。人形のような無機質さを保って口を開いた。
「ねえルーシー、この子、あたしのこと見えてる」
『はい。マホロの認識阻害は切りましたから。子どもには呪いが一般化されにくいので、この方が好都合でしょう』
「ふーん……」
ルーシー、と呼ばれた声の主は確認できなかった。美少女の名前はマホロ。マホロは何者なんだろう。クラスで一番のっぽのチカを平気な顔で抱えて、当たり前のように空を駆ける。
不意にマホロが夜空に停止した。足下に輝く紅の魔法陣は、チカには到底理解できそうにない数式の羅列だった。
「ねえ」
声が降ってきた。話しかけられている、と気付いたのは数秒経ってからだ。
「送ってあげる。家、どこ?」
「家……は、あっちの……あ、住所」
チカはたどたどしく県名から番地までを告げた。けれどもマホロは無表情のまま首を傾げて「わかんない」と言う。
「今日、林間学校で初めて来たんだもん。この辺。しかも泊まってるところから結構離れてるし」
「林間学校」
「そう。中等部のね」
「中等部」
「中学校。きみ、小学生? 大きいね」
「…………はい」
中学生の女の子に抱えられて、家まで送られるって。やっぱり顔が熱い。
「場所。何となくわかるなら指差して。見えにくいからちょっと高度下げようか。……暗いね。東京とは大違い」
「東京から来てるん――ひッ」
唐突に訪れる浮遊感。重力に従って、下へ、下へ。支えられているとはいえ落ちるのは怖い。チカは思わずマホロにしがみついた。ぎゅっと目をつむった。マホロは全然、平気なんだろうな。なんていったって、マホロはヒーローなのだから。
落下が緩やかになってやがて停止する。そろそろと目を開ける。
「わかる?」と、マホロ。相変わらずの無表情だった。
「えっと…………あっち……川の方」
マホロは短く返事をした。そっけないものだった。心地よく夜風を浴びるスピードで、夜の世界を駆けていく。星空の中。緑と土の、夏の匂いの、夜。
「マホロさんは……ヒーロー、なんですか」
「ううん。魔法少女」
「魔法」
「そうだよ」
「剣使ってたけど……物理攻撃じゃん」
「魔法だよ。物理で空飛べないし」
「そう、なんだ。……ですか」
「……なんであたしの名前知ってるの」
「えっ……なんか、呼ばれてたんで」
「聞こえてたんだ」
「……ごめんなさい」
「ううん。別に。――じゃ、きみの名前は」
「お、おぉれは……」
チカは言い淀んだ。マホロの淡い紫色の瞳はこちらを見てはいない。チカのことなんて眼中にない。たわむれ程度にたずねただけ、興味なんてまるでなさそうに遠く先を見ていた。それが悔しいようで、なぜかちょっとだけ安心するのだった。安心したら涙が出てきた。情けない。こんな情けない自分の名前は――
「………………チカ」
「チカ?」
「そうだよ。どうせオレはチカだよ。かっこよくない。意気地も度胸もないし、……泣くし? チカでいいよ。オレは、お父さんみたいにはなれないし――」
「チカって呼ばれてるんだ」
相変わらず淡々とした調子のマホロに頷く。マホロ、こっちは見てないけど。やっぱり、全然、興味なさそうだけど。
「カズヨシくん? 名前」
……そういうわけでも、ないのかな。
チカは涙ぐんだことを悟られないよう、一拍おいて息を整えた。
「――そう、です。……なんで」
「チカって顔じゃないもん。そんなかわいくはないでしょ」
慈悲も悪念もない、真っ直ぐな言葉だった。
「男の子だし。チカって読める漢字でからかわれてるのかなって。パズルみたいにあてはめて、一般的っぽいやつ適当に言っただけ。あたしが思いついたのは、千に、佳作の佳。千って名付けだとカズって使えるよね。珍しいけど。佳はヨシでしょ。で、カズヨシ。……当たり?」
あんぐりと口を開けてマホロを見上げた。
チカの方なんてまるで気にしちゃいないモノクロの少女は、一秒前の夜の空気をどんどん後ろに置いてきぼりにして。真紅にステップして前へ、先へ。
「オレの両親、千歳と佳邦っていうんです。一文字ずつ使って。それで、千佳」
「ふーん」
一拍おいて、マホロはこうも付け加えた。
「いい名前じゃん」
あたしなんかよりずっと。とも付け加えてマホロは息を吐いた。もしかしたら笑ったのかもしれない。ちゃんと見ていればよかった。
「あたし、そういういざこざ? みたいなのよくわかんないけど」
マホロはそう前置きした。よくわかんない、と言うわりには真っ直ぐな声音だった。
「……。カズヨシくんさ。まだ小学生じゃん。無理に向き合って卑屈にならなくていい。と、思う。名前が嫌なら、逃げればいいよ。――苗字は? そっちで呼んでもらえばいいじゃん」
「……そんな上手くいかないし……長いし」
「長いんだ」
「うん……。……あ、そこ、角のところ」
「了解。今夜は災難だったね」
「……はい」
蝉の声もない静かな夜だった。
アスファルトに着地するマホロの足音がいやに響く。
「――マホロさん」
早々に別れを告げて踵を返すマホロ。チカは、その背中に問いかけた。
「逃げるのって、オレ、カッコわるい! と、思うんですけど」
振り向いてくれないかと思った。そんなことはなかった。相変わらず、人形みたいに綺麗な顔をこれっぽちも崩さなかったけれど。幻想的に切り取られた夜の銀幕にヒロインは健在だ。
「カッコ悪いとダメなんだ」
「……ダメ……だと思う」
「なんで?」
「……なんとなく」
「なんで、が見つからないならダメだって言えないと思う」
「でも……」
ビスクドールの無機質さを保ったまま、マホロが首を傾げる。
「あたし、カズヨシくんがどうしてそこまで思い悩んでるのか知らない。あたしはそんなふうに悩んだりできないから。だからきみがそうして思い悩んでることに対して、効果的な助言をしたりはできない。だからあたしがいつも思っていることを言うよ」
奇怪に音を失くした夜。少女の声が厳かに反響する。
「あたしね、両親いないの。ていうか、家族も親族もだいたい、いないっていうか。たまたま生きるすべが見つかって、不自由はないけど。でも、あたし、不幸って思われてる。言われてる。悲劇的だねって。それでもいいの。今死ぬわけじゃないから。この先、色んなことがあるんだと思う。その中で、とりわけ満足できることがあったらそれで十分。きっとその思い出の中で死ねるでしょう。だからあたしは今を続ける。生き続ける。存続すること。来たるその日まで。今日をつなぐこと。感傷は、置き去りでいい」
長く、深く、マホロは息を吐いた。真っ白なポニーテールが幽玄に揺れる。月の光を集めてにじむように輝いていた。
「……きみはどうする?」
呆気にとられたチカは二の句どころか一の句も出てこない。混乱して真っ白になる頭の中。静寂を湛えて黒を極めた不可思議な夜の世界。
闇に滲む白銀がふわりと舞う。身を翻したマホロの足下に真紅の魔法陣が輝いた。行ってしまう。この夜が終わってしまう。手を伸ばした。そこには届かない。チカの求めるものはそこにはない。
「………………なぁんてね」
残響する声は、いくばくかいたずらっぽく聞こえた。
それを最後に世界が夢から醒める。
急に蝉の声が聞こえはじめた。四方八方からやかましく、現実を知覚させる。でも、さっきまでのことだって現実だろう。世界は眠っていたって、チカはずっと醒めていた。そうして日常の裏側で、モノクロの魔法少女と邂逅を果たしたのだ。
「……オレは」
どうする? どうしたい?
その答えはとっくに出てるじゃないか。
「変わりたい、変えたい……」
目をつむって声に出す。外部から変革されるのではなく、おのずから変化すること。それはとても難しい。勇気のいることだ。見えない闇の中、傷つくことを恐れずに足を踏み出す。そしたら、逃げてもいい? けれど、いつまでも足踏みしているわけにもいかないから。ゆける方へ進もう。あれもこれも叶えて、世界を救うヒーローになんてならなくていい。いつか自分の望んだものに手が届きますように。
「明日から、なしろざわ、と呼んでもらおう……長いけど……」
肩の力を抜いて、死ぬときに後悔しないようにでも、生きてみようか。
以上でチカのヒーローは完結です。
チカくん、社会の荒波に負けず頑張ってほしいですね。
間違っても社畜に耐え切れず会社を爆破したりする大人になってはいけない。
次回より、邪法少女後半開始です。
マホロの過去、カガセオ機関の真相へ迫りませう。