水くくるとは
メール着信が鳴り響いて、春海は素早くスマホを手にした。やはり千早からだ。
「今度いつ会える?」
メールにはそう書いてあった。春海がほほを染めたら、水野が顔を覗きこんできた。
「顔が赤いけど、熱でもあるの?」
春海は曖昧に笑い、自分を仰いで見せた。
「いえ、今日ちょっと暑いから」
あれから、春海は何回か千早と逢瀬を重ねた。時には、友達と会うのだと嘘をついて外泊した。秋彦としてはむしろそのぶん薫と会えるから、都合がいいようだった。千早は、春海が料理を作ると喜んだ。
「春海さんの料理は天下一品だな」
「大袈裟よ」
「本当ですよ。俺、味付けってどうやってするのかわからないし」
春海は目を瞬いて千早を見た。彼がはにかむ。
「料理は苦手なんです」
「なんでもできそうなのに」
「不器用なんですよ、結構」
千早が切ったにんじんは繋がっていた。春海は思わず笑う。
「歯医者なのに、いいの?」
「今は機械がいいから」
千早は味噌汁を飲んで笑う。
「春海さんの手料理を食べるのが夢だったんだ」
「随分簡単な夢ね」
夕食を終えた春海は、後片付けをし始めた。背後から千早がぎゅっと抱きしめてくる。くすぐったくなって、春海は笑う。
「洗いにくいわ、千早さん」
千早が耳元に囁く。
「ねえ、一緒にお風呂に入りましょう」
「だめ」
「どうして?」
「まだやることがあります」
ケチだな。千早はそう呟いて、春海の薬指を撫でた。長い指先が、薬指に触れる。
「これ、外さないの?」
少し拗ねたような声だった。
「……なくすといけないし」
千早はふ、と目を伏せ、浴室へ向かった。春海は、自分の左手をそっと握りしめる。
季節は春から夏へと向かっていた。
蒸し暑い六月のある日。夕飯を作っていた春海は、震動したスマホを素早く手にした。千早からだ。
「ハンバーグ、失敗しちゃいました」
メールには、焦げたハンバーグの画像が添付されていた。春海は思わず口元を緩める。
「ちゃんとひっくり返した?」
「しましたよ。15分」
「肉が少なかったのね、多分」
千早から、もう一度頑張ってみる、という返信が返ってきた。春海は頑張って、と返し、スマホを置く。振り向いたら、風呂上がりの秋彦が立っていた。春海は内心びくりとし、彼に問いかける。
「ああ、びっくりした……お酒飲む?」
秋彦はかぶりを振った。彼の顔がこわばっているのに気づき、春海は尋ねる。
「どうしたの、怖い顔して」
「あの千早って男は、本当にただの友達なのか?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
「言われたんだよ、支店長に。奥さんがえらい男前と歩いてたぞ、って」
「気にしないわ、そんなこと」
「それに、最近変だぞ。外泊が増えたし、夕食もろくに作らないで」
春海は、秋彦をにらみつけた。彼にだけは、そんなこと言われたくなかった。言ってしまえ。心の中で、もう一人の自分が叫んでいた。
「なんだよ」
「今まで何も言わなかったくせに」
「それは、おまえを信じてたからだ」
嘘ばかり。千早と春海の間には嘘ばかりだ。
「あなただって、浮気してるくせに」
秋彦が息を飲んだ。
「な……何の話だよ」
「とぼける気? 夏川薫さんと付き合ってるくせに」
その瞬間、夫の顔が真っ青になった。わかりやすい人。こんな風で、どうして不倫がばれないなどと思ったのだろう。
「春海、おまえ……」
「気づかないとでも思った?」
彼はふらふらと椅子に座り込んだ。そんな彼を軽蔑の目で見る。いったいなんの権利があって、春海を糾弾できると言うのか。
「別れましょう」
秋彦が気弱げに頭を振った。
「待ってくれ……いまは大事な時期なんだ。離婚は査定に響く」
春海は思わず笑ってしまった。
「大事な時期に、浮気を?」
「薫といると癒されるんだ」
そうでしょう。私といると、さぞ疲れるんだろうから。
「わかったわ。夏は父母の家に行かなきゃならないし。離婚は秋ね」
春海はそう言って、エプロンをはずした。秋彦が春海を目で追う。
「春海、どこ行くんだ?」
「彼のところ」
「また誰かに見られたら」
「友達だって言うわ。あなたと同じように」
春海はそう言って、マンションを出た。外は雨が振っていた。春海は構わずに、駐車場へ向かう。車に乗り込み、エンジンをかける。ワイパーを動かすと、雨のしぶきが飛んだ。それがまた、春海の気持ちを急かす。はやく、はやく。千早さんに会いたい。
★
インターホンを押すと、すぐに千早が現れた。彼はこちらを見て、驚いた顔になる。
「春海さん?」
春海は何も言わず、千早に抱きついた。
「どうしたの?」
「ぎゅってして」
千早の腕が、背中にまわる。全身を包む、デオドラント・シャンプーの香り。この匂いを嗅ぐと、身体が熱くなる。春海は千早と一緒に、玄関に倒れこんだ。
「春海さ、っ」
「何にも言わないで」
春海は彼の服を脱がせ始めた。千早が戸惑うような顔で見上げてくる。 涙なのか、雨粒なのかわからないものが、彼のほほに落ちた。
「泣いてるの?」
伸びてきた手を、春海は拒否した。
「何にもしないで」
馬乗りになって、千早の唇を奪う。彼は無抵抗だった。まるで、千早を食べてるみたい。興奮して、身体が熱くなる。
「千早さん……」
春海は貪るようにして、千早と身体を重ねた。
雨が降る音が響いている。春海と千早は、ベッドに腰掛けていた。春海の汗ばんだ肌を拭いながら、千早が囁く。
「さっきの春海さん、色っぽかった」
春海はかすかに赤くなる。
「やめて」
「なにか、あったんですか?」
「……夫に、別れるって言ったの」
「本気?」
「わからない。浮気をしてるだろうと問い詰められて、つい、カッとなって」
「カッとなったら、春海さんはああなるんだ」
からかうような口調に、春海はますます赤くなった。
「からかわないで」
「褒めてるのに。怒った春海さんは綺麗だった」
「恥ずかしいわ。あんなことして」
あなたに甘えてるの。
「いいですよ、たくさん甘えて」
千早は、春海の首筋に軽く噛み付いた。
「ん、痕がつくわ」
「もうバレたんだから、いいでしょう?」
彼はライオンみたいに、何回も噛み付いてくる。
「くすぐったい」
くすくす笑っていたら、電話が鳴り響いた。伸ばそうとした手を、千早が阻んだ。
「出ないで」
春海はごめんなさい、と断って、スマホを手にした。
「はい、一ノ瀬です」
「ああ、春海?」
電話の相手は母親だった。春海は廊下に出て、壁にもたれる。
「田植えのことだけど。今年も来れるんでしょう?」
「……うん」
春海は言い淀んだ。毎年6月になると、田植えに動員されるのだ。
「どうしたの。何かあった?」
「何でもないよ」
「そう。秋彦さんによろしくね」
通話が切れる。春海は寝室に戻り、千早の隣に座った。
「浮かない顔してる」
「秋彦さんによろしく、って」
春海は息を吐いた。
「6月に、毎年里帰りするの。両親には、その時に話すわ」
「春海さんの実家か。俺も行きたいな」
「あなたには、田舎だと思う」
「田舎、好きですよ」
千早が肩にもたれてきた。春海は、その髪を撫でる。
「涼しくなったら、ピクニックしましょうか」
「ピクニック?」
「みかんサンドを持って行きましょう。美味しいんですよ。生クリームと一緒に、みかんが挟んであるんだ」
「いいわね」
「秋が来たら、一緒に」
「ええ」
春海は、千早と指きりをした。
「約束」
指きりなんていつ以来だろう。春海ははにかんだ。
★
翌月曜日。春海は、実家に帰るための荷造りをしていた。背後から声がかかる。
「春海」
春海は振り返らずに、なに? と尋ねた。
「田植え、行けなくなった」
「え?」
春海は振り向いて、夫を見た。彼は苦い顔をしている。
「だから、仕事が入って……無理なんだよ」
「前から言ってあったじゃない」
「仕方ないだろ」
「……そう」
春海は、引き出しから離婚届けを取り出した。秋彦に差し出して、淡々と言う。
「私が帰ってくるまでに、書いておいてください」
そのまま部屋を出る。背後から秋彦が抱きついてきた。
「春海」
秋彦の吐息が耳朶にかかると、なぜかひどくぞわりとした。春海は彼を引き剥がそうとする。
「頼むよ、離婚はしたくないんだ」
「どうして。私のこと、好きじゃないんでしょう。薫さんが好きなんでしょう」
「好きだよ。だけど、薫は男だ」
一緒にはなれないんだ。秋彦はそう言った。春海は怒りを覚えた。この男は卑怯だ。薫がかわいそうだとも思った。
「私は千早さんが好きよ。たとえ彼が女だったとしても、一緒にいたいと思うわ」
「そんなたとえ話に意味はない」
秋彦は春海を寝台へ押し倒した。
「離して」
「俺の子供ができたら、どうせそいつも態度を変えるよ。男は他人の子を可愛がれない」
春海は信じられない気持ちで秋彦を見た。抱きしめてくれなかったくせに。ずっとそうして欲しかったのに。
「いや……っ」
秋彦は春海を押さえつけた。ベッドが二人ぶんの体重を受けてきしむ。無理やり脱がされたカーディガンのボタンが、床を転がっていった。春海は秋彦の肩越しに、滲んだ天井を見上げた。