第一章 彼の耳はかなりいい 1
第一章 彼の耳はかなりいい
海中は見た目ほど静かではない。静寂とはほど遠く意外と賑やかな空間だ。鯨やイルカはもちろん。魚やエビ、海底火山の噴火、海流さえも独特の音を出し自己主張している。
太陽のほとんど届かない海中では、目で目標を見つけ出すことはまず不可能。まして、電波など電子の目もここでは役にたたない。唯一頼れるのは耳だけである。
彼はそんな海中のシンフォニーを聞くのが好きだった。趣味といってもいい。そのためだけに潜水艦のソナーマンになったのだ。
できることならずっと耳を澄ませていたかったが、至福の時間が過ぎるのは光よりも早いらしく、残念ながら交代の時間になってしまった。
肩を叩かれ振り返ると、同じ部署の同僚が立っていた。ため息をつくとヘッドフォンを外す。
「相変わらず交代の時は暗いな。お前の趣味と同じで」
「うるさいな。ほっとけよ。それよりも、今日の晩飯はなんだった?」
アラナミ・ナオトは長時間同じ姿勢によって、こわばった筋肉をほぐしながら言った。
「今日はカレーだったぞ」
「なら金曜日か」
洋上勤務では曜日の感覚が失われがちなので、毎週金曜日をカレーの日となし、各艦でオリジナルのカレーが出されている。
ナオトは立ち上がった。目線の高さは同僚の肩もない。
「さっさと休憩してきな。少年」
「僕はもう二三歳だ」
ナオトが少しむっとしながらソナー室を出ようとすると、警告音と赤いランプの点滅が部屋を支配した。この潜水艦の優秀なソナーが何か異音を探知したのだ。その瞬間、彼は自分の席に着きヘッドフォンを装着。機器を操作する。
画面には上から下へ滝のように流れる、帯状となった音のデータが表示され、さらにその正体を迫るべく、コンピューターでフーリエ展開を用いて分析をかける。
「班長を呼んでくれないか」
「わ、わかった」
同僚は緊張した面持ちで受話器をとる。
すぐにソナー室の責任者である班長が現れた。
「なにを探知した?」
「二軸のスクリュー音を探知。方位三―四―五。距離八〇〇〇。方位変化率による予測速度二五ノット。深度一五〇。音紋に照合なし」
「よし、対象を仮称番号C9に認定しろ」
「了解」
ナオトは目標の正体にさらに迫るため、耳をすませ画面をにらみつける。
「ソナーより発令所へ。新たな目標を探知。対象をC9に認定。方位三―四―五。距離八〇〇〇。方位変化率による予測速度二五ノット。深度一五〇。音紋に照合なし」
班長は発令所へ報告をいれた。
『総員起こし。第一警戒態勢を発令』
艦長の声がスピーカーに乗って、全艦に響き渡る。まだ三○代という若さで、これからを期待されている人物であった。
放送と同時に煌々と点灯していた蛍光灯が消え、その代わりに赤いランプが艦内を支配する。一気に緊張の糸が音をたて張り巡らされた。
『発令所よりソナー。目標に変化があればすぐに報告せよ』
「了解」
「き、緊張するな……」
今回の航海が初めてである同僚は、堅くなった表情で少し震えの混じった声を出す。それに対して、ナオトは落ち着いて自分の仕事をこなしていた。彼は何度もこういう場面を経験しているため、多少は慣れていた。
「今からそんなんだと、後がもたないよ。リラックスリラックス」
ナオトは画面から目を離さずに言った。
「お、おう」
窓が一切なく耳だけが唯一の情報取得手段である潜水艦にとって、ソナーマンの責任は重い。
追跡を開始して二時間。次々と音の情報が集まってくる。ナオトはキーボードやダイヤルを操作し、得られたデータの分析を続ける。何度もコンピューターに音をかけ不要な音を消していく。どうやら相手は二軸スクリューに電磁推進を組み合わせている最新のハイブリッド推進法。音も従来よりも静かであり、むしろ自然の音の方がうるさいくらいだ。今回探知できたのは奇跡に等しい。
『発令所よりソナー。C9に変化はあるか?』
「進路、速度、深度に変化なし。現在の相対距離四〇〇〇」
『了解。そのまま監視を続けよ』
「このまま何ごともなく終わるかな」
「さあね。そのほうがいいけど、針路が針路だからね。もしかしたら実戦になるかも」
「冗談だろ」
「僕もそう願ってる」
仮称番号C9が向かっている先には、彼らの母国大和皇国がある。国籍も目的も不明である以上、最悪の事態に備えなくてはならない。自然と同僚は不安を募らせ、ナオトも表情が険しくなってくる。
その時、上から下へ流れる音の帯に変化があらわれた。まっすぐに流れていた帯が、少し右に移りつつある。それも急速に。
「班長! これは」
ナオトはすぐに報告する。
「いかん! ソナーより発令所! 目標の針路に変化あり。クレイジーターンです」
『機関停止! 無音航行!』
艦のスクリューが止まり、急激にスピードが落ちていく。
クレイジーターン。突然、目標の艦が急速に回頭。ソナーの死角である背後に艦首を向け、追跡してくる艦の有無を確認する危険な行為である。ヘタをすれば艦同士が接触する恐れもあり、まさに狂気の回頭だ。こうなると追跡中の艦はすべての音を殺し、死んだフリをしてやりすごさなければならない。
『発令所よりソナー。状況を』
声を押し殺した艦長の声が、自身が置かれている重要性と危険性を物語っていた。
「C9は速力二○ノットで面舵。現在方位〇―一―五。距離三〇〇〇。深度そのまま。このままぐるりと本艦の背後を回るルートをとっています」
『了解。監視を続行せよ』
「了解」
班長が報告と指示をしている間、ナオトは嫌な汗をぬぐい、ちらっと同僚を見た。すべてがはじめての彼だがやはり軍人。顔面蒼白になりながらも、やるべきことはやっていた。日頃の猛訓練の結果だろう。
「ソナーより発令所。C9速力、距離は変わらず。方位〇―八―七」
このまま、予想されたとおりの針路をとってくれればいいのだが……。艦内の誰もがそう願っていた。
しかし、その願いは水中に伝わることはなかった。その代わりにナオトの耳に返ってきたのは水が激しく動く音だ。これにはさすがの彼も血の気が引くのを感じた。
「班長! 魚雷発射管に注水音!」
「ソナーより発令所。C9で発射管に注水音を確認」
その瞬間、艦体がぶるっと震えた。速力が上がるのを身体で感じる。今頃発令所では魚雷回避のための手順を準備しているだろう。
「班長、魚雷発射管の外扉を開く音を確認。数二」
班長はナオトの報告をそのまま発令所に届ける。
魚雷発射管の外扉が開くということは、いつでも魚雷を発射できる状態であるということだ。
「こ、これどうなるんだ!」
同僚は半場パニック状態で叫んだ。今にも泣き出しそうな表情である。
「セオリーどおりなら、アクティブソナー、ピンガーがくるよ」
ナオトが言い終わらないうちに、艦内に金属が震えるにぶく高い音が響き渡った。
「きたっ!」
青年の目つきが変わった。
目標の艦の最終位置を割り出し、攻撃に移るための死神の音ピンガー。それがこの潜水艦に対して死神の鎌を振り上げた合図だ。
「ソナーより発令所! ピンガー打たれました。敵艦の正確な位置判明。方位〇―八―七。距離二五〇〇。速力二一ノット。深度そのまま。艦首こちらに向いています」
班長の報告と同時に、艦は激しく動いた。目標との距離がどんどん離れていく。
それを逃がさまいと、敵艦から二匹の猟犬が放たれた。
「ソナーより発令所。突発音! C9から二発の魚雷です。方位〇―八―六。距離二五〇〇。速力五○ノットなお増速中」
こちらの出す音を頼りに、二匹の猟犬は駆ける。あらゆる鋼板を引きちぎる牙を見せびらかせ、艦内の緊張は爆発的に増加した。
『発令所よりソナー。魚雷との距離を二○ごとに報告せよ』
「了解」
班長は返事をすると、刻々と変化する数値を読み上げる。さらに魚雷からピンピンと鳴る探信音が、まるで死へのカウントダウンに思えてきた。
「やばいやばいやばい……」
同僚は何度も同じ言葉を繰り返す。そう言いながらも、手だけはしっかりと動いていた。
「距離一〇〇〇。九八〇……九六〇……九四〇……」
魚雷との距離二〇〇のところで、自艦から二つの物体が時間差をつけ、暗い海中へ放たれた。それぞれが、自艦のスクリュー音を鳴らすノイズメーカーと、魚雷が近くに通過するとその磁気に反応して起爆。魚雷を誘爆させる磁気反応型炸裂弾。カウンターメジャーであることをすぐに理解した。これで二匹の狂犬を混乱、無力化させることができる。
同時にこちらのスクリュー音が消え、大きく左へ舵を切った。
『エンジン停止! 無音航行! 衝突に備え!』
艦長の放送で乗員は手身近な物に掴まる。衝突警報を示すランプとブザーが艦内を覆い、全乗員に不安と恐怖が襲い掛かる。ナオトも同僚もヘッドフォンを外す。爆発による音で鼓膜を破られるのを防ぐ措置だ。
艦から出る音をすべてカット。これによって狂犬たちの意識をノイズメーカーに向かわせることができるはずだ。それが外れてもカウンターメジャーもある。
かくして、こちらの思惑通り狂犬たちはあらぬ方向へ針路を変え、自艦とは別方向へ走り去っていく。
魚雷独特の甲高いスクリュー音と探信音が艦内にいても、遠ざかっていくのがわかる。
ナオトはすぐにヘッドフォンを装着。外の様子をうかがう。
「魚雷の回避に成功! 現在敵艦との距離三〇〇〇。なお開いています」
班長が発令所へ報告すると、艦がさらに傾き急速回頭する。敵艦への反撃をするつもりだろう。その証拠に魚雷発射管室から魚雷が装填される音が届く。
『発令所よりソナー。ピンガー打て』
「了解。ピンガー打ちます」
班長はピンガーの発信ボタンを押す。敵艦に向けて反撃の慟哭を上げた。次はこちらの番である。
しかし、
「反応ありません」
存在しているはずの敵艦から音波は返ってこなかった。
「すぐに機器のチェックだ。急げ」
二人は素早く機器のチェックを行う。
「異常ありません」
「こちらも、問題ありません」
班長からの指示でチェックするも、どこにも異常はない。
「……ソナーより発令所。敵艦感知不能。消えました」
『そんな馬鹿なことがあるか。機器の異常は? 変温層の下か?』
「ありません。正常に作動中。この海域の変温層は二〇〇メートル以下。ありえなくもないですが、もう一度打ちますか?」
『……いや、無音潜行。潜行角五度』
艦長の指示により、機関を停止。無音で潜行する。これで速度は出せないが、自ら音を出すこともなく、敵艦から発する不用意な音を探知しやすくする。
しかし、一二時間以上経過しても目標は発見できなかった。発令所から帰還命令が下された。
そして、母港に戻った彼らを待っていたのは、暖かい歓迎ではなく、冷たい軍法会議であった。まったく身に覚えのない罪状で訴えられ、
ナオトは五年間の軍人生活を強制終了させられたのだ。