10. どうして
夜の帳が落ちた頃。幽霊すらおっかなびっくり通りすぎそうなくらいに静かな世界にいる。
建設途中で放置されたテナントビルは、建築資材特有の有機物にほこり臭さが混じって体に悪そう。こんなふうに誰にも認識されない空間。意識されない空間は存在しないも同じこと。一切を隔絶された空間は存在する。あたしはそこを上から出て、星空の世界へ。
ルービックキューブ型のキーホルダーがきらめいて形を変える。常時組変わる魔法のビスマス結晶。本当は何でできてるんだか知れたものじゃないけど。
『認識阻害光学防壁の準備が完了しました。続いてSコードの索敵及び解析を開始します』
隣で浮遊するルーシーに無言で頷き、あたしはコンパクトにパターンを入力する。右手の小指で×。たちまち展開される数式だらけの魔法陣。
「Lorem ipsam, primary code:septette of Iris」
それはこの世あらざる神秘を顕現させる魔法の呪文。
虹の女神の七重奏。
それがあたし――魔法少女マホロに与えられた「名称」。
那由多の数式に導かれた解はこの世の理で説明のつかない現象を引き起こす。七色の光は交わり、その波長を相殺し増幅し純白へ。どんなウェディングドレスよりもまばゆい白に包まれて、あたしは理法を超えた存在に成り変わる。時間にすれば一瞬のことだけど、この身に感じるそれはひどく緩やかで、どこか心地良い。消えてしまいそうなくらいに意識が曖昧になるのに、それが気持ちよくて、変身を終えたあたしはちょっと不安になる。でも、それもすぐに消えてゆく。
こんなに体が軽いのだから。
「――索敵状況は?」
『距離、南西380メートル……63m/minにてさらに南西へ移動中。小型……タイプMB。推定災害規模、0.2Unit/hr。……簡単なミッションですね、マホロ』
本当、いつも相手にしてるデカブツや散開する獣型に比べたら拍子抜けするほど容易い。でも、ひとつだけ知らないワード。
「ねえルーシー、タイプMBって? 初めて出てくるよね」
メガバイト? 容量? 違うよね。
『はい。初のタイプです。油断はしないように』
「そういうこと聞いてるんじゃないんだけど……?」
『マホロ、うかうかしていると被害が出ます。相手は世界を侵略する化物です』
そうだ。考え事してる場合じゃない。
あたしは世界を救わないと。
鉄骨剥き出しのビルの屋上から南西めがけて飛び出す。タイプMythでない限り、化物は地上を徘徊する。そうして直接的な被害を出す。認識阻害しているあたしと同じように、奴らが人の目に映ることはない。では、どのように被害が表れるのか。奴らがこの世界のあらゆる存在に、現象に噛みついた場合。その表現系は端的に――呪いだ。
『目標まであと50メートル。40……30……20……10メートル――』
目下に広がる景色に顔を歪めた。
それはただ珍しく厄介だ、という印象によるもの。
『目標直上に到達しました』
駅直結のショッピングモール。その真上にあたしはいる。ものものしい雰囲気はモールに横付けられた緊急車両の赤い点滅のせい。四台。また増えた。入口が封鎖されたりはしていないから、事件ではなく事故として処理されている。
「ルーシー。呪いの展開が早いよ。さっきの災害規模、本当にあってる?」
『必要であれば再解析を開始します』
「そう。――じゃ、お願いね」
あたしはきらめくルーシーを一瞥してモールの内部へ。開いていたスタッフルームの窓からするりと入り込んで――暗がりの人だかりを見た。
まだ営業時間なのに。スタッフルームにどうしてこんなに人が? よく見なくてもわかる。人だかりのほとんどは一般客だ。不安そうに囁きを交わしあっていた。
囁きのなかに気にかかる内容があった。
――あんな大人しそうな子に何があったんだろうね。
「ルーシー、どのフロアにいるかだけでも索敵できない? ここ、かなり広いから」
『承知しました。再解析と並行して索敵処理を実行します。……対象コードは半径50メートルに――』
「へ? さっきまで直上~とか特定してたじゃん」
『並行処理中は精度が落ちるものです。申し訳ありません』
……釈然としない。
あたしは音もなく組み変わり続けるルーシーに踵を返してスタッフルームを後にする。人の声のさざめきを後ろに聞いて営業フロアへ。閑散としている。ここは最上階のイベントフロアで、今はイベントやってないからなんだけど。
だから、その靴音は妙に響いた。
エスカレーターの動作音に混じって人為的な音は上昇している。あたしは直感的にこいつだ、とわかった。コンパクトを開いてボタンを押し込む。押し寄せる神秘の奔流は紅に染み、断罪の大剣を顕現させる。ごめんね。どこの誰か知らないけど。あたし、また死なせた。でも、あなたの命でたくさんの人の命が救えるんだから。だから――
「――七瀬さん?」
なんで?
「どうしたの七瀬さん。……今日、このフロアでイベントあったっけ」
なんであなたがここにいるの。
「三笠、さん」
どうしてこんなときに名前を思い出すんだろう。
三笠沙保。
白地にチェックのスカートは臨世学園の中等部。おしとやかを絵に描いたような彼女の家は茶道の家元。柔和な笑みを血に染めて、三笠さんは、二年A組のクラスメイトは、あたしに襲いかかった。
正体不明の敵はクラスメイト。そのときマホロは――