千早ぶる
あけおめ昼メロドラマ。
わびぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ。「後撰和歌集」
夫には好きなひとがいる。初めてそのことに気づいたとき、世界が終わったような気がした。
今日の晩御飯は何にしようかな。一ノ瀬春海がそう思ったのは、先ほどの利用客がレシピ本を借りて行ったからだった。春だから、ふきの天ぷらとか、ちらし寿司なんかもいいな。春海は、冷蔵庫の中身を思い返し始めた。
「返却おねがいします」
その声に、春海はハッと顔をあげた。こちらを見下ろしていたのは、背の高い男性だった。色素の薄い髪が、形のいい額にかかっている。
「あ、はい。ありがとうございます」
春海は慌てて本を受け取り、パラパラとめくった。ページの間に紙がはさまっているのに気づく。男性はすでにカウンターを離れている。
「ちょっと席を外します」
春海は同僚に断わり、紙を手にカウンターを出た。本にはさまっている私物は、本人に返却する決まりなのだ。すいません。声をかけたら、男性が振り向いた。
「これ、お忘れものです」
紙を差し出すと、
「いや、忘れものじゃないよ」
「え?」
彼は春海から紙を受け取り、開いてこちらに見せた。春海は、文字列を目で追う。
「chihaya@……」
メールアドレス? 男性の目は笑っている。からかわれているのだろうか。春海は眉を寄せて言う。
「こういうのは困ります」
「どうして?」
男性は相変わらず、からかうような目でこちらを見ている。無言で結婚指輪を見せると、
「知ってるけど」
春海はますます眉をしかめた。知っている? なんて言い草なのだ。
「俺、冬野千早っていいます。冬に、野原の野に、千早ぶるの千早」
彼は流れるように言い、無邪気に笑った。
「本の話とかしたいな、と思って。それでもだめですか?」
「私は公僕ですので」
固い声でそう言ったら、彼が嘆息した。
「ああ……大変ですよね、公務員って。市民に税金泥棒って怒鳴られ、国からは搾取されて」
一体何の話だ。少なくとも春海は、税金泥棒をした覚えはない。カウンター内から、同僚がこちらを見ているのに気づく。春海は咳払いをした。
「好きでしてる仕事ですので」
「そう?」
「またのご利用、お待ちしております」
春海は頭を下げ、カウンターへと戻った。
昼休み、春海が休憩室で弁当を食べていたら、同僚の水野がやってきた。
「ねえ、一ノ瀬さん。さっきのなんだったの?」
彼女は興味津々で尋ねてくる。春海は卵焼きをつまみながら、
「忘れものをお渡ししただけです」
「イケメンだったよねー。背高くてさ。あんな利用客いたっけ?」
「さあ……」
春海は首を傾げ、卵焼きをかじった。一ノ瀬春海は、K市に生まれ、K市で育った。大学を出て、市立図書館の司書になって8年。結婚して2年。問題なく日々を過ごしている。
水野はサンドイッチを食べながら、雑誌を読み始めた。雑誌の表紙には、「麻薬所持!? 人気俳優にまさかの汚点!」という文字がデカデカと載っている。
「ねえ、一ノ瀬さんの旦那さんってどんなひとなの?」
「普通の、優しいひとですよ」
春海の薬指で、指輪がきらりと光った。
夫の秋彦とは、三年前の夏に出会った。坂道を登る途中、自転車がパンクしてしまった。たまたま通りかかって、助けてくれたのが秋彦だった。
秋彦は銀行の営業マンだと言った。汗だくでも笑顔は素敵で、爽やかで、いい人だと思った。
後日、お見合いで再会したときは、こういうのを運命と言うのではないかと思った。そう、秋彦は優しくていい夫だ。そう、思っていた。
★
「ただいまー」
台所でふきを揚げていたら、扉の開閉する音がした。春海は、リビングに入ってきた夫に声をかける。
「お帰りなさい」
彼はただいま、と言って笑った。大学時代ラグビー部だったという秋彦は、がっちりした身体つきをしている。それに加え、外回りをするせいで、日に焼けていた。彼はふらふらソファへ歩いて行って、大の字になる。
「あー、疲れすぎて死にそうだ」
忙しすぎて死にそうだ、が彼の口癖だった。春海も特に反論はしない。
「お疲れ様」
彼はソファの背もたれに腕を乗せ、こちらを見た。リビングとキッチンは、コの字型カウンターで区切られている。
「いい匂いだなあ。天ぷら?」
「うん。もうすぐできるから、先にお風呂入っちゃって」
春海がそう言うと、秋彦はそうする、と立ち上がり風呂場へ向かう。シャワーの音がするのを確認したあと、一旦火を止め、キッチンを出た。春海は秋彦のカバンを開けて、スマホを取り出す。心臓がどくどくと鳴る。
LINEアプリをタップしたら、履歴が出てきた。春海は履歴を目で追う。
「あいしてる」
目に飛びこんできた言葉に、春海は息を止めた。カバンにスマホを戻し、再び天ぷらを揚げ始める。
夫が浮気をしている──それに感づいたのは、一ヶ月前のことだ。夫が寝言で、見知らぬ人の名前を呼んだのだ。それに、あのLINE。まさか本当に、彼は春海を裏切っているのだろうか。
食事を終えた春海は、風呂に入った。デリケートゾーンを含め、いつもより念入りに身体を洗う。風呂場からでると、秋彦がこちらに背を向けて立っていた。その背中を見ていたら、鼓動が高まっていく。
「ん?」
視線を感じたのか、秋彦が振り向いた。春海は、夫に抱きついた。彼は男性用のデオドラントシャンプーを使っている。自分とは違う、その匂いに身体が痺れる。抱いてほしい。そう言う前に、彼がやんわりと春海の身体を押した。
秋彦は困ったように、
「ごめん。ほんと今日は疲れちゃって」
「うん、そうだよね」
春海はそう言って、曖昧に笑った。嫌われたくない。だからそれ以上は何もできなかった。
その夜、秋彦は布団のなか、ずっとスマホの画面を見ていた。暗い部屋の中、スマホのブルーライトだけがぽつりと灯っている。
「寝ないの?」
「うん、ちょっと」
疲れているはずなのに、夫は誰かとLINEをしている。そう、秋彦は肉体的に疲れているわけじゃない。春海といることが苦痛なのだ──。春海は、ぎゅっとシーツを握りしめた。噛み締めた歯が、ずきりと痛んだ。
★
翌月曜日、春海は市内にあるペットショップへ向かった。飼おうと思ったわけではない。可愛らしい猫や犬を見れば、もやもやした気持ちが消えるに違いない、と思ったのだ。実際、あどけない子犬や子猫は、春海を癒してくれる。アメリカンショートヘアーの子猫を眺めていたら、誰かにぶつかった。春海は慌てて頭を下げる。
「すいません……」
「いえ、こちらこそ」
相手はこちらを見て、目を瞬いた。
「あれっ?」
目の前にいたのは冬野千早だった。春海は気分を重くする。なぜ、こんな気分の時に会ってしまうんだ。千早は笑みを浮かべ、
「好きなんですか、猫」
「ええ、まあ」
春海は目をそらした。
「かわいいですよねえ。俺も大好きです」
彼はそんなことを言って、ニコニコ笑っている。
「じゃ」
春海が歩き出そうとしたら、
「あ、ちょっと待って」
千早が引き止めてきた。握られた手に、春海はびくりとする。ひどく冷たい手だった。
「離してください」
「小さいんですね、手」
人の話を聞いているのか、この男は。千早はくす、と笑い、
「どうですか、お茶でも」
そのタイミングでずきり、と奥歯が痛み、春海は顔をしかめた。
「結構です」
「そんな嫌そうな顔しなくても」
「なんだか、昨日から歯が痛くて」
「俺、歯医者なんです。この近くだから、行きますか?」
「は? ちょっ」
千早は春海の手を引いて歩き出した。