lull. チカのヒーロー(前編)
チカは自分の名前が嫌いだ。
「チカさあ、今日どうする? マサんち寄ってく? ハルキとツグも来ッけど」
「チカは来ねーだろ、女子だもん」
「チカちゃんだからなあ」
げらげら。
こんな調子だから、チカは自分の名前が嫌いで仕方がないのだ。
「るッせぇ! 誰がチカだよ! オレの名前は――!」
なぁんて啖呵が切れればいいのだけど、チカはいかんせん「人がいい」からそうもできない。へらっと笑って、手をひらひらさせて、角が立たないようにその場をおさめること。なあなあでやり過ごすこと。それが唯一チカにできることだ。
「はーい! チカちゃんも、行きまーす! ……」
チカは何でもあきらめるのが早いのだ。
字を丁寧に書くのも、三桁同士の掛け算も、リコーダーも、サッカーも野球も跳び箱も、上手にできなければすぐあきらめてしまう。何となく察してしまうのだ。限界はここだ。もっとできる人は簡単にできる。敵うことはない。自分が頑張らなくてもいいんだって。それで死ぬことはないのだから。ほどほどに生きていくことはできるのだから。
「そんじゃチカ、おれら掃除当番だからさ。ババアんとこでブタメン買っといて」
よろしく、よろしく、と続く声。いつものごとく、お金はあとで払ってくれるからこれには正当性がある。あるったらあるのだ。チカにも掃除当番はあるのだけど。
こんな調子だからチカは「チカ」をやめられない。小心者で、気弱で、長いものに巻かれて強いやつに迎合して。それがチカだ。年々縮こまる自己主張と裏腹に、身長はぐんぐん伸びて背の順は一番後ろになった。チカはそれが恥ずかしい。背中を丸めて、成長痛に痛む脚を引きずって、ここにはいないみたいに歩いている。どうか誰も見ないでください。身体ばかり大きくなって、何もできない自分を笑わないでください。
「あんた、またパシられてんのかい」
駄菓子屋のババアが湯を沸かしながら言った。ババアの裏庭の湧き水を沸かすヤカンの表面がわっと曇る。すぐに元のさびだらけが濃くなる。チカは口を一文字に結んでポットの中のスルメをかぶりつきで見つめている。探しているのだ。一番大きいスルメを。
「せっかくでっかくなったのにねえ。そのうち悪い連中に絡まれそうで心配だよ」
ババアの声は野太い。熊みたいなガタイで喉仏が目立つ。しかしババアをジジイと言ってはいけない。駄菓子のアタリを交換してくれなくなるのだ。
相撲取りのまわしみたいなエプロンのポケットからタバコとジッポを取り出し、ババアはおもむろに煙を吐きはじめた。ついでに、小言も。
「チトセさんも心配だろうねぇ。旦那はしょっちゅう家を留守にするし。立派な人なのは間違いないだろうけどあんな薄命そうなお嬢ちゃんとモヤシっ子を家に置いてちゃいけねえね。ったく、あんたがクンちゃんくらいしっかりしてくれりゃあね。あんたいくつ? 三年生? ――四年生! ああそう、もう十つになったの。そりゃ、べそかかなくなったわけだ。あの頃はすぐ泣いて。チトセさんも泣きそうで。懐かしいねえ。……あんた立派になんなよ、その辺でクダ巻いてるクソガキになるんじゃないよ。クンちゃんの子なんだからね。あんたアレだよ、クンちゃんがあんたくらいの頃はね、いけすかない余所者を片っ端から田んぼに――」
チカはスルメのポットを開けた。ババアが話をやめてチカの動きを注視する。数えているのだ。蓋が空いている秒数。チカは狙いを定めた中央寄りのスルメを素早く取り出した。くるくると蓋を閉める。ババアに拳を突き出す。応じて差し出された筋ばった手に、ちゃりん。
「はい、三十円ちょうど。毎度」
チカはスルメをがじがじかじってマサとハルキとツグを待った。どうせハルキとその彼女のリサをからかって遅くなっているに違いない。どこがいいんだよ、あんな出っ歯。墨汁に顔突っ込んで、お歯黒にでも、なっちまえ。
☆ * ☆ * ☆
チカは不幸ではないのだ。何もしてないと落ち着かないから、と小料理屋を営む母の料理はおいしいし、立派な仕事をしている父のおかげで欲しいものは遠慮なく欲しいと言うことができる。やりたいことはやりたいと言える。けれど、最近はそんなこともなくやった。やりたいことはすぐにやりたくなくなってしまう。欲しかったゲームは友達と話を合わせる小道具に成り下がる。何でもあきらめるのが早いのだ。上手にならないから。順調にいかないから。チカは父のように上手くはできない。立派にはなれない。チカはチカなのだけれど、お父さんの子なんだからね、と言われると前を向いていられなくなる。
チカは不幸ではないけれど、自由でもないのだ。
「自由になりてーーーー……」
窓から夜空を眺めど星は流れず、何者もチカの願いを叶えてくれそうにはなかった。たとえば東京や大阪みたいな都心からすればずっと山奥にあるこの街は空が近く、空気が澄んでいて、街のあちこちから湧き出る水は清らかだ。初めて東京に行った夜、空に星がなくて驚いた。湿って茹だる熱気にくらくらした。コンクリート・ジャングル。担任のミコシバ先生がそんな言葉を使っていたけど、ぴったりだと思った。チカは自分の住んでいる街が好きだ。学校も、近所の河川敷の風景も、青く霞む北アルプスも。チカは自分を取り囲む人たちが好きだ。父も母も優しく愛情深く、友達はチカをからかうけど、本気で傷つけたいわけじゃない。熊みたいな駄菓子屋のババアもたまにはおまけしてくれるのだ。これ以上望んだら、チカにはきっとバチが当たる。けれども望まずにはいられない。だってチカは。チカは。
チカは、自分のことが大嫌いだ。
子どもの夜は、まだまだこれから。