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からくれないに

 鳥の鳴く声と、右ほほに当たる暖かさ。春海は心地いい感覚にまどろんでいた。誰かが髪を梳いている。秋彦さん? 春海は夫の名前を思い浮かべ、うっすらと瞳を開いた。

「おはようございます」

 目の前にいたのは、千早だった。

「……おは、よう」


 彼も自分も服を着ていない。春海は布団を引き寄せ、床に落ちた下着を拾い上げようとした。背後から抱きしめられる。

「あったかいですね、春海さん」

 そう囁く声に、身体がかあっと熱くなった。春海は、千早をぐい、と押しのける。

「春海さん?」

「洗面所、借りてもいいですか」

「どうぞ。玄関脇にあります」


 春海は着替え類を持って、洗面所へ向かった。鏡を覗き込み、首筋に痕がついていないかどうかを確認する。ポーチには最低限のメイク道具しか入っていないから、化粧はいつもより簡素になる。

 支度を整えたあと洗面所から出て、リビングへと戻った。ベッドの中から、千早がこちらを見ていた。責めるみたいな視線が、春海の足を止める。


「あなたは、行かなくていいの」

「予約は十時からですし」

「そう。お邪魔しました」

 カバンを手にし、リビングの外へ向かう。千早が口を開いた。

「逃げるみたいに帰っちゃうんだな」

「仕事が、あるから」

「ですよね」

 次の言葉を聞く前に、春海は部屋から出ていた。

 心臓がどくどく鳴っている。足が震えて、ふらついた春海は、ドアに手をついた。──私、なんてことをしたんだろう。



 気もそぞろで帰宅すると、夫がリビングから出て来た。彼は春海を目にして、おどろいた顔になる。

「春海?」

「ただいま」

「どうしたの、一体」

 秋彦は探るような目をしていた。きっと春海も、彼に何かを尋ねるときは、こんな顔をしているんだ。


「ちょっと、友達と盛り上がっちゃって。朝まで飲もうってことになって」

「ああ、そうなんだ」

 秋彦はホッと息を吐いた。なぜあなたがそんな顔をするの。春海は内心そう思う。あなたこそ、夏川薫と一緒にいたくせに。春海は込み上げてきた言葉を、ぐっと堪えた。笑みを浮かべて言う。


「ごめんなさい。今日、時間がなくてお弁当作れないの」

「適当に何か食べるから大丈夫だよ」

 いい夫婦みたいな会話をしている。実際には、何一ついい夫婦なんかじゃないのに。



 その日、春海はいつ千早が現れるかと気にしながら仕事をした。彼だって仕事があるのだ。日曜日以外に図書館へ顔を出す暇もないだろう。そう言い聞かせて、仕事に集中しようと頑張った。


 昼休憩の時間になり、春海はロッカールームへむかった。パンでも買いに行こうか、と考えていたら、メールの着信音が響いた。メールを開いて、どきりとする。


「こんにちは。今休憩ですか」

 千早だ。ええ、と返信したら、またメール着信が鳴り響く。

「すぐ下の喫茶店にいるんです。ちょっと出て来ませんか」


 彼と会っているところを、誰かに見られたら。内心そう思う。だが心とは裏腹に、春海は行きます、と返信をしていた。休憩室を出た春海は、図書館内にある喫茶店に向かった。店内へ入ると、千早の姿が見える。彼は、カレーライスを食べていた。春海を見つけると、手を上げて笑みを浮かべる。


「春海さん」

 春海はそちらに近づいていき、彼の前に座った。

「こんにちは」

「こんにちは。いま、休診時間なの?」

「ええ。春海さん、お昼は?」

「まだです」

 春海は、ハヤシライスを頼んだ。


「ハヤシ派ですか、春海さん」

「ハヤシ派、ってなに?」

「その名の通り、ハヤシライスが好きな派閥。俺はカレー派ですから」

 そんな派閥が存在しているのか。

「両方好きよ」

「俺とカレーが?」

「違う。ハヤシとカレーが」


 なんだ、残念。千早はそう言って笑った。その笑顔に見惚れかけて、春海はハッとする。

「困るわ。いきなり来られると」

「いつでも利用してくれ、って言いましたよ」

「……屁理屈言わないで」

「あなたよりは素直だと思うけど」

 春海はなにも言わずに、ハヤシライスを食べた。


「後悔してますか、俺と寝たこと」

 千早の言葉に、春海は身体を強張らせた。誰かに聞かれたのではないかと、視線を動かす。

「そんなこと、ここで聞かないで」

「どうして?」

 かぶりを振ったら、千早が手に触れてきた。

「あったかいな、春海さんの手」

 千早の手は冷たかった。昨日はあんなに熱かったのに──。思い出して、身体の芯が熱くなる。


「今夜、ごはんを食べに行きましょう。誕生日のお祝いもかねて」

「でも、夫の夕飯を作らないと」

 千早がちら、と窓ガラスの外を見た。

「あの人、お知り合いですか?」

 春海は千早の視線を追った。同僚の水野が、こちらを凝視していた。

「!」

 春海はさっ、と目をそらす。


「同僚なの。ゴシップやなんかが好きで」

「まずいですかね?」

「後で、話しておくから」

「迫られて迷惑してるんです、って?」


 迷惑しているんだろうか、春海は。本当は嬉しいと思っているのかもしれない。こうやって求められることで、自分にもまだ価値があるんだと思えるから。そんなのは最低だ。

「私は、流されたわけじゃない。あなたを魅力的だと思った。だから、泊まった」


 千早が嬉しそうに目を緩めた。

「本当に?」

「だけど、離婚してあなたと一緒になるとか、そういうことはないの」

「どうして」

 春海は、初めて会ったときに見た秋彦の笑顔を思い出した。苦しめられたのに、嫌いになれない。


「好きなんですね、旦那さんが」

 穏やかな千早の声に、頷いた。自分でも惨めだと思う。だけどそんなに簡単ではないのだ。心というものは、誰かを愛しいと思う気持ちは、自由に切り替えられるものじゃない。

「俺は、諦めない。別れる決心がつかないなら、それでもいい」

「そんなこと」


 そんなこと、長続きするはずがない。だから不倫は否定されるのだ。倫理的な問題ではない。人間は自分の不利益に関して敏感なのだ。不倫カップルは破局を前提に付き合う。子供も作らず、家も買わない。社会に貢献しないから、不倫は後ろ指を指されるのだ。


「したくないの。不倫なんか」

「もうしたんですよ、春海さん」

 春海はハッとした。

「そんな顔しないで。いじめたいわけじゃない」

「……いいえ、あなたが正しいの」

「正しくありたいわけでもない」

 千早は口元をぬぐい、500円玉を置いた。

「午後7時、「和食亭」って店で待ってますから」

 そのまま、店を出て行った。


 ★


 休憩が終わる五分前、図書館へ戻る。水野が近づいてきて、囁いた。

「一ノ瀬さん、さっきの人、例の利用客よね?」

 千早は財布をロッカーにしまいながら言う。

「たまたま、一緒になって」

「本当? 怪しいな。手、握ってなかった?」

 彼女は目を細めてこちらを見ている。なぜ詮索してくるのだろう。他人がどうしようが、関係ないのに。


「あの人、行きつけの歯医者なんです。いろんな人に営業してるみたいで、友達にも紹介してくれ、って」

「歯医者? イケメンで歯医者なんて、最高じゃない」

 水野が色めき立った。

「でも、営業が強引で。水野さん、行ってあげてください」

「えー? わかった。なんかあったらのぞいて見る」

 彼女は浮かれた調子で歩いて行った。ため息をついた直後、スマホがメール着信を知らせる。千早からだ。


「この店です」

 シンプルな文面と共に、店の地図が添付されていた。行くべきじゃない。そう思って、返信せずにスマホをしまう。春海さん、あなたはもう不倫をしたんですよ──。業務の間中、その言葉が頭から離れなかった。


「ごめん。今日も夕飯を作れない。また友達と飲みに行こう、って話になって」

 帰宅時間、春海はロッカールームでそう夫にメールをした。嘘ばかり。メールにしたのは、追求されたくないから。だけど秋彦だって、嘘をついているんだ──。


「和食亭」は、図書館から一駅ほど離れた場所にあった。春海は店の前で待つ千早に近づいていく。彼はこちらを見て、ぱっと顔を明るくした。


「よかった。来てくれて」

 なんと言っていいかわからない。

「……早いのね」

「浮かれてますから」

 千早はそう言って、春海を店内へ促した。「和食亭」は名前の通り、和風で落ち着いた、雰囲気のいい店だった。予約席に案内され、メニューを渡される。メニューを見て、春海は思わず感嘆した。


「わあ……美味しそう」

 その反応を見て、千早がくすりと笑った。なんだか恥ずかしくなって尋ねる。

「おすすめはある?」

「しそのチーズ巻きかな」

 春海は違和感を覚えた。千早のメニューが、どう見ても少なかったのだ。


「ねえ、あなたのメニュー、絶対少ないわ」

 店員を呼ぼうとしたら、

「いいんですよ。少なくするよう頼んだんです。最近胃もたれがすごくて」

 歳のせいかな。千早はそう言って笑った。


「調子が悪いなら、外食しないほうがいいんじゃ」

「意外と世話焼きですね」

 春海はハッとした。構われたくないのは、自分も同じなのに。

「……ごめんなさい、余計なこと言って」

 千早は瞳を緩め、こちらを見た。

「そういうところ、かわいいです」

「かわいいなんて歳じゃないわ」

「年齢は関係ないですよ。春海さんはかわいい」


 千早はドラマのような言葉を口にする。信じられない。世の中に、こんな男のひとがいるなんて。もしかして、辛さのあまり、春海が生み出した幻想か何かではないのか。春海は話題を変えた。


「外食はよくするの?」

「以前はよくしたけど、今はあんまり」

 俺のことは気にしないで、春海さんは思う存分食べてください。そう言われてむっとする。

「私はそんなに大食漢じゃないわ」

「細いのに意外と食べるんだなあ、と思ってました」

 春海がまたむっとしたら、彼はくすくす笑った。

「怒ってるの? かわいい」

 かわいいという言葉で誤魔化そうとしている気がした。

「私がどれだけ食べようが、自由でしょう」

「ええ、もちろん」


 千早は、運ばれて来たアイスに手をつけた。

「アイスは大好きだから全部食べよう」

「虫歯になるんじゃない?」

「歯医者が虫歯になったら廃業ですよ」

「ならないコツ、あるの?」

「こないだ教えてあげたでしょう?」

 意味深な言葉に、春海は身体を揺らした。答えずにアイスを食べていたら、千早が尋ねてきた。


「旦那さんは、何をされてる方なんですか?」

「銀行員」

「じゃあ、エリートだ。もっと高価い店に行くんじゃないですか」

 春海はかぶりを振った。

「俺はね、基本的に梅酒と焼き鳥です」

「じゃあ、焼き鳥屋さんでよかったのに」

「ダメです。デートだから」

 デートなんて、久しぶりだ。また返答に困る。

「あなたは、結婚する気ないの?」

「それ、何かの嫌味ですか?」


 千早の真面目な表情を見て、春海ははっとした。

「ごめんなさい」

 無神経なことを言ってしまった。二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。千早がふう、と息を吐いた。


「結婚か。確かに、いったん断捨離した身には重いかも」

「そもそも、どうして断捨離したの?」

「本で読んだんです。意外と感化されやすいんだ」

 その時、店のドアがからん、と鳴った。ドアに目をやって、千早は瞳を見開いた。


「!」

 入ってきた相手も目を見開く。

「春海さん?」

「……夫です」

 秋彦は、夏川薫と一緒だった。これだけはっきりと視線が合ったら、無視するわけにもいかない。春海は立ち上がり、二人に近づいて行った。千早もついてくる。春海は精一杯の笑みを浮かべた。


「夫なの。この人は冬野千早さん。最近知り合ったひとで」

「初めまして。千早です」

 千早は笑顔を浮かべ、そう言った。秋彦も、仕方なさそうに口を開く。

「一ノ瀬秋彦です。彼は友人の夏川薫」

 友人と言われ、薫は悲しそうに目を伏せた。


「初めまして、一ノ瀬春海です」

 春海がそう言ったら、薫は驚いたように顔をあげた。それからぎこちなく、

「初めまして」

 秋彦がどんな顔をしているかは見なかった。いや、見られなかった。

「私、先に帰るわね」

 春海はそう言って、店を出た。千早があとを追ってくる。


「春海さん」

 足を止めずにすすむ。

「春海さん、待って」

 肩を掴まれて、春海はぴたりと立ち止まった。春の虫が鳴く声が、あたりに響いている。千早は手を退けて、訝しげに尋ねてくる。

「どうしたんですか?」


 春海はぼんやりと口を開いた。

「……あの人なの」

「え?」

「夏川薫。秋彦さんの不倫相手」

 背後で、息を飲んだ気配がした。春風が髪をなぶっていく。結婚前に、気付くべきだった。秋彦はいつも、夜は淡白だった。必要以上に春海を求めることはなかった。つまりは。


「秋彦さんは、多分女より、男の人が好きなの」

「でも……ならなぜあなたと結婚を?」

「銀行員だから。結婚して、家を持つのが当たり前なのよ」

「理解できない」

「あなたは、自由だものね」

 好きなものを食べ、好きなようにお金を使い、好きだと思ったら告白する。春海は、千早の自由さに憧れたのかもしれなかった。


「あなたが羨ましいわ、千早さん」

 千早が背後から、春海を抱きしめた。デオドラントシャンプーの匂いが、全身をつつむ。

「泣いてもいいですよ」

 春海は彼の手を握りしめた。

「……どうして、そんなに優しいの」

 不倫は、卑怯なのだ。結婚相手にも、浮気相手に対しても、卑怯な行いなのだ。春海は卑怯だ。秋彦と同じくらいに。


「俺はあなたのおかげで、今生きてるから」

「よくわからない」

「わからなくていい。あなたは、かわいい」

 幼子に言い聞かせるように、千早は言った。

「あなたはいい女だ。あなたは綺麗で、素敵です」

 春海は静かに泣いた。夜空に、薄い月が登っていた。

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