今はた同じ
車外から、さざ波が聞こえてくる。春海と千早は、裸で抱き合っていた。狭いシートで二人くっついていると、捨て猫にでもなったような気がする。春海はそっと千早の肌に触れた。かすかに汗ばんでいる。
うっすら筋肉がついた彼の腹に、かすかな引っ掛かりがあった。まだそう古くはない縫合痕が二箇所。春海は千早を見上げて尋ねた。
「これ……どうしたの?」
「盲腸の手術痕ですよ。二年前になったんだ」
二箇所もあるのはなぜかと尋ねたら、
「切る場所を間違えたんじゃない?」
真面目に答える気がないようだ。
「私、盲腸ってなったことないの。痛い?」
「痛いですよ、泣くくらい」
「千早さんが泣いたの? 見てみたかった」
「ひどいな」
「私ばかり泣き顔を見られてるから」
春海さんはいいんだ。千早はそういった。
「男は簡単に泣いたらいけないって、よく言うじゃないですか」
その価値観は古い。春海はそう思った。
「そんなことないわ。誰だって、生まれた時は泣くでしょう」
「覚えてないしな、それは」
春海は千早の首筋に口づけ、身を起こした。外が白んでいるのが見える。そろそろ戻らなくては。シャツを羽織って言う。
「千早さん、お仕事があるでしょう? 先に帰っていて」
そう言ったら、
「今日は休診にしようかな」
「だめよ。患者さんがいるでしょう」
彼は拗ねたように上目遣いをした。
「離れたくない」
「すぐに行くから」
千早は懐から鍵を出し、差し出した。
「これ、自宅の鍵です」
「ありがとう」
春海は鍵を受けとり、車から降りた。しばらく歩いて行き、振り返る。手を振ると、千早がワイパーを動かした。春海は何度も何度も振り返って、ワイパーが動くのを見た。
★
「春海、昨日どこ行ってたんだい」
朝食時、母にそう尋ねられ、春海は動かしていた箸を止めた。
「海辺を散歩してたら、遅くなっちゃって」
「あんな夜中にかい。変わった子だねえ」
「昔から本ばっかり読んでたしな、こいつは」
兄がからかうように言う。
「兄さんもたまには読んだら」
「お兄様は忙しいの」
その言葉は誇張ではない。兄は青果市場の買い付けをしている。家に帰ってもパソコンを開き、食事時間もろくに会話しない。しびれを切らした兄の妻は、離婚届を置いて家を出て行ったのだ。
兄は食卓に載ったブドウを指差し、
「このブドウ美味いだろ。こんなに美味いブドウが食えるのも、お兄様のおかげだぞ」
「そういう押し付けがましいことを言うから、美空さんは出て行っちゃったんじゃないの」
「うわ、可愛くない。おまえにはブドウをやらん」
「修哉、子供みたいなこと言わないの」
母に叱られて、兄はへの字口をした。彼はいつもと変わらない。昨夜のことは気のせいだったのだろうかと思った。
朝食を終え、帰り支度をしていたら、母がやってきた。タッパーに入ったおにぎりを差し出す。
「はい。お昼にたべなさい」
「ありがとう」
春海はタッパーを受けとり、カバンにしまった。
「母さん、靴下はないか」
「洗濯ものの中にありますよ」
父に呼ばれ、母が立ち去る。
カバンを手に立ち上がると、背後に兄が立っていた。
「うわ、びっくりした」
兄はじっとこちらを見て、
「おまえ、なんか俺に話すことないか」
「……」
やはり見られていたのだ。
「あいつか、秋彦さんが来なかった理由」
春海はかぶりを振った。
「違う。秋彦さんは、仕事が一番大事なの。私より……不倫相手より」
兄が眉を寄せた。
「不倫されたから仕返すのか。そんなの、間違ってるだろ」
「兄さんにはわからない。秋彦さんと同じで、仕事が一番大事なんでしょう?」
その言葉に、兄が鼻を鳴らした。
「なんで女は仕事と私どっちが大事なの、とか言い出すんだ。全然別の問題だろう」
きっと、美空にも同じことを言ったのだろう。
「愛想尽かされるはずだね」
カバンを手に部屋を出ると、兄の声が追ってきた。
「一時の感情で動くと後悔するぞ」
「離れたほうがいいって言ったじゃない」
「そうだけど」
「彼が好きなの」
歩き出した春海の背に、兄がぽつりとつぶやいた。
「秋彦のやつ、今度会ったら殴ってやる」
子供のころ、本ばかり読んで引っ込み思案だった春海を、いじめっ子から兄が守ってくれた。春海は振り向いて言う。
「私は大丈夫よ、兄さん」
「女はたくましいな」
兄はそう言って、何かを思うように視線を上向けた。彼の左手には、まだ結婚指輪がはまっている。
「美空さんに連絡してみたら?」
「もう忘れてるよ、俺のことなんか」
「情けないのね、男って」
うるさい。兄は不機嫌にそう返した。
実家を出た春海は、自宅へと車を走らせた。自宅マンションには、秋彦はいなかった。仕事なのか、浮気相手のところなのか。必要最低限の荷物だけを持ち、離婚届を手にリビングへ向かう。薬指から指輪を抜いて、離婚届と共に置いた。
「さようなら、秋彦さん」
メモ用紙にそう書いて、離婚届の隣に置く。春海は振り返らず、自宅を後にした。
自宅を出た春海は、千早のマンションへと向かった。合い鍵で中に入り、リビングを見回す。今日からここに住むんだ。
「よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた。
春海は軽く掃除をし、洗濯ものをまとめて洗った。それから夕飯作りに取り掛かる。千早があまり胃もたれしないよう、野菜を中心の料理にした。ジャガイモの皮を剥き、レンジで温めていたら、がちゃん、と音がして、こちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
「ただいま」
振り向くと、千早が満面の笑みを浮かべていた。
「お帰りなさい」
春海はキッチンから出て、千早に近づいていく。
「疲れたでしょう? お風呂に入って」
春海がカバンを受け取ると、千早が微妙な顔をした。
「どうかした?」
「いや」
洗面所に向かった千早に、バスタオルを差し出す。
「バスタオル、洗濯しておきました」
千早はバスタオルをじっとみて、
「なんだか、慣れてる」
「え?」
「旦那さんにも、同じようにしてあげてたんですね」
拗ねたような言い方をする。つまりは、焼きもちか。春海が噴き出すと、彼がこちらをにらんだ。
「なんで笑うんですか」
「ごめんなさい。おかしくて」
くすくす笑っていたら、千早が腕を伸ばし、春海を抱き寄せてきた。ねえ、春海さん。肩に顎を乗せ、甘い声で囁く。
「お風呂、一緒に入りましょう」
「だめ」
「どうして?」
「まだ夕飯を作ってないから」
「夕飯なんかいいですよ」
千早はしゅるりとエプロンの紐を解いた。
「ね?」
「もう……」
春海はため息をついて、エプロンを脱いだ。
五分後、春海は千早と共に湯船につかっていた。浴槽は二人なら余裕でつかれるほど広々としている。
「強引なんだから、千早さん」
「夢だったんだ。春海さんとお風呂に入るの」
千早は嬉しそうにしている。
「もっと素敵な夢はないの?」
「ないです」
春海は肩をすくめた。
「ねえ、この前言ってたでしょう。私に救われたんだ、って」
あれはどういう意味? 春海の問いに、千早が答える。
「二年前盲腸になった、って言ったでしょう」
「ええ」
「あの時ね、夜中家で一人だったんです。たかが盲腸でも、死ぬほど腹が痛くて、だれも助けてくれない。救急車を呼んで、病院に運ばれた」
「そうだったの」
「俺はね、傲慢な男でした。金さえあれば、別に一人だって生きていける。誰かにすがりつくのはバカな人間なんだって思ってた」
そんな自負がぽっきり折れた。
「病院でね、春海さんに会ったんですよ」
「私に?」
「あなたは、小児科に読み聞かせしに来ていた。その様子が告解にきた天使みたいだったんだ」
「大袈裟ね」
「話をしたんだけど、春海さんは気にもとめてなかった」
そんなことがあっただろうか。全然覚えていない。
「ここからは、ちょっと気持ち悪いかも」
千早が苦笑いをした。
「え?」
「俺は、退院してからあなたが勤める図書館に行った。声をかけられなくて、遠目に見て、やっとメアドを渡せたのが1カ月後」
「そんな風に見えなかった」
千早はいつだって余裕に見えた。
「正直、女を口説くのにあれほど時間をかけるなんて思いもよらなかった」
「昔の傲慢さ、まだ残ってるわよ」
「許してください。浮かれてるんだから」
千早は、春海の左手を手に取った。薬指を軽く噛む。
「ん」
「俺はあなたを奪った。悪いことをしたのかもしれない」
「私も、悪いことをしたわ」
春海も彼の薬指を噛んだ。
「同罪ね」
「春海……」
二人の唇が重なって、ちゃぷ、と湯が鳴った。