表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

今はた同じ

 車外から、さざ波が聞こえてくる。春海と千早は、裸で抱き合っていた。狭いシートで二人くっついていると、捨て猫にでもなったような気がする。春海はそっと千早の肌に触れた。かすかに汗ばんでいる。


 うっすら筋肉がついた彼の腹に、かすかな引っ掛かりがあった。まだそう古くはない縫合痕が二箇所。春海は千早を見上げて尋ねた。


「これ……どうしたの?」

「盲腸の手術痕ですよ。二年前になったんだ」

 二箇所もあるのはなぜかと尋ねたら、

「切る場所を間違えたんじゃない?」

 真面目に答える気がないようだ。

「私、盲腸ってなったことないの。痛い?」

「痛いですよ、泣くくらい」

「千早さんが泣いたの? 見てみたかった」

「ひどいな」

「私ばかり泣き顔を見られてるから」

 春海さんはいいんだ。千早はそういった。


「男は簡単に泣いたらいけないって、よく言うじゃないですか」

 その価値観は古い。春海はそう思った。

「そんなことないわ。誰だって、生まれた時は泣くでしょう」

「覚えてないしな、それは」

 春海は千早の首筋に口づけ、身を起こした。外が白んでいるのが見える。そろそろ戻らなくては。シャツを羽織って言う。


「千早さん、お仕事があるでしょう? 先に帰っていて」

 そう言ったら、

「今日は休診にしようかな」

「だめよ。患者さんがいるでしょう」

 彼は拗ねたように上目遣いをした。

「離れたくない」

「すぐに行くから」


 千早は懐から鍵を出し、差し出した。

「これ、自宅の鍵です」

「ありがとう」

 春海は鍵を受けとり、車から降りた。しばらく歩いて行き、振り返る。手を振ると、千早がワイパーを動かした。春海は何度も何度も振り返って、ワイパーが動くのを見た。


 ★


「春海、昨日どこ行ってたんだい」

 朝食時、母にそう尋ねられ、春海は動かしていた箸を止めた。

「海辺を散歩してたら、遅くなっちゃって」

「あんな夜中にかい。変わった子だねえ」

「昔から本ばっかり読んでたしな、こいつは」

 兄がからかうように言う。


「兄さんもたまには読んだら」

「お兄様は忙しいの」

 その言葉は誇張ではない。兄は青果市場の買い付けをしている。家に帰ってもパソコンを開き、食事時間もろくに会話しない。しびれを切らした兄の妻は、離婚届を置いて家を出て行ったのだ。


 兄は食卓に載ったブドウを指差し、

「このブドウ美味いだろ。こんなに美味いブドウが食えるのも、お兄様のおかげだぞ」

「そういう押し付けがましいことを言うから、美空さんは出て行っちゃったんじゃないの」

「うわ、可愛くない。おまえにはブドウをやらん」

「修哉、子供みたいなこと言わないの」

 母に叱られて、兄はへの字口をした。彼はいつもと変わらない。昨夜のことは気のせいだったのだろうかと思った。


 朝食を終え、帰り支度をしていたら、母がやってきた。タッパーに入ったおにぎりを差し出す。

「はい。お昼にたべなさい」

「ありがとう」

 春海はタッパーを受けとり、カバンにしまった。

「母さん、靴下はないか」

「洗濯ものの中にありますよ」

 父に呼ばれ、母が立ち去る。


 カバンを手に立ち上がると、背後に兄が立っていた。

「うわ、びっくりした」

 兄はじっとこちらを見て、

「おまえ、なんか俺に話すことないか」

「……」

 やはり見られていたのだ。


「あいつか、秋彦さんが来なかった理由」

 春海はかぶりを振った。

「違う。秋彦さんは、仕事が一番大事なの。私より……不倫相手より」

 兄が眉を寄せた。

「不倫されたから仕返すのか。そんなの、間違ってるだろ」

「兄さんにはわからない。秋彦さんと同じで、仕事が一番大事なんでしょう?」

 その言葉に、兄が鼻を鳴らした。


「なんで女は仕事と私どっちが大事なの、とか言い出すんだ。全然別の問題だろう」

 きっと、美空にも同じことを言ったのだろう。

「愛想尽かされるはずだね」

 カバンを手に部屋を出ると、兄の声が追ってきた。

「一時の感情で動くと後悔するぞ」

「離れたほうがいいって言ったじゃない」

「そうだけど」

「彼が好きなの」


 歩き出した春海の背に、兄がぽつりとつぶやいた。

「秋彦のやつ、今度会ったら殴ってやる」

 子供のころ、本ばかり読んで引っ込み思案だった春海を、いじめっ子から兄が守ってくれた。春海は振り向いて言う。


「私は大丈夫よ、兄さん」

「女はたくましいな」

 兄はそう言って、何かを思うように視線を上向けた。彼の左手には、まだ結婚指輪がはまっている。

「美空さんに連絡してみたら?」

「もう忘れてるよ、俺のことなんか」

「情けないのね、男って」

 うるさい。兄は不機嫌にそう返した。



 実家を出た春海は、自宅へと車を走らせた。自宅マンションには、秋彦はいなかった。仕事なのか、浮気相手のところなのか。必要最低限の荷物だけを持ち、離婚届を手にリビングへ向かう。薬指から指輪を抜いて、離婚届と共に置いた。


「さようなら、秋彦さん」

 メモ用紙にそう書いて、離婚届の隣に置く。春海は振り返らず、自宅を後にした。


 自宅を出た春海は、千早のマンションへと向かった。合い鍵で中に入り、リビングを見回す。今日からここに住むんだ。

「よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げた。


 春海は軽く掃除をし、洗濯ものをまとめて洗った。それから夕飯作りに取り掛かる。千早があまり胃もたれしないよう、野菜を中心の料理にした。ジャガイモの皮を剥き、レンジで温めていたら、がちゃん、と音がして、こちらへ歩いてくる足音が聞こえた。


「ただいま」

 振り向くと、千早が満面の笑みを浮かべていた。

「お帰りなさい」

 春海はキッチンから出て、千早に近づいていく。

「疲れたでしょう? お風呂に入って」

 春海がカバンを受け取ると、千早が微妙な顔をした。


「どうかした?」

「いや」

 洗面所に向かった千早に、バスタオルを差し出す。

「バスタオル、洗濯しておきました」

 千早はバスタオルをじっとみて、

「なんだか、慣れてる」

「え?」

「旦那さんにも、同じようにしてあげてたんですね」


 拗ねたような言い方をする。つまりは、焼きもちか。春海が噴き出すと、彼がこちらをにらんだ。

「なんで笑うんですか」

「ごめんなさい。おかしくて」

 くすくす笑っていたら、千早が腕を伸ばし、春海を抱き寄せてきた。ねえ、春海さん。肩に顎を乗せ、甘い声で囁く。


「お風呂、一緒に入りましょう」

「だめ」

「どうして?」

「まだ夕飯を作ってないから」

「夕飯なんかいいですよ」

 千早はしゅるりとエプロンの紐を解いた。

「ね?」

「もう……」

 春海はため息をついて、エプロンを脱いだ。


 五分後、春海は千早と共に湯船につかっていた。浴槽は二人なら余裕でつかれるほど広々としている。

「強引なんだから、千早さん」

「夢だったんだ。春海さんとお風呂に入るの」

 千早は嬉しそうにしている。

「もっと素敵な夢はないの?」

「ないです」

 春海は肩をすくめた。


「ねえ、この前言ってたでしょう。私に救われたんだ、って」

 あれはどういう意味? 春海の問いに、千早が答える。

「二年前盲腸になった、って言ったでしょう」

「ええ」

「あの時ね、夜中家で一人だったんです。たかが盲腸でも、死ぬほど腹が痛くて、だれも助けてくれない。救急車を呼んで、病院に運ばれた」

「そうだったの」

「俺はね、傲慢な男でした。金さえあれば、別に一人だって生きていける。誰かにすがりつくのはバカな人間なんだって思ってた」

 そんな自負がぽっきり折れた。


「病院でね、春海さんに会ったんですよ」

「私に?」

「あなたは、小児科に読み聞かせしに来ていた。その様子が告解にきた天使みたいだったんだ」

「大袈裟ね」

「話をしたんだけど、春海さんは気にもとめてなかった」


 そんなことがあっただろうか。全然覚えていない。

「ここからは、ちょっと気持ち悪いかも」

 千早が苦笑いをした。

「え?」

「俺は、退院してからあなたが勤める図書館に行った。声をかけられなくて、遠目に見て、やっとメアドを渡せたのが1カ月後」

「そんな風に見えなかった」

 千早はいつだって余裕に見えた。


「正直、女を口説くのにあれほど時間をかけるなんて思いもよらなかった」

「昔の傲慢さ、まだ残ってるわよ」

「許してください。浮かれてるんだから」

 千早は、春海の左手を手に取った。薬指を軽く噛む。

「ん」

「俺はあなたを奪った。悪いことをしたのかもしれない」

「私も、悪いことをしたわ」

 春海も彼の薬指を噛んだ。

「同罪ね」

「春海……」

 二人の唇が重なって、ちゃぷ、と湯が鳴った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ