9. 日常の裏側
彼はひとえに権力者である。
「ンでぇー? アンタはそれをオレに伝えてどうしたいの」
声も形もまるきり子どものそれなのに、態度は一国の王のごとく横柄だ。その横柄に大の大人が萎縮している。震えている。
「いえ……あ、なっ、なんでもご報告するようにと仰せつかっておりますので、そのように」
「へェ。アンタさ、ホントに義務教育出た? うん? 最終学歴は大卒? 知らねーよ。何でもって言われて愚直に何でもギャーギャー言うやつがあるかよ。オレの忙しさ知ってるよね?」
申し訳ございません、と深々こうべを垂れた女性の方を、彼はもう向いてはいない。謝罪などに興味がないからだ。彼には時間がない。成人するまであと十四年。それまでにあらゆる財界と、政界と、それに伴う裏の知識を蓄積しなければならない。いついかなる場合においても有利にことを進められるよう、手段を身に付けなければならない。必要に応じて武力を行使する必要がある。そのためには国境と法律を越えることも必要となる。彼は支配しなくてはならない。蹂躙しなくてはならない。反逆の意思すら生まれぬよう叩き潰し、なべてこの世を意のままに操る。彼はそうなるべく生まれてきたし、それが今生において変わることはない。彼は生まれながらの支配者であるからして、懸想される神すら超越して万能でなくてはならない。
彼には時間がないのだ。
高貴な猫よろしく目を細め、左手の人差し指と親指で下唇をつねった。ときに血がにじむほどのそれは、彼が考え事をするときの癖だった。
「まだ六分ある。アンタの与太話に付き合ってやるよ。常磐道事故の爆発が間髪入れずに凍り付いたってやつ。未発表の新規工業技術の疑い? あのさぁ。仮にもウチの諜報スルーして開発までこぎつけた連中がンなポカやらかすかよ。ここ日本だぜ。それを踏まえてアンタはオレをナメ腐ってんのか? どこの家に雇われてるんだ?」
私立臨世学園理事長室。
北の窓から射し込む青い光はほの暗く、緊張の糸はいまにもぷつりと切れそうに張り詰められている。異様な空間だ。小さな君主に仕える立場であるスーツ姿の女性は、息苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。蒼い顔を悟られないよう、こうべは垂れたまま。冷や汗の落ちる滴を目で追いながら。
「オレたちの耳に入らないように技術開発ができるわけない。事業範囲知らないわけじゃないよね?」
スーツ姿の女性は顔を上げ、少し言い淀んで「存じております」と言った。これ以上ない緊張から言い淀んだに違いなかった。
「ほぉ。――では」
「あッ、暁ノ宮に関係することかと!」
彼は激しく机を蹴り上げた。およそ小さな子どもとは思えない力に黒檀の机が浮き上がる。女性は頭を下げることもできずに「ひっ」と息を飲んだ。
「荒唐無稽にも程があるな。暁ノ宮の手掛けた事業分野は医薬開発。国内外の緒大学と提携し、とりわけ組織工学に基づいた再生医療研究に資金を投入していた」
「それも存じております! ですが――」
彼に告げられたのはある人物の移動記録だった。あらゆる産業を手掛ける彼の生家にとっては秘密裏に収集される顧客情報とも言える。そしてそれを聞いた彼は、己の六分間の用途判断が正しかったと悟る。
夜間に子ども一人の長距離移動は目立つのだ。
それも、特異な容姿であればなおのこと。
彼は身を翻し、理事長不在の理事長室を後にする。付き人であるはずの女性は彼を追うことができない。当然だ。通常、人間は六階の窓から飛び降りて難なく着地することなどできはしないのだから。
「暁ノ宮の生き残り、ねぇ……」
不自然なほど衝撃なく着地した彼は、ランドセルを背負い直し、平然と学園正門へ歩いて向かう。今年入学したばかりの彼を知らない者はこの学園にいない。彼はこの学園一の権力者である。それは即ち、この国の上流階級の頂点に位置するとも言える。
「七瀬マホロ。七瀬。七瀬ね。ははっ。まだやってんのか。あきらめ悪いなあ」
今にも暮れようとする日に背を向けて。
すでに夜に侵食されつつある東の空に向かいうんと伸びをする。
秋分はとうに過ぎた。
夜は長くなるばかりだ。
「――朝なんか、来なくていいんだよ」
朔の夜を湛えてなお闇に染む瞳は、移りゆく風景の何も映してなどいなかった。
次回、マホロの交戦する相手は――