15. 嵐夜は夢を見る
「遠距離専門じゃ――」
双剣を大剣で防ぐ。比喩でなく背筋を凍らせる冷気が体を包むのを感じた。咄嗟に距離をとる。
「なかったんかい……!」
『その個体はもとより近接戦闘が主体です。遠距離攻撃は……初めて観測しました』
「もともと、って魔法少女時代ってこと?」
『……どうしてあなたがそれを』
双剣を受ける。即座に弾く。受ける。弾く。繰り返す間、クリスさんは沈黙している。あたしが知るわけない情報、知ってるんだもんね。驚かせてごめん。知りたいとは言わない。けれど、あたしも気付いてる。そんなふうに察してくれたらいい。
不意にヘキサグラムを見失った。ああ、余計なこと考えてるから。だからこんなことになるの。相手の速度はあたしに順応してどんどん上がってた。想定できたはずなのに。
腹を突き破って背中から貫通した剣先。
背後を取られるって、ほんと致命的――
「――ひッ……はあっ……はっ、ひぅ……ぁ」
叫び声なんて出ない。痛覚は瞬く間に最大の神経パルスを発してあたしの脳内メモリーを奪う。少しずつ体が動かなくなっていく。四肢の感覚も喪われていく。凍りついて、真っ白に霜が降りている。周囲の雨も氷の粒に変わってぱちぱちと当たっては弾けていく。手から滑り落ちた大剣は、きっと真紅の粒子に分解されて消えてしまった。
ヘキサグラムの剣を持ったもう片方の腕が。不規則に増殖した肉と骨で変形した腕があたしの視界に映る。薄青の切っ先はあたしの心臓に向けられていた。
「罪を」
ヘキサグラムの声、震えている。泣きそうなくらいに。
「償って。あなたが悪いの。私じゃない。あなたが死んで。私は許されるの。パパもママも、きっと探してるもの。ただいまって言わなきゃ」
朦朧とする意識の中、得心してしまう。
そっか。
この子はきっと、あたしに足りないものを持っていたんだ。
「私は悪いことしてないの。みんな私のこと待ってるんだから――」
だから、きっと。こんなふうに。
『オルタナティブ・プロトコルを発動します! マホロ、気をしっかり持ちなさい……!』
クリスさんの声があたしをまどろみから引き戻す。真っ赤に染まる視界。染まったのは視界だけじゃない。あたし自身と、ヘキサグラムもろとも。
するり、とヘキサグラムの手が剣を手放したのを見た。落下する剣と、次いで聞こえる絶叫。ヘキサグラムのものに違いなかった。なんか、嫌だな。聞いているととても気分が悪い。ただでさえ痛いのに。耳元で騒がないでほしい。
片膝を折って踵を後ろへ。思い切り蹴った。腹部に走る激痛。頭の中が真っ白になって、一瞬、意識が飛んだ。意識が戻った時には薄青の剣は抜けていた。真紅の炎は凍りついた体を解凍してくれたのか、どこも感覚が戻っている。けど、出血量が多すぎる。刺されたのは肝臓? 感覚神経通ってる臓器じゃなくてよかったかな。って、安堵してる場合じゃないけど。
「いッ……たぁ……!」
崩れ落ちる体を魔法陣が支える。クリスさんがサポートしてくれてるんだろうけど、もう、意識が。
紅く燃え上がったまま落ちていくヘキサグラムを見た。霞む視界じゃ、あの子がどんな姿をしているのかわからないけれど。
きっと、あたしを殺そうとしたあの子は笑っていたと思う。
『まだ終わっていません、マホロ』
――まだ終わらないわ。あなたはわたしのために。
『リモートなので不完全の可能性がありますが、止血と痛覚麻痺で応急処置をします』
――そんなケガは早く治しちゃって。わたしの邪魔をする奴を叩き潰すの。
見たことのない魔法陣が展開されるのを見た。
淡い紫の色で空中に絵画される判読不能の文字。解読不能の図式。
これはカガセオ機関の魔法陣じゃない。
不自然に歪められた人工的な高次世界へのアクセスではなくて。
『……マホロ?』
「………………」
同じく薄紫に染まった魔法陣に立ち上がり、点になりつつあるヘキサグラムを見下ろす。
「最終目標は、無力化および捕縛。だよね」
『えぇ、そうですが――私は、まだ術式を』
あたしはクリスさんの話に耳を傾けない。捕まえないと。ヘキサグラム。かつてあたしと同じ魔法少女だった女の子。
完全回復したあたしを追尾する三方晶から怪訝な声を聞いた。
『あなた……本当にマホロですか?』
何をバカなこと言ってるんだろう。
「――当たり前じゃん」
宙を蹴って加速する。夜の嵐を切り裂いて、それに手を伸ばす。顔を歪める。
だってあの子、ちゃんと人の顔をしている。
クリスさんの講じた手はあたしやヘキサグラムを炎で燃やしたわけじゃない。証拠に、あたしは火傷のひとつも負ってないし。何をしたのかはわからないけど、ヘキサグラムは気を失って落下し続けている。身体はとっくに人間とはかけ離れて、天使でも悪魔でもない、神話の怪物みたいになってしまったけれど。
「………………」
掴んだ異形の腕は温かかった。
人の温もりではないのかもしれない。それでも、その温かさは妙に心をざわつかせた。
ヘキサグラムの身体はまだ脈打っていた。息があった。薄く開いた蛍光色の瞳。目があった。乾いた唇が蠢く。
「…………ゆる……し、て」
あたしは無言で首を振る。
あたしはあなたを咎めないから、許すこともできない。
街から遠く離れた黒い海に灯りはない。あたしか宙を蹴るたびに発動する薄紫の魔法陣だけが、心もとない灯り。弾けては消える、暁の色。
途切れそうな呼吸を繰り返すヘキサグラムを抱えながら、あたしはどうでもいい話をする。沈黙を埋めたかった。
「ウランガラスって知ってる?」
「………………さい……」
「ブラックライト当てると光るの。ちょうどあなたの目の色みたいに」
「……――の、…………た」
「ボヘミア地方で作られ始めたのが十九世紀のはじめ。そんな頃にブラックライトなんかあるわけないって? そうだね。そのくらいになって、ようやく紫外線は検出されたから」
「…………………………………ら……」
その声が相槌でないことは確かだったけど、あたしはさも会話を成り立たせようとしていた。
したかった。
これがどんな感情なのか、あたしには理解できない。
わからないけど、あたしはそういうふうにできてないのだと思う。
「暁の白んだ空は紫外線でいっぱいなんだって。だから、夜明けの薄暗い中で蛍光を鑑賞してたらしいよ」
「…………………――かん、……は」
「朝焼けって赤いでしょう。でも、今の話を考えるとさ。夜が明けて、最初に届く色は紫なんじゃないかなって思う。――あなたはどう思う?」
「……が、……、……………る……」
問いの答を聞くことも、ヘキサグラム自身の言葉を知ることもなく、あたしは黒い世界を駆け続けた。空模様はどんどん悪化していた。いつしか大粒の雨が横殴りに叩きつけるようになっていた。定期的に目元をぬぐわないと前も見えない。この雨と一緒に、風に飛ばされて何処かへ行ってしまえそう。
嵐の夜だった。
雨風は強く、一切を洗いざらい吹き飛ばしてしまいそうだった。あたしの心のもやもやも、ざわめきも、不快もわだかまりもすべて。
『……マホロ。高度を下げてください。誘導路灯を点灯させましたので、そのまま滑走路へ』
クリスさんはあたしとヘキサグラムの会話に何を思ったんだろう。魔法のビスマス結晶の向こうで。どんな顔してたんだろう。
そんな些細な疑問もこの夜は吹き飛ばしてしまう。
あたしの意識ごと。
「…………かッ、ぁ――!?」
地上に降り立った瞬間に強烈な眩暈。視界が歪む。呼吸ができない。クリスさんの声は聞き取れない。皮膚感覚が麻痺して雨風も感じられない。世界が曖昧になっていく。
平衡感覚も失われていたけど、あたしはたぶん倒れたんだと思う。歪む視界に黒い空を見た。そして、ここから先はきっと幻覚。胸焼けしそうなほどの甘い匂いも、嵐の中を舞う月光翅の蝶もありえないでしょう。
だからあたし、これが誰の声だったのか知らない。
「ねぇ、マホロ。――本当のことを知りたくはない?」
胸焼けするような甘い匂いは、いつか香ったものと同じもの。
帰路のマホロを待ち受けた人物とは――
---
本作はここで折り返し地点を迎えます。
区切りという意味も込めて、次回(週)は番外編をお送りいたします。
季節を夏に遡り、都会の喧騒から離れて。
次回、「チカのヒーロー」(前編/後編)