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わびぬれば

 十分後、春海は天井をぼんやり見つめていた。言い表しようもない不快感が身体を満たしている。図書室で見た、デートDVに関しての広告を思い出す。どんなに親しくとも、やってはいけないことがあるのだ。春海はゆっくり起き上がり、乱れた服を直してつぶやく。


「最低」

「……っ」

 ベッドの下にうずくまっていた秋彦が泣き出した。泣きたいのはこちらだ。今すぐ病院に行けば間に合うかもしれない。春海はノロノロと寝台から起き上がり、寝室を出た。


「俺は離婚はしない」

 背後に、そんな声がかかった。


 病院に寄ったあと、少し遅れて実家へ向かった。田植えは重労働だ。今の状態で行くのはキツかった。でも、秋彦から離れられるなら、なんでもよかった。車窓の向こう、のどかな景色が見えている。と同時に、心臓が嫌な音を立て始めた。

 家族に心配をかけたくない。いつも通りにしなければ。

 実家に車を止めて、田んぼへ向かった。家族が田植えをしている。平静を装おうと、春海は深呼吸をした。


「ああ、春海」

「久しぶり」

 春海は苗を手に、まだ植えられていない区画へ向かう。

「遅いぞー」

 三つ年の離れた兄が言う。

「ごめん」

 四角く区切られた田んぼに、緑のタネが植えられていく。春海は身をかがめ、一心に田植えをした。かすかに滲んだ汗を拭う。昼食時間、麦わら帽子を被った母が口を開く。


「秋彦さん、来れなくて残念だねえ」

 もう、その名前を聞くのも嫌だった。

「うん」

「銀行員だろ、仕方ないわ」

「エリートだもんなあ」


 しみじみと、父や母、兄が言う。秋彦が無理やりあんなことをしたとは、誰も信じないだろう。夫婦なんだから。子供を作るのは当たり前だろう。そう言われるのが怖い。だから春海はなにも言わず、おにぎりを齧った。


 先に作業に戻った母たちの代わりに、食器を洗う。皿を拭きながら、兄が口を開いた。


「なあ、秋彦くんとなんかあったのか?」

 内心ぎくりとしながら尋ねる。

「なんで?」

「なんとなく」

 食器の鳴る音が響く。

「兄さんは……離婚したときどう思った?」

「あんまり覚えてない。離婚したいって言い出したのあっちだしな」

 でも、嫌々一緒にいるよりは離れたほうがいいと思う。兄はそう言った。


 ★


 夕食後、春海はひとり、夜の海を歩いた。月が海面に映り込んで揺れている。砂浜には、花火の残骸が落ちていた。誰もいない海は寂しい。春海は、スマホを取り出し、電話をかけた。数回コール音が響く。


「春海さん?」

 電話口から、千早の声が聞こえてきた。その声を聞くだけでホッとする。

「こんばんは」

「どうかしたの?」

「ちょっとね、声が聞きたかったの」

「嬉しいです」

 さざ波が聞こえたのだろう。千早が尋ねてくる。


「いま、どこにいるの?」

「実家です。K市」

「……K市?」

 千早の電話口から、ざざん、という音が聞こえた。春海はハッとする。視線を動かしたら、闇の向こう、背の高いシルエットが見えた。

 顔が見えなくても、それが誰だかわかった。心臓がとくん、と高鳴る。


 春海はなにも考えずに、そちらへ駆け出した。砂に足をとられて、うまく走れない。それでも前に進みたかった。転ぶようにして走っていき。彼にしがみついた。鼻腔に広がる、デオドラント・シャンプーの香り。会いたかった。春海はかすれ声で尋ねる。


「どうして、いるの?」

「歯科医師会だよ」

 つまりは、勉強会みたいなものだろうか。

「こんな田舎で?」

「いいところだ。食べ物も美味しいし」

 千早が顔を覗き込んできた。長い指先で、春海の目尻をなぞる。


「春海さんは、いつも泣いてるね」

「たまたまよ」

「にしては、多い気がする」

「弱虫なの」

「我慢するより、泣いた方がいい」


 唇が重なる。千早の手が胸元をすべった。秋彦にされたことを思い出して、身体がこわばる。

「いや?」

「違うの」

「何かあったの? なんだか……変だ」

 千早は鋭い。春海は自分の足もとを見た。そうすまいと思っても、声が震える。


「秋彦さんが……離婚はしないって、無理やり」

 最後まで言う前に、千早が春海を抱きしめた。春海は千早のシャツにしがみつく。

「どうすればいいか、わからないの」

 明日になれば、また秋彦と顔を合わせることになる。どんな態度を取るべきなのか、わからない。抱きしめる腕が強くなった。

「もう帰らなくていい。俺と一緒にいよう」

「千早さ……」

 春海は声をかすれさせた。波が、花火の残骸をさらっていった。



 車の中で、千早と抱きしめ合う。彼の手が、春海の身体をまさぐった。春海は身体を震わせて、吐息を漏らす。千早が手を止めて尋ねる。

「こわい?」

 春海は千早のほほを撫でた。

「もっと、して。忘れさせて」

 千早の目が熱っぽく光る。彼は春海のシャツを開いて、鎖骨に噛み付いた。いつかの逆。食べられているみたいだ。食べられてもいい。千早さんになら。

 春海は、細い指先で彼の髪をくしゃりと掴んだ。デオドラント・シャンプーの香りが、車内にふわりと広がる。車の外に、兄の姿が見えた気がした。

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