第一章 彼の耳はかなりいい 2
時系列は元に戻る。
海運都市ヨコスカ。この都市の特徴を述べよと言われると、まず世界有数の軍港があり、造船産業、海運産業の中心地が挙げられるだろう。その中で、特徴的な職業がこの都市だけでなく、今世界的に広がりつつあった。それが民間警備会社である。
世界大戦から一○年。海軍くずれや、家や土地を失った人間が生きていくため海へ走った結果、多数の海賊が世界の海を荒らし始めた。そんな海に、無力な商業船が出て行けば、まな板の上の鯉。ベットの上の半裸の美女。格好な獲物であった。
むろん、各国政府も指をくわえていたわけではないが、全大戦で消耗しきった海軍にそんな余裕はほとんどなかった。そこで生まれたのが、政府から許可をとり、指定された武器を持ち、民間船を護衛する企業である。まだ生まれてまもないが、すでに企業数も大小数百社以上ある。
そんな民間企業が集まる区画に、二人は足を踏み入れた。その瞬間、空気が一変する。今までの陽気な雰囲気は縮こまり、変わりに緊張感が少し膨らんだような佇まいだ。
人の往来も減った。それも当然である。ここに関係があるのは、護衛してほしい海運企業が主なのだから。
この地区が再開発されて数年。民間警備会社たちが入っている事務所群は真新しかった。
彼女曰く、表はこじんまりしているが、裏には立派なドックがあり、直接運河から海洋へ出られるらしい。
そんな営業所群を通り抜けると、その会社はあった。
民間警備会社〈アマテラスアーサー〉。主に海における輸送船の護衛等を生業としている。
開業して一○年。企業としては新しいが、職種としては古参にあたる会社である。
「さあ、入ってください」
「は、はい」
彼女にうながされるまま、ナオトは建物に入った。中はわりとこざっぱりとしていた。いくつかの事務用の机。部屋の隅には来客用のテーブルとソファが設置していた。
その事務用机には、一人のメイドさんが事務仕事をしていた。
一瞬、目を疑ったが白のカチューシャ、エプロンドレス。どれをとっても見事なメイドさんである。
ナオトの存在に気づいた彼女は立ち上がると、ゆっくりと近寄ってきた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
親しみを感じさせる笑顔で彼女は言った。
「え、えと……」
「ただ今帰りました。リナさん」
「あっ、お帰りなさい。カナコ」
「この人はお客様ではありません。就職希望者です」
「そうでしたか。それでは、こちらへどうぞ」
「は、はい」
メイドさん。もといリナと名乗る彼女の案内で、ナオトは来客用のソファーに座った。同時にお茶とお菓子が出された。
「少々お待ちください」
と言うと、二人は奥へ繋がる扉へ入ってしまった。
それを見届けたナオトは、目の前のご馳走(お菓子)を、ブラックホールのごとく一瞬で胃の中に収めた。一昨日から何も食べていない身としてはお菓子でもご馳走である。
お茶を飲み干すと、ほっとした安らぎが、強固なフィールドを備えた繊細な心と残念な身長の身体に染み渡るのを感じた。
あらためて、現状を整理する余裕ができた。成り行きでここまで来てしまったナオトだが、このまま行く当てもないので、ここでお世話になるのもいい。と考えが固まりつつあり、繊細な心もソナーの仕事をしたいと、理性の扉をガンガン叩いている。
しばし待っても誰も来ない。だんだんと不安になり落ち着きもなくなってきた。
その時、事務所の奥からくぐもった小さな悲鳴と何かが倒れる音が聞こえた。
どうしたんだろう。何かあったかな?
ナオトは少し迷ったが、意を決し奥へと繋がるドアを開けた。そこには、一人の少女が床に仰向けで倒れていた。
そこまではごくありふれた光景だろうが、問題は少女がどういうわけか素っ裸であることである。
「こ、これは……」
年の頃は一七くらいだろうか。ショートカットの栗色の髪。いろいろな電波を受信できそうなアホ毛が一本立っている。くりくりっとした目つき。無駄な肉がなく、身体全体が引き締まっており健康的であった。少々胸のボリュームはないが、確かに存在する双子の山の上には、彼女を秘密のベールに包み込むタオルが妨害している。
「いたたた……。ああ、もう」
彼女自身も転倒したことは予想外だったのだろう。
そして、ナオトと目が合った。その瞬間、この場所だけが周囲から時間を切り取られたようだ。彼女の目からは信じられないというプレッシャーが、ひしひしと伝わってくる。それは彼も同意見であった。
だが、なにかの偶然か神のご意思か気のいい悪魔のいたずらか。彼女の身体を防御していた白い織物が、ついに重力に負け、はらりと御身を舐めるように床に落ちそうになった。それはまさに艶かしいというよりエロかった。
あと少し、あと少し……。
自然とナオトの目は一眼レフカメラとなり、一瞬のシャッターチャンスを狙う。
いくばくか冷静になり、彼の視線に不信を抱いた少女は、自分の身体を見た。今にもすべてをさらけだそうとする現状に、顔が一瞬で真っ赤になり涙目になった。
「き、きゃっ……」
少女が叫ぶと感じた瞬間、ナオトは、
「ありがとうございました」
それは見事な直立不動の姿勢をとり、頭突きで瓦を割るような勢いでお辞儀をすると、力いっぱいに感謝の気持ちを伝えた。いや言ってしまった。
「ええっ! お礼言われた!?」
あまりに予想外の反応だったのだろう。彼女の羞恥心は驚きの壁に隠れてしまったようだ。
「って、違う違う。なんなのよあんたは!」
もう少しのところで、双子の頂が見えそうだったが、彼女は見事な動作でタオルを自分の身体に巻きつけながら立ち上がった。
こちらを睨みつけてはいるが、涙目のうえ、顔も耳まで真っ赤なのであまり怖くはない。むしろかわいらしかった。身長は少女の方が高かった。少し……。
「僕はここに就職しないか。と誘われてきたんだけど……」
ナオトはタオルの裾から、すらりとのびる魅惑的な御足に見惚れながら言った。
「はあ? だったらなんで奥まで入ってくるのよ。ここは関係者以外立ち入り禁止よ。って、なにジロジロ見てるの」
ナオトの視線に気づいた彼女は、足元を隠そうとしてタオルの裾を延ばそうとモジモシしているが、それが逆にエロかった。
「あっ、うん。奥で何かが倒れる音がしたから、気になってついね」
「嘘つき。あのドアは防音になっているのよ。聞こえるはずないわ」
「だと思ったよ。防音特有の音の伝わり方をしていたしね」
「なに言ってるの、あんた。とにかくチカンとして通報してやるわ」
「あらあら。二人はもう仲良くなったの?」
危うくケーサツのお世話になる前に、別のドアからカオリが現れた。
さらにその後ろには、短く切り揃えた金髪。深い蒼色の瞳。体格風格共に歴戦の勇士を思わせる偉丈夫と、ごま塩頭。メガネをかけ、その奥からは鋭さが漏れる瞳。神経質そうな雰囲気を持つ細身の男もいた。
二人とも青い作業着のままである。あっちこっち汚れや油がついている、何かの整備中だったのだろうか。
「どうしたんだ? あっ、こらナナ。またそんな格好で。仕事は終わったのか?」
「終わったわよ。だからこうして出航前のシャワーをたっぷり浴びていたのよ。それよりも父さん。こいつ、あたしの裸を見たのよ。ケーサツに電話して」
ナナと呼ばれた少女は、さらに事の顛末を話す。短いがとにかくナオトが悪いことになっていた。
「なるほどな。それは滑ってこけるお前が悪い。それに、そんな貧相な身体を見て興奮する男がいるのか?」
「あっヒドイ! 最悪!」
さらに彼女は抗議をしようとするが、父親にさえぎられた。
「いいから着替えてこい。お前にも十分関係する事だ。すぐに事務所に降りてこいよ」
「ううう。父さんのバカ!」
彼女は涙目のまま走り去った。
「やれやれ困った娘だ」
「とどめを刺したのはお父さんですよ。それに貧相な体つきって、本当でも言わないのが紳士でしょ」
さりげなくカナコも酷いことを言っているが、誰もツッコミはいれない。
「いやあ。ウチのバカ娘が醜態をさらして申し訳ない。君が就職希望者かね」
「はあ、まあ」
「よろしい。事務所へ行こう」
四人は来客用のソファに座った。
もちろん、ナオトは一人で座り、向かい側に三人が座った。
ますは自己紹介から始まった。
向かって右側のごま塩頭でメガネをかけているのが、この会社が保有している船の副船長でもあるサオトメ・ミツオ。大和皇国出身。
真ん中にいる偉丈夫が、社長であり船長でもあるマクド・ストリンガー。彼は栄えある女王陛下のブリタニア連合王国出身である。
そして、左側の長い黒髪。ナイスボインがカナコ・ストリンガー。先ほどのほぼ全裸姿の少女がナナ・ストリンガー。二人は姉妹であり、大和皇国生まれ。さらに三人は親子でもある。
まずはこの会社の事業内容の説明と、給与体制、各種保険等の説明を聞きながら、ナオトは渡された履歴書に必要事項を書き込んでいた。
名前、生年月日、年齢、住所(ここは不定と書かざるを得ない)、前歴、資格等。
「ほう君は元皇国海軍で潜水艦勤務をしていたのか」
「まあ……」
「なら、海事のことはまったく素人ではないってことか」
「どうして軍をやめたのかね」
サオトメはメガネをくいっと上げた。そのレンズの向こう側から覗く鋭い視線は、ナオトの心のうちを暴露させようと、圧力をかけてくるように感じた。
「やめたというか、不名誉除隊にさせられたといいますか。まったく困りますよね。ははは」
わざと笑ってみたが、全員笑うことはなかった。不名誉除隊は軍属時、重大な違法行為を犯し軍法会議で裁かれた者が負うもので、軍人にとってはもっとも恥ずべきものだ。履歴書でも記入しないといけないので、就職では不利は免れない。
「……すみません」
ナオトは逆に萎縮してしまった。なんだか空気が怪しくなってきた。やはり不名誉除隊という肩書きでは就職は無理だろうか。と彼の頭に絶望の二文字が浮かび上がった。
「ちなみに罪状はなにかね」
ストリンガーはじっとナオトを見た。何かを見極めようとしているようだ。
「はあ。それが窃盗未遂です」
「ほう。未遂で不名誉除隊になったのか」
偉丈夫は眉を上げた。何か思い当たるフシがあるのか、何度もうなずいた。
「でも本当は違うと思うんです。なにか聞いてはいけない音を聞いて、それが軍にとって知られるのは不味い。だから適当な理由で処分しようとしたのかなって」
ストリンガーは隣のサオトメと目配せをすると、副長はうなずき席を立った。
「なるほど。君も大変だったな。ちょっとここで音楽を聴いてくれ。これは簡単な入社テストだと思って欲しい。気楽に頼むよ」
そう言うと、ごつい手には不釣合いな小さなデジタルプレイヤーと、コンパクトサイズのスピーカーをポケットから取り出した。
「これから流す音の中に、あきらからに違う異音を含んでいる。何箇所あるか当てて欲しい」
「わかりました」
ナオトはうなずくと、姿勢を正した。
その時、作業着姿の半裸、いやほぼ全裸だった少女のナナが、不機嫌な足取りで事務所に出てきた。初対面で醜態を見せてしまった彼に、思いっきり睨みつけながらソファに座る。
「ふん」
むっとした表情で少女はそっぽを向いた。
「こら、ナナ。きちんと挨拶しなさい」
「……ナナ・ストリンガーよ」
「あっ、どうも。アラナミ・ナオトです。先ほどは眼福でした」
「なっ、このチビ! すぐ忘れなさい」
「チビって言うな。君とあんまり変わらないだろ。この貧乳!」
「なっ、この!」
「ぐほっ」
ナナは涙目になり、ナオトの頭を殴った。
どっちもどっちな発言にしては不条理すぎる拳が、ナオトをソファに撃沈させるには十分すぎる威力であった。
「あらあら仲がいいですわね。妬けますわ」
カナコは少し頬を赤くしながら言った。うらやましそう。というより暴力的行為にうっとりしている。と表現したほうがいいだろう。
「ちょっとカナ姉。別にこいつとそんな仲じゃないわよ。今日はじめて会ったのに、そんな関係になるわけないじゃない」
「あらそうですか? そうは見えないですけど……」
「もう、カナ姉!」
「こら、二人ともやめろ。ナナ、殴ることはないだろう。せっかくそんな身体でも眼福と言ってくれたんだ。怒るいわれはないだろう」
ストリンガーは少々面倒くさそうに言った。
「うう。それはそうなんだけど……。って、その言い方ヒドイ」
「いてて」
三人のやり取りの間に、ナオトは復活。再びソファに座りなおした。強力な一撃にまだ痛みは残っているが、テストに影響はなさそうである。
「ごめんなさいね。暴力的な妹で」
「ちょっと、カナ姉」
「やめんか、二人とも。今は面接中だぞ」
席を立っていたサオトメが戻ってくるなり、鋭い眼光をナナとカオリに向けると、二人はたちまち無言になった。まるでヘビに睨まれたカエルのようだ。注意されたのは姉妹だが、ナオトまで言われたような気分になっていた。
「さて、あらためてこれを聞いてくれ」
気を取り直してストリンガーは、デジタルプレイヤーの再生ボタンを押した。
小さいスピーカーから流れてきたのは水中の音だ。魚やエビ類が泳ぐ音。クジラやイルカが発する音波。波が岩にくだける音。海中で聞こえるあらゆる音が聞こえてきた。
ここで流れているのは、すべて自然の音、では異音というのは人工の音だろう。
目を閉じじっと耳を澄ませる。音を聞くだけで、まるで自分が海洋生物になった気分になる。
クジラが気持ちよく泳いでいる。その傍らには子クジラだろうか。大人より太くはないが、子供らしく元気がいい鳴き声が聞こえる。
イルカが群れとなり、特有の音波を使って仲間同士でコミュニケーションをとっているのが伝わってきた。
今度は魚群がやってきた。一匹一匹は小さいが群れとなれば、それはまるで塊がゆっくりと移動していように感じる。
次は海流同士のぶつかりあいだ。大きく荒々しく、力強いうねりは自然のダイナミックな動きと脅威を表現していた。
そんな中、ナオトの耳に違和感を覚えた。あきらかに自然の音ではない。一定のリズムで移動しているように思える。独特のモーター音、水が乱れる音。これは……。
やがて、違和感は消え再び自然の音が強く聞こえる。その間一〇秒ほどだろうか。
その後も何度か不審な音をとらえた。だいぶその正体がわかってきた。
そこで、スピーカーが伝えることを停止した。これでテストは終わりらしい。
「どうかね。もう一度聞くかね」
「いえ大丈夫です。違う音は全部で五回。それぞれ一〇秒ずつ聞こえてきました。音の正体は洗濯機ですか?」
四人はそれぞれ顔を見合わせた。みな一様に驚いた表情になっていた。
もしかして、まったくの見当違いだったのだろうか。とナオトは不安になってきた。
「少し席を外してもいいかな?」
「ええ。どうぞ」
四人は立ち上がると、そそくさと奥のドアに消えていった。
いったいどうしたのだろうか?
一気に静かになった事務所に、キーボードを叩く音だけが聞こえる。いつの間にか戻ってきたメイド姿のリナが黙々と作業に没頭。こちらを見ようとしない。微妙な雰囲気の中、待つこと二〇分。
「待たせたね」
ストリンガーを先頭に四人は再びソファに座った。
どういうわけか、ナナだけが前回よりも、むすっとした表情になっている。
「さて、結果を発表する」
「はい」
ナオトは緊張した。もしダメなら、本当に野たれ死ぬしかない。