第一章 彼の耳はかなりいい 5
一体何時間経過したのだろうか。ナオトは激しく揺さぶられようやく作業を中断することになった。
「ちょっと、聞いてるのバカ」
ナナの大声と震度九なみの揺れで、彼はようやく彼女の存在に気づいた。
「えっ、なに」
「聞こえなかったの? 夕食の用意ができたから呼びに来てやったのよ。あんたの歓迎会も兼ねてるんだから嫌とは言わせないわよ」
「みんな集合してるの?」
「まだ紹介が終わっていない人だけを集合させてるわ。ほら行くわよ」
「うん」
ナオトは席を立ち上がろうとすると、
「痛っ」
長時間、同じ姿勢で座っていたため、彼の両足は電気が流れているかのように痺れていた。
しかし、歯を食いしばり足場を踏む。そのたびに脳みそにけしからん痺れと力がうまく伝わってくれない感覚に襲われる。それらに耐えつつ、どうにか床に着地したが、そこが限界であった。
「うわっ」
ナオトは自分の足なのに、うまく力が入らずバランスを崩してしまった。
「えっ、きゃっ」
転倒先のナナに身体ごと当たり、運がいいのか悪いのか、そのまま二人は一緒に床へ倒れこんだ。
「いてて、ごめん。大丈夫?」
「もう何をす……」
二人は出会ってから二度目のタイムフリーズを起こした。
ナナは床で仰向けにナオトは覆いかぶさるような形になっていた。
さらに彼の右手はあろうことか、まだ穢れの知らぬ、神聖なる控えめな双丘の片方を鷲掴みしているではないか。
ナオトも男である。この状態で魔が差さないわけがない。それは大自然の摂理に等しく、登山者がなぜ山に登るのかと同じくらいに自然と、彼のラッキーな右手はその膨らみを揉んだ。一度だけなら偶然といえよう。しかし、そんな言い訳なんぞ知ったことかという勢いで何度も揉みくだす。
「あっ、意外とあるな……」
ナオトがぼそりと呟くと、正気を取り戻したナナは、悲鳴を上げ彼の頬を殴った。仰け反り床に倒れた。
「あ、あんた、どさくさに紛れて、なに乙女の許可なく胸を揉んでいるのよ!」
「ごめん。そこに胸があったから……」
ナオトの咄嗟の一言は、ひねりがあってうまかったが、決してこの場にはふさわしくはなかった。
「乙女の胸を山みたいに言うな!」
ナナは涙目を浮かべながら、ナオトの反対側の頬を殴った。
「うげっ。や、山? どちらかというと丘かな」
彼は言わなくてもいい一言を言ってしまった。普段はそこまで踏み込んで言うことはないのだが、なぜだろう。彼女にはついついその余計な言葉が出てしまう。
「この、弩ヘンタイ、チビ、バカ!」
ナナは目に涙を浮かべ、怒りマックスの顔つきでナオトの顔面に足跡が残るくらい力一杯めり込ませた。彼女はすぐにきびすを返すと、足早に格納庫を出た。
取り残された彼は、痛む頬をさすりながら立ち上がり、痺れる足に苦戦しながら食堂に向かう。
この船の食堂は意外と広かった。さすがにテーブルやイスは軍艦のように無骨な作りだが、壁紙は癒しを感じさせる色合いである。
そんなテーブルも、今や華やかなテーブルクロスに身にまとい、長椅子や背もたれにはカバーがかけられ、天井には一体誰が作ったのか、紙を加工して輪をつなげて作った紙の鎖がいくつもぶらさがっていた。普段の船内で食べるご飯とは違い、趣向をこらした料理でいっぱいである。
「おっ、来たか」
食堂の一番奥で座っていたストリンガーが、太い腕を大きく使い、こっちに来いと手招きをする。
「さっ、お早く船長の隣の席が空いていますわよ」
入り口付近に座っていたカナコがナオトを促す。食堂にはすでに七人の男女が座り、その大半がまだ名前どころか顔を見たことがなかった。
「アラナミ、君はこっちだ」
さそわれるがまま、ストリンガーの隣に座った。
「ん? おいおい。その顔どうしたんだ。頬が腫れているじゃないか。なんだ、また喧嘩か。まだ初日なのに仲いいな。ガハハハ」
ストリンガーはその体格にあった豪快な笑みを浮かべた。
「ちょっと、父さんやめてよ。誰がこんなヤツ!」
ナナは全力で拒否をするが、周囲の人間からは生暖かい目で見られていた。
「まあ、それはあとで酒の肴にするとして、さっそく歓迎会を始めよう。さて、本日より頬那美のソナー員として雇ったアラナミ・ナオトだ。いきなりの航海でお互い戸惑っているだろうが、仲良くして欲しい。彼は元潜水艦乗りなので航海のノウハウはある程度あるだろうが、しっかり教えてくれ。なお、彼の教育係はナナだ。アラナミもわからないことがあれば、遠慮なく言って欲しい」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ自己紹介を」
「はい。あらためて、アラナミ・ナオトです。皇国海軍をクビになって以来、仕事もほとんどなく、路銀もなくなり部屋も追い出されたところ拾ってくれ感謝しています」
そこで各所で笑いが起こった。
「いきなりの航海の上、演習なしの実戦。みなさんから見れば、まだどこの馬の骨とも知らないでしょうが、一日でも早く安心できるように精進します。どうぞよろしくお願いします」
拍手がおこった。彼らからすれば、ナオトの存在はまだ未知数である。まして命を掛けた戦闘では互いの信頼関係が生死を分かつときがままある。そのことをよく知っているナオトの挨拶は、彼らに少し安心感をあたえた。しかし、ナナだけはまだ不信感の目をこちらに向けていた。
「さて、じゃあ次はこちらの自己紹介だな」
ストリンガーは左側を見た。
「まずはワシからじゃな」
船長側一番手前の席に座っていた、六〇代の老体が立ち上がった。天頂は見事なツルツル。側面はふさふさの白髪。白いヒゲたっぷりの穏やかな顔つきだ。
「ワシはオダ・ノブオ。この船の機関長をやっておる。機関はもちろん機械関係でわからないことがあればいつでも聞いてくれ」
「はい。よろしくお願いします。ではあなたが……」
「もう会ってるじゃろ。頬那美の整備三姉弟の父親じゃ。よろしくな」
「よし次は俺だな」
オダの向かい側の席に座っている二〇代後半の青年が立ち上がる。整った顔立ち、切れ長の目。ファッション雑誌の一ページを飾るのに相応しいイケメンであった。
「俺はカツラ・マサムネ。砲雷長をしている。あらゆる火砲を扱えるぞ。狙った獲物は逃がさない。もちろん女の子に対してもな」
カツラはウインクをした。これがまた似合ってはいたが、彼のことを見る彼女らの反応は冷ややかなものであった。
「は、はあ。よろしくお願いします」
「見たところ君は女っ気がない。あとでいろいろ教えてやるよ」
ドヤ顔のカツラに、ナオトは曖昧な表情を浮かべた。
「さて、このバカはほっておいて、次はサナダだな」
「ちょっと船長。それはヒドイ」
少々オーバーアクションぎみに、カツラは手で額を叩くとイスに座り込んだ。
各所から笑いがおこる。彼はこの船のムードメーカーのようだ。
次にストリンガーが目線を向けた先は、年の頃は二〇代半ば。長い黒髪はうしろでまとめ、ビールを飲みすでにほろ酔いの化粧っ気のない顔。分厚そうなメガネをかけ、その奥の瞳までは覗くことができない。
「わたしですねぇ。わたしはぁ、サナダ・サクラ。この船のレーダー、通信、電子戦を担当していますぅ。よろしくねぇ」
のんびりとした口調である。身体が多少揺れており、地なのか酒に酔っているものなのか判別はできない。落ち着きがないように思えた。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
サクラは口元を緩めると、再び座りビールを飲み始めた。
「よし。あと整備三姉弟とは自己紹介したな」
「はい」
「あと副長とオリトはいないが、これでこの船の乗員。というか社員のすべてを紹介したわけだ。さあ、歓迎会のはじまりだ」
こうして本格的な宴が始まった。
夜も深くなる頃には解散となり、ナオトは一人、その足で頬那美のソナー席に座り、マニュアルの読破へと進撃を開始した。