みをつくしても
回る救急車の赤ランプ。ストレッチャーの鳴る音。人間は二リットルの出血で死ぬのだと言う。千早の血はどれくらい出ていただろう。春海は、血で汚れた千早の上着を握りしめていた。鉄の匂い。嫌な匂い。これは死の匂いだ……。目の前で、「手術中」と書かれたランプが灯っている。あそこに千早がいる。現実感がない。妙に手が震えている……。
「……さん」
「一ノ瀬春海さん」
春海はハッとして顔をあげた。男性の二人組が立っている。彼らは警察手帳を見せ、
「お話をお聞きしたいのですが、よろしいですか」
「はい」
春海はぼんやりした頭で話をした。一体自分がなにを言っているのか、定かではなかった。
「では、一ノ瀬秋彦さんは、あなたを刺すつもりが誤って冬野千早さんを刺した。間違いないですね」
「……はい」
「ありがとうございます」
二人組は手帳に何かを書き付けた後、頭をさげて去っていく。春海は声を出した。
「あの人は」
刑事たちが振り向く。
「秋彦さんは……罪に問われますか」
「ええ。傷害罪、あるいは殺人未遂。あるいは……」
刑事は言葉を切った。あるいは、殺人──。
「つまり、しばらく勾留されるんですね」
「ええ」
春海はふらりと立ち上がった。
「会えますか、秋彦さんに」
「逮捕後七十二時間は、ご家族でも面会はできません」
千早と同じく、神様は信じていない。だが、手を組み合わせて祈った。どうか、千早を助けてください。一時間ほどして、「手術中」というランプが消えた。中から出て来た医師に、春海は駆け寄る。
「先生」
「思ったより傷が浅くて……命に別状はありません」
春海はほ、と息を吐いた。
「ただ、がんの方は予断を許しません。彼はまだ若いですし、治療を怠らないように注意してください」
「はい」
春海は、手術室から出てきた千早に近寄る。麻酔がきいているのか、まだ眠っているようだ。
「千早さん……」
春海は一旦千早の自宅へ戻り、荷物を持って病院に向かった。ふと、ダンボールに入ったみかんが目に入り、それも持参する。千早は、大部屋の角に寝かされていた。顔色が紙のように真っ白で、死んでいるのではと不安になる。肌に触れたら温かかった。
窓辺の椅子に座り、みかんの皮を剥いていたら、千早がふっ、と瞳を開いた。彼はこちらに目をやり、
「……何の匂い?」
「みかんです」
「食べたい」
「まだダメです」
「じゃあ、なんで剥いたの」
「私が食べるため」
「ひどいな……」
千早が目を細める。ぺり、と剥いたみかんの皮がぼやけた。
「春海さん?」
ぽたり、と涙が落ちて、膝にシミを作った。
「あんなこと、しないで」
「……本当にすぐ泣くな、春海さんは」
彼はそっと、春海の目元をぬぐった。
「庇ったのは、あなたのためじゃないんですよ」
千早が優しい声で言う。
「どういう意味?」
「春海さんが、旦那さんと心中しそうに見えたから、嫉妬しただけ」
「違うの。他の人に、迷惑をかけるから……」
そうなるくらいなら、自分が刺された方がマシだと思った。
「それです。二人の世界って感じだった」
千早の手は冷たい。
「やっぱり夫婦なんだな、って。邪魔してやりたかった」
「もう夫婦じゃないわ、あんな人」
春海はそっと、千早の手を握りしめた。
「あなたの側に、一生いるから」
千早も、春海の手を握り返す。
「ありがとう」
それから、千早は一月ほどで退院した。
3日後、春海は刑事に連れられて、留置所に来ていた。時間を告げられ、中に入る。ドラマでよく見た場面だ、と思った。
「春海」
秋彦がアクリル板越しにこちらを見た。春海は無表情で彼を見返した。随分痩せて、ギラついて、怯えた目をしている。あんなに恋い焦がれた男が、なぜこんな風になってしまったのかわからない。春海のせいでもあるのだろうか。椅子に腰掛け、冷静な声で尋ねる。
「なんで千早さんを刺したの」
「あいつが飛び出してきたんだ。俺のせいじゃない」
「そうやって、なんでも人のせいにするのね。左遷されたら薫さんのせい、何もかも私のせい、飛び出した千早さんのせい」
秋彦が髪をくしゃりと乱した。
「なんで……おまえが家を出るまでは上手くいってたのに」
なぜ春海が家を出たのかも、この男は理解できないのだろう。
「……つい最近、私が不倫をしてる、っていう通告を誰かがしたの。あれはあなた?」
秋彦は吐き捨てるように言った。
「事実だろう。公務員のくせに。服務規律違反でクビになればいい」
春海はアクリル板に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「もし千早さんが死んだら、あなたを殺してやる」
秋彦が身体を震わせた。
「ああ、でもそうなったら、殺人ね。ずっと牢屋で過ごすのよ。殺すまでもないかもしれない」
春海は椅子から立ち上がる。
「待てよ……おまえはまだ俺の妻なんだぞ!」
秋彦の声が追いかけてくる。春海は何も言わずに、その場を去った。
殺してやる。自分があんなにひどいことを言えるなんて、今まで思ってもみなかった。秋彦が憎いのか、よくわからない。でも、千早を傷つけたことが許せなかった。
途中、薫とすれ違う。彼は春海と目が合うなり、頭をさげた。
「すいません。俺がきちんと止められなかったから……」
秋彦は、薫のLINEを覗き見たのだと言う。薫は身体を震わせていた。
「あなたのせいじゃない」
春海は、そっと薫の肩に手を置いた。
「会いにいかない方がいいわ。あなたには、もっといい人がいる」
「……でも、秋彦さんには、誰もいないから」
失礼します。薫はそう言って、面会室へと歩いて行った。春海はそれを見送り、反対の方向へ歩き始めた。
★
木枯らしが吹くようになったころ、LINEに着信があった。
「お久しぶりです。薫です。突然ですが、お渡ししたいものがあります。お会いできませんか?」
春海は、薫と市内の喫茶店で会った。厚手のカーディガンを羽織った春海は、店内に入り、薫を探した。
「久しぶり」
向かい側に座ると、薫が会釈をした。
「お久しぶりです」
薫は少し髪が伸びたようだった。元気にしているようで安心する。彼はカバンから書類を取り出し、こちらに差し出した。
「これ。春海さんに渡してくれ、って秋彦さんに言われました」
薫が差し出したのは、離婚届だった。
「……」
「すいません。俺が届けるのも、なんだか変なんだけど」
「ううん。ありがとう」
春海は離婚届をしまい、
「秋彦さんは、どうなるの?」
「刑事罰は免れないだろうって。罪状によって処遇が変わるって、弁護士の先生は言ってました」
「そう」
「すいません」
薫が頭を下げる。
「なんであなたが謝るの?」
「そもそもは、俺のせいだって気がして」
「そんなこと、ないと思う」
きっかけの一つではあったのかもしれない。
「秋彦があなたの名前を寝言で呼んだとき、世界が終わったような気がしたの」
あの夏の日、坂道で見たまぶしい笑顔。あの笑顔が、この世で一番の宝物に思えた。今はもう思い出せない。陽炎のように消えてしまった。
「私がいうのもなんだけど、秋彦はやめたほうがいいわ」
「はい。俺もそう思います」
薫はそう言って、肩をすくめた。
「でも、職業柄弱ってる人間を放っておけなくて。全部無くしたから、だんだん落ち着いて、良くなってきている気もしますし」
「リハビリね」
「リハビリして治るかはわからないですけど」
彼は笑った。それからふ、と表情を変えた。
「あの人……冬野千早さん。胃がんだそうですね」
「ええ」
「どうりで見たことがあると思った。ガン病棟には滅多に行かないので、名前を聞いても気づきませんでした」
「再発して、治るものなの?」
「それぞれだと思いますが……覚悟はしておいたほうがいいかもしれない」
「そうね」
春海は目を伏せ、コーヒーを飲んだ。誰だって、いきなり愛しいひとがいなくなってしまう覚悟をしなければならないのかもしれない。
薫と別れた春海は、市役所に寄って離婚届を出した。そのあと、秋彦と暮らした部屋に向かった。エレベーターを使って上がっていくと、部屋の前に兄が立っていた。彼はこちらを見て片手をあげる。
「よう」
「久しぶり」
春海は兄とともに部屋に入り、お茶を飲んだ。兄は何気なくみかんを手に取り、一口食べて驚いている。
「このみかん超美味いな」
「千早さんの実家、みかん農家なの」
「って不倫相手の? 禁断の果実ってやつ?」
春海が目を細めたら、兄がスイマセン、と言った。
「もう不倫じゃないの。離婚届、さっき出したから」
「観念したのか、秋彦のやつ」
「うん。なんか、ぽっきり折れちゃったみたい」
「よわいなあ、エリートくんは」
兄は連絡をするのだと言って、ちゃっかり千早の実家の住所をメモしている。
「忙しいのによく来れたね」
「おまえが来いって言ったんだろうがよ」
「他に人員がいないし」
「友達いないのかよ」
「いるけど。LINE仲間の薫くんには元旦那を世話してもらってるし、水野さんは旅行中だし」
「暇なのは独身の兄だけってか」
「うん」
「うんじゃないだろ。お兄様をなんだと思ってんだ」
「優しいからね、兄さん」
「おべっか使うなよ」
照れ隠しにみかんの皮を投げつけてくる。そう、兄は優しいのだ。ただ、その優しさが伝わりにくいのが難点なのだが。
「さて、やるか。なんで俺が秋彦の尻ぬぐいせにゃならんのかわからないが」
兄は腕まくりをし、ダンボールを持ってきた。
「すごい量だね」
「ふふん、仕事柄ダンボールの用意には困らないのだ」
品物を詰めながら、嘆息まじりに言う。
「まさかエリート銀行員がキレて人刺すなんてなあ」
「うん」
「ドラマみたいだよな、愛憎のもつれ」
果たして、秋彦が春海に抱いていたのは愛情だったのだろうか。単に、自分の思い通りにならないことが不満だっただけなのではないか。
「ドラマなんか見ないじゃない、兄さん」
そんな暇ないしな。兄はそう言った。
「っていうか、あっちの親御さんは?」
「荷物を着払いで送ってくれ、って」
「うわ、冷たいな。都会の人間はこれだから」
秋彦は東京の生まれだ。こちらに来たのは、転勤のためだった。ご両親には何度か会ったことがある。息子が銀行員であることを、とても自慢に思っているようだった。
秋彦は昔からよくできて、悪さもしないで……。両親の話を聞いている時の秋彦は、いつも張り付いたような笑みを浮かべていた。きっと、昔から自分の気持ちをうまく出せなかったのだろう。それが歪んで行ってしまったのかもしれない。
「慰謝料請求できねえのかな。おまえ精神的苦痛とか訴えて見たら?」
「訴えないよ。もう関わりたくない」
「女ってドライだね~。昔の男なんか一瞬で忘れるし、すぐ新しい場所に適応するし。猫と同じだよな」
兄はOS機器を取り外しながら、
「お、いいパソコン使ってんじゃん。これもらっていいかな」
などと言っている。
「ねえ兄さん。美空さんに連絡した?」
「なんで。してないよ」
春海はスマホを取り出し、番号を呼び出した。呼び出し音がしているうちに、兄に差し出す。
「はい」
「はい? え?」
兄はスマホと春海を見比べ、スマホを耳に当てた。
「え、美空?」
彼は慌てた様子でスマホをもちなおす。
「いや、何って……元気?」
兄はボソボソ話したあと、こちらにスマホを突き出した。
「ん」
春海はスマホを受け取って尋ねる。
「美空さん、なんだって?」
「べつに。今度飯おごれって」
「じゃあまだ彼氏とかいないんじゃない?」
「そんなもんわからねーよ。美空はいい女だからな」
「ふーん」
「ニヤニヤすんなっ」
耳が赤くなっている。春海はくすりと笑い、兄のそばに腰を下ろした。
「兄さん、家継ぐ気ある?」
「ん? まあ、いずれはな。今の仕事面白いから、当分やめないけど」
兄はケーブルを巻きながら答える。
「そっか」
「なに、おまえ司書やめたいの?」
司書の仕事は好きだ。だが、周りから受けた態度を思うと、複雑な気分になる。窮屈さを感じながら、どこまでやれるかは疑問だった。
「ひとりになったらね、農家やるのもいいかなって」
「ひとり?」
「千早さん、胃がんなの」
兄がハッとした。
「マジかよ……」
「うん」
兄は真剣な顔で、顎に手を当てる。
「胃がんなのに人妻ゲットするとか、バイタリティ半端ねえな」
春海は脱力した。
「兄さんと話してると、悩みがなくなりそう」
「で、そのバイタリティ千早くんはなにしてんだよ」
「変な呼び方しないで。診療だよ。歯医者だもん」
「いいか、親父たちに合わせる前にお兄様に紹介しろよ。話しとくことがある」
「なに?」
「何でもいいだろ。とにかく俺が先だからな」
いったいなにを言う気なのやら。
「はいはい」
その時、兄のスマホが鳴り響いた。
「はい一ノ瀬。は? おまえ伝票くらい書けますつっただろ。ふざけんなよ」
兄はスマホを耳に当て、リビングを出て行く。すぐに戻ってきたかと思えば、
「悪い。ちょっと行ってくる。すぐ戻るから」
「うん。行ってらっしゃい」
慌ただしくまた出て行った。我が兄ながら忙しない。
「美空さんの気持ちもわかるなあ」
春海は本棚の整理をしようと、数冊を取り出した。秋彦のものはビジネス書ばかりだ。彼のものを選り分け、ダンボールに詰めて行く。
「あ……」
数冊の絵本を取り出すと、その中に東方の三博士のものがあった。春海は絵本をめくり始める。絵本を読んでいたら、二年前のクリスマスのことを少しずつ思い出した。