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神代もきかず

 千早が春海を連れてきたのは、「ふゆの歯科医院」という建物だった。彼は「休診中」の札がかかったドアを開け、春海に入るよう促す。笑顔の彼に、春海は尋ねる。


「……あなた、よく強引だと言われませんか」

「いえ。小学校の通信簿は「もっと積極的に」だった」

 いったい何十年前の話なのだ。


「おやすみなんでしょう?」

「急患だから」

 千早は春海にスリッパを差し出し、中へ入った。──帰ればいい。というか、帰るべきだ。春海が中へ入るのを躊躇していたら、千早が手招いた。


「どうぞ?」

「……お願いします」

 春海はスリッパを履き、中へ入った。千早についていき、診療台に横たわる。二人きりだという事実が春海を緊張させた。

 もし何かしてきたら、カバンの中にある分厚い文庫本で殴りつけてやればいいのだ。千早はマスクをし、器具を手にこちらを覗きこんでくる。


「くち、開けて」

 春海は小さく口を開けた。男性に口の中を見られるのは、ひどく恥ずかしいことだ。たとえ相手が歯医者でも。


「歯医者、久しぶりですか? もっと大きく開けて」

 口を開けたら、デンタルミラーが中に入ってきた。奥歯を先端の尖った器具で突かれると痛みが走る。千早は手袋を外し、

「虫歯ですね」

「!?」

「会計のこともあるし、治療は今度にしましょう。予約とります?」

 春海は思わず身を起こした。


「嘘です。私、虫歯になったことなんかないもの」

「だってほら。立派なc3ですよ」

 彼が見せてきたカルテを見て、春海は眉をひそめる。

「嘘よ!」

 千早があはは、と笑った。

「何がおかしいの」

「だって、ムキになるから。子供みたいなひとだな」

「……っ」

 春海はむっとして、千早を睨みつけた。彼はまだ笑っている。


「笑わないで。それこそ小学校のとき、虫歯ゼロで表彰されたのよ」

 それはすごいですね。千早は微笑ましげな口調で言い、

「現代人の食生活では、虫歯になるのが普通ですよ。歯磨きはどれくらいしてます?」

「1日3回してます」

「ああ、じゃ磨き方が悪いんだ。ちょっと来て」

 千早は春海を促し、鏡の前に連れて行った。

「歯磨き粉も水も少量で。力を入れすぎないで。細かくブラッシングします」


 千早は春海の背後に立って、歯ブラシを持つ手を握る。春海は身体を強張らせた。

「離して」

 たやすく異性に触れるのは、自信の現れなのだろうか。


 触れている手が、すぐ近くに感じる体温が、春海を動揺させる。この匂い。夫のデオドラントシャンプーと同じだ。ふと、千早の吐息が耳元に触れた。春海はびくりとして、身を縮ませる。


「そんなに緊張しなくても、何もしませんよ」

 その言葉に、春海はかっとなった。彼を押しのける。

「私、帰ります」

 多分、顔が赤かっただろう。屈辱だ。千早がにこりと笑った。

「また月曜日に」

「来ません」

 春海は、足早に歯科医院を出た。



 ★



「っ」

 春海は、ずきりと痛んだほほを押さえた。やはり虫歯なのだろうか。千早に笑われたことを思い出すとむっとする。

「だからって、あそこにはいかない」


 そうつぶやいて、本を棚にもどす。図書館は通常月曜休みだ。休みがあけた火曜日は、返却された本がいつもより多くなる。ブックカートを押しながら本をもどしていたら、声をかけられた。


「すいません」

 振り向くと、男性がひとり立っていた。20代前半くらいだろうか。髪を短く刈り上げた青年だ。春海は彼に向き直って尋ねた。

「どうされました?」

 彼は少し言い淀んだあと、

「あの……エッセイコーナーはどこにありますか」

「あちらにございます」

 春海は、男性を促した。

「貸し出しされますか?」

「はい」


 本をバーコードに通し、春海はハッとした。表示されていた名前に、意識を引かれたのだ。

 夏川薫──。

「あの?」

 青年は伺うような目で春海を見ている。

「いえ。二週間後までにご返却お願いします」

 そう言って、春海は彼に本を返し、笑顔を見せる。

「またのご利用をお待ちしています」

 薫。夫が寝言で呼んだ名前はそれだった。考えてみたら、中性的な名前だ。


 仕事を終えたあと、春海はスーパーに寄り、買い物をした。今日の夕飯はカレーだ。袋を手に下げたまま、赤信号で足を止める。春の夜風は、まだすこし冷たい。

(あ、秋彦さん)


 歩道橋の上に秋彦の姿が見えたので、そちらへ向かおうとした。しかし、彼が一緒にいる人物を見て、足を止める。

「あの人……」


 今日図書館に来た、夏川薫という青年だ。二人は何かを話しているようだった。

 薫がかぶりを振ると、秋彦がふっ、と頭を動かした。二人の唇が重なる。


「!」

 まさか。春海はばっ、と視線をそらした。手が震えて、袋を落としてしまう。同時に、中に入っていたみかんがゴロゴロと落ちた。通行人のひとりが、みかんを拾い上げる。

「大丈夫ですか?」

「すいません」


 みかんを受け取る手が震える。くらくらして、頭がおかしくなりそうだった。これは現実なのだろうか。無意識のうちに自宅へたどり着き、袋をリビングに放ったまま、ベッドへ横たわった。


 すぐ寝てしまおう。そう思ったのに、目が冴えて眠れなかった。暗い部屋の中、チクタクと時計の鳴る音が聞こえる。キィ、と戸の開く音がした。


「春海?」

 秋彦の声だ。心臓が嫌な音をたてる。春海は、彼に背を向けたまま答えた。

「大丈夫。ちょっと、頭が痛いだけ」

 大丈夫じゃないわ。どうしてあなたは、男にキスをしてたの。まさか、そういう趣味だったの。ぐるぐると問いかけが頭の中を回る。


「ごめんなさい、何か出来合いのものを食べて」

「うん。春海は? 何か食べた?」

「私は、食欲ないから」

「そう……おやすみ」

 寝て覚めたら、全部まぼろしならいいのに──。


 翌朝目覚めると、秋彦が台所に立っていた。春海はぼんやりとその背中を見る。秋彦はこちらを見て、

「あ、おはよう」

 テーブルに皿を並べ、自慢げに言う。

「結構うまくできたと思わない?」

「ええ」

 春海は固い声で答えた。

「あ、やばい。こんな時間だ」


 秋彦は慌ててエプロンをはずし、花束を差し出してきた。

「今日は遅くなるからさ。誕生日おめでとう」

 今日は私の誕生日だった。忘れていた。

「ありがとう」


 笑わないといけない。春海は震える手を伸ばし、花を受け取った。

 花がなんだっていうんだ。そんなものもらっても虚しいだけだ。──私がほしいのはこんなものじゃない。あなたのあの表情。私を、ああいう目で見てほしいだけ。


 秋彦は初めて出会った時、眩しそうな目でこちらを見た。きっと違ったのだ。本当に、夏の日差しがまぶしかっただけ。


「顔色が悪いよ。休んだ方がいいんじゃない?」

 彼は心配そうな目でこちらを見る。春海は視線をそらして答えた。

「ううん、平気」

「じゃあ、行ってきます」


 秋彦は、笑顔で部屋を出て行った。ドアが閉まった音を聞いたのち、春海は花束を床に投げ捨てようとした。

「……っ」

 そうして、踏みとどまる。花に罪はない。春海は気持ちを抑え込み、花瓶に花を活けた。活けられた花は、悲しいくらい綺麗だった。


 ★


 春海はその夜、仕事終わりにペットショップへ向かった。どうせ夫は遅いのだ。すぐ帰らなくてもいい。かわいい猫を見たら、こんな気持ちはなくなるはずだ。

 こんな、誰もが愛するような存在になれたら。


 ぼんやり子猫を眺めていたら、隣に誰かが立った気配がした。視線を動かすと、千早が立っていた。目が合うと、にっこり笑う。


「こんにちは」

「……」

 どうしてこんなタイミングで現れるのだ。じっと見つめていたら、

「あ、引いてます? 違いますよ、ストーカーしたとかじゃなくて、たまたま見かけたから」

 千早は慌てて言う。春海はくしゃりと顔を歪めた。

「え、え?」

 周りからの視線に、千早が慌てる。春海は身体を震わせ、顔を覆う。彼は何も言わずに、春海の背中をそっと撫でた。


 春海は、千早と共に近くの喫茶店へ入った。コーヒーを一口飲むと、だいぶ落ち着いてくる。不倫相手が男だということは伏せ、今まであったことを話す。

「そうだったんですか……」

 千早はそう相槌を打つ。春海は頭を下げた。

「ごめんなさい、取り乱して」

「いえ」

 彼はコーヒーを飲み、ため息をついた。


「誕生日だと知ってたら、プレゼントを用意したのに」

「そこはどうでもいいの」

「よくないですよ」

 どうでもいいのよ、と千早はつぶやいた。

「私、秋彦にとってなんなんだろうと思った」

「本人に話すべきじゃないですか」

 春海はかぶりを振った。


「忘れるの」

「え?」

「忘れたら、楽だから。問い詰めても地獄しかないから」

 千早はじっとこちらを見ている。

「じゃあ、なんでそんな顔してるんですか?」

「……」

「辛いって、苦しいって言えばいいじゃないですか。あなたは被害者だ」

「あなたには関係ないでしょう!」


 思わず語気が荒くなる。それから、ハッとして口元を押さえた。なぜこの人に当たり散らしているんだ。千早は、冷静な目でこちらをみている。

「ごめんなさい、私……」

「関係ないです」

 だけど。千早が言った。

「俺はあなたが好きです」


 春海は喉を震わせた。曖昧だったものが、形を持って突きつけられたような気がした。

「だから、辛いことや苦しいことがあったら話してほしい」

「……どうして私を? 理由がわからない」

「覚えてませんか、俺のこと」

 春海はかぶりを振った。冷たい言い方かもしれないが、利用者のことを一々覚えているわけではない。


「そう」

 千早は少し寂しそうな顔をした。それから笑みを取り戻し、

「メアド。置いて行きますから、何か話したいことがあればいつでもどうぞ」

 メアドが書かれた紙をテーブルに置いて、店を出て行った。


 ★



 翌日の昼休み、春海は弁当を食べながら、文庫本を読んでいた。本に挟まれた紙に気づく。春海は本を置き、スマホを手にした。手打ちでアドレスを入れ、メールを打ってみる。


「こんにちは」

 しばらくして、スマホが鳴り響いた。

「こんにちは。もしかして、クリスティーが好きなんですか?」

 春海はメールを返した。

「どうして?」

「メールの始まりがpoaloだから」

「たまたまよ」


 それから、春海は千早とメールでポツポツやり取りをした。

「夫はLINEで相手と連絡してるの。私、LINEは使わないから」

「なるほどね。送信間違いもないし、その方が楽なんでしょう」

 楽な不倫とは、いったいなんなのだろう。秋彦は、薫の前ではけして疲れた、なんて言わないのだろう。楽だから薫と浮気をしているのだろうか。


「あなたは、LINEは使う?」

 春海はメールでそう打った。

「使いますよ。今度教えます」

 こういうのを、メル友というのだろうか。千早は自分のことは話さない。ひたすらメールで春海の話を聞く。これでは、彼を利用しているのと同じだ。だけどやめられなかった。千早とのメールが心地よかった。


「あなたは、悩みとかないの」

「ええ。独身貴族ですから」

「いいわね」

「あなたも自由に戻ればいい」

 離婚。そのふた文字が、頭の中で点滅する。そんな簡単に割り切れるものじゃない。別れて済むのなら、とっくにそうしているのに。また、奥歯がずきりと痛んだ。



 ★



 翌月曜日、春海は「ふゆの歯科医院」へ向かった。医院は中々混み合っていた。春海は週刊誌を読んで、順番を待った。名前を呼ばれ、診察室に入る。


「一ノ瀬さん」

 千早が笑顔を浮かべ、春海を出迎えた。こないだとは違い、きちんと歯科医の格好をしている。違う人のようで、なんだか緊張する。

「来てくれたんですね。怖くてキャンセルするかと思った」

「しません。子供じゃないんだから」

 春海がむっとしたら、彼がくすくす笑った。


 診察台に横になり、口を開ける。キュイイイン、という嫌な音が響いた。

「痛かったら右手を上げてくださーい」

 春海は何度か右手を上げたが、千早は全く意に介さず治療を続けた。


 治療が終わると、千早がしれっとした顔で尋ねてきた。

「痛かったですか」

「ええ、かなり」

 春海は、ほほを押さえてそう言った。虫歯を削るのが、こんなに痛いとは思ってもみなかった。千早はあはは、と笑い、

「これも経験。侵食が進むと、抜くことになりますからね」

 何がおかしいのやら。


「ありがとうございました」

 春海は頭をさげ、歯科医院を出た。千早が後ろから追ってくる。

「送りますよ」

「いいの、診療は」

「休憩時間ですから」


 千早と春海は、並んでゆっくり歩いた。傍から、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。

「あ、花桃だ」


 フェンスを超えるようにして、白や桃色、まだらの花が咲き誇っていた。春ですねえ。千早がそう言って目を細める。秋彦は花桃という名前を知らないだろう、と思った。──何を考えてるんだ。秋彦と千早を比べるなんて。春海は千早の横顔を見上げ、

「もう、メールしないわ。悪いから」


 千早はこちらを見て、首を傾げた。

「何かしましたか、俺」

「違うの。ただ、これは私の問題だし」

「ひとりで抱えるのはよくないですよ」

「あなたに頼りすぎるのも、よくないのよ」

 春海は、鞄から紙を取り出した。千早に差し出して、

「これ、図書館だよりです。オススメの本について書いてあるから」

 千早は黙って、図書館だよりを見ている。

「また、図書館にはきてください」

 春海は頭を下げ、その場を去った。



 今日は、秋彦の好きなクリームシチューにしよう。春海は、スーパーの鮮魚コーナーにいた。鮭を入れて、本格的な味にしよう。そう思って紅鮭を買う。

 買い物を終えて帰宅した春海は、材料を全て切り揃え、煮始めた。ルーを溶かそうとしていると、スマホが鳴り響いた。秋彦からだ。春海はスマホを手に取り、返答する。


「はい」

「あ、千早? ごめん。今日遅くなる」

「……また?」

「うん。支店長がお得意様と飲むから一緒に来いとか言っててさ。うんざりだよ」

 先に寝てて。かすかに、その声が浮き足立って聞こえた。彼が嘘をついていることに、春海は気づく。

「うん、わかった」

 春海は通話を切って、ぼんやりとシチュー鍋を見た。



 ひとりでシチューを食べ、ひとりで布団に入る。時計の刻む音だけが、静かな部屋に響いている。妙に目が冴えて、眠れなかった。春海は枕元のスマホに手を伸ばした。メールを開き、連絡先から「冬野千早」を選択する。

 春海はこう打った。


「夫が、帰ってこないの。いつも、十時までには帰ってくるのに」

 それに。

「きっと、恋人と一緒にいるんだと思う」

 そう書いて、送信する。もうしないと言ったくせに、舌の根も乾かぬうちにこんなこと。自分はこんなに優柔不断な人間だっただろうか。大体こんなメールをもらって、千早だって困るだろう。


 数分後、メールの受信音が響いた。

「うちに来ませんか」

 メールには、地図が添付されていた。春海は何も考えずに、行きます、と返信をした。

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