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龍田川

 千早の自宅は、「ふゆの歯科医院」から徒歩五分ほどのところにあった。春海はマンションに入り、エレベーターで5階へ上がった。彼の部屋番号は503号室。


 春海は、千早の部屋の前で立ち止まった。これはよくないことだ。本能がそう叫んでいた。まだ引き返せる。インターホンを押す前に、ドアが開いた。顔を出した千早が、笑みを浮かべる。


「いらっしゃい」

 千早はラフな格好をしていた。春海が何かをいう前に、どうぞと促す。春海は自然と足を動かした。


「すいません、きたなくて」

「そんなことないです。一人暮らしなのに、片付いてるんですね」

 というより、物がないと言ったほうがいいかもしれない。テーブルとソファ。それから必要最低限の家具や家電しかない。春海の視線を追って、千早が口を開いた。


「流行りの断捨離ってやつをしたんですよ」

「困らないんですか、物がなくて」

「いいえ?」

 千早はグラスを取り出した。

「なにか飲むでしょう?」

「お構いなく」

「飲んでほしいな。これ、梅酒。漬けたんです」

 春海は、瓶に入った琥珀色の液体を見せた。

「自分で作ったんですか? あなたが?」

 春海は思わずそう言った。イメージに合わない。

「ええ。実家が和歌山で、みかんと梅には困らないんです」


 春海はみかんが好きだった。思わずほほを緩める。

「いいですね」

「やっと笑ってくれた」

「え?」

 千早は梅酒をグラスに継ぎ、

「ここ最近、ずっと、気落ちした風だったから。無理もないけど」

「すいません」

「謝らないでください。飲みましょう」


 ほろ酔い気分のせいなのか、元々明るい気質だからなのか、千早は陽気に喋った。好きな本の話、最近観た映画の話。どうして今の職業についたのか。彼と話している間、秋彦のことは忘れていた。


 千早はかすかに緩んだ口調で話す。

「昔ね、猫を飼ってたんです。名前はうめ」

「いいですね。私、家が借家で飼えなかったんです」

「ええ。こんなにちっちゃくて、可愛くて。でも、2歳で死んでしまいました」

 千早は懐かしむように目を細め、手をかざした。


「どうして?」

「病気で」

 千早が少し声をかすれさせた。

「あれ以来、猫はもう飼わないって決めたんだ。眺めるだけ」

 なんと言っていいかわからず、春海は黙り込んだ。千早が頭をかく。


「すいません。なんだかしんみりしてしまった」

「ううん。話してくれて嬉しい。いつも聞いてもらってばかりだったから」

 初めて千早の個人的な話を聞けた気がした。彼は照れくさそうな顔をして、グラスを持ち上げた。

「梅酒、もっと飲みますか?」

 春海は時計に目をやった。もう十一時だ。

「もう、帰らないと」

 立ち上がった春海の手を、千早が引いた。


「泊まっていけばいい」

 春海は身体を強張らせた。

「何もしませんよ、とは言わないけど」

「……離して」

 千早の唇が、春海の手の甲に触れる。その部分が、じわりと熱くなったような気がした。彼はこちらを見上げ、ソファから立ち上がった。春海は後ずさる。


「だめ」

「どうして。あなたは自分でここに来たんだ」

 千早は春海に顔を近づけた。彼の額が、春海の額にくっつく。千早が囁いた。


「あなたからキスして、春海さん」

「しないわ」

「流された、って言われるのは嫌だ」

「……」

 春海は視線を伏せた。デオドラントシャンプーの香り。鼓動が高鳴る。

「春海さん」

 名前を呼ばれ、身体が震える。


 春海は、そっと千早に口づけた。千早は嬉しいです、と囁いて、春海の身体をソファに倒した。こちらを見下ろす、千早の目には熱がこもっている。男性のそんな顔を見るのは久しぶりだった。春海は戸惑い気味に目をそらす。


「こっちを見てください」

 千早の指先が顎を撫でる。春海は千早を見返した。彼は切なげに瞳を揺らし、春海さん、と名前を呼んだ。また唇が重なった。


 デオドラントシャンプーの匂いが、春海の嗅覚を満たした。その匂いを嗅ぐと、涙で目が霞んだ。千早の長い腕が背中にまわる。春海は彼にしがみついた。快感が頭の奥を痺れさせる。左手の指輪が、きらりと光った。

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