プロローグ
プロローグ
『急募! 優秀なソナーマン求む!
――民間警備会社〈アマテラスアーサー〉』
その広告に一人の青年の目が釘付けとなる。
黒いザンバラ髪。良く言えば優しい顔立ち、悪く言えば冴えない顔立ちである青年は、人よりも少し身長が低いことを気にしている。彼アラナミ・ナオト。今、住所不定無職の浮浪者であった。
皇国海軍をクビになって数ヶ月。ついに昨日、貯金を使い果たし無一文。家賃も払えず追い出され、路頭に迷うはめになった。
明日からどう暮らすべきか。と困っていた時、この掲示板と運命の出会いを果たしのだ。
ここは大和皇国でも一、二を争う大きな海運都市ヨコスカの一区画である。中小零細の海運業や民間警備会社、武器商人、防衛産業、造船会社も軒を連ねており、非常に活気に満ちていた。食べ物やみやげ物等の露天も多数出ており、空っぽになった胃袋でデモが起こりそうな匂いが周囲を支配していた。
腹減った……。
昼下がりの港街は午前の仕事を終え、午後に向けてエネルギーを補給するため、食べ物屋はみな満員御礼であった。
一昨日の夕食から何も食べておらず、さらにほぼ無一文状態であるナオトにとって、ここは仙人になるための修行の場でしか思えなかった。
食欲が暴動を起こすのを押さえ込みつつ、意識は保ってはいるが、強制的に侵入してくる匂いはどうしようもなく、ごく自然な現象として涎が口の中で大量生産されていく。
しかし、最後の最後でこの職業に出会えるのは、縁というべきなのかな。それも腐っている方に……。
ナオトは長いため息をつく。
なるべくなら、ソナーマンの仕事は避けたかった。軍人時代に受けたあまりに理不尽な軍法会議が軽くトラウマになっているのだ。しかし、追い出される原因となった音の正体を知りたい。という思いも心の中にしつこく居座り、そのためにもその手の仕事につきたい。そして、食わねば住まねばという裂けられない現実もある。
じっと広告を見ながら、食欲と現実の連合国と、他職につきたい理想との戦争を心で繰り広げていると……。
「もし、そこの人。わたくしどもの会社の広告に興味があるのですか?」
声のした方向を振り返ると、目の前に飛び込んできたのは、大きな胸の谷間であった。慌てて視線を上げると、微笑みを浮かべた柔和な表情の女性が立っていた。艶かしい目線。泣きぼくろは扇情的に思える。腰まで届く長い黒髪。そして、なによりそのナイスボインである。思わず見とれてしまい、言葉を忘れてしまったナオトに彼女は、
「あなた、ソナーマン急募の広告を見ておられましたよね」
確認のため、彼が見ていた広告を指差した。
「あっ、はい。そうです」
慌てて答えるナオトに、彼女は優しく微笑みを浮かべた。
「興味があるのですか?」
「え、ええ。まあ……」
「一度、わたくしどもの会社にこられますか? 詳しい説明をいたしますよ」
「は、はあ。しかし……」
どうやら、彼女はこの会社の関係者らしい。ナオトがしばし迷っていると、
「おい姉ちゃん。そんなチビなんかより、俺たちと一緒に遊ばないか?」
あまり関わりたくないようなタイプの、野太い声が耳に入ってきた。振り向くとガラの悪い男が三人。下心をまったく隠そうとしない、ニヤついた顔で近づいてきた。
目的は聞かなくても容易に想像はつく。
しかし、声をかけられた黒髪の彼女は、絶対零度のような目線を向けると、すぐにこちらに向きなおした。その頃には再び、春の暖かさのある目線に戻っていた。まるで空耳だったかのような態度である。
「どうでしょう。もちろん、よければそのまま面接もできますよ」
「そ、そうですね……」
彼女は最初と変わらない表情だったが、ナオトは気が気でなかった。まったく相手にされていないことに、三人の顔色は見る見るうちに変わっていく。
「おいおい。姉ちゃん。無視するなよ」
「そうだぜ。こんな小さい野郎より背が高い俺達のほうがいいだろ?」
「絶対、楽しくしてやるよ。もちろん酒を呑みながらな」
「無理にとは言いません。ですがわたくしどもの会社は今、人材不足なのです」
彼女にとって、男達の言葉はそこらの電柱程度しか思っていないようで、まったく意にかえさず話を続けた。
「な、なら話だけでも……」
「よかったです。ならさっそく案内してさしあげます」
胸が高鳴る満面の笑顔で近寄ってきた。息がかかりそうな距離にナオトは自分の顔が赤くなるのを感じた。
「ええい! 無視するな。この女!」
男達の中の一人が、ドスのきいた声でほえた。そして、彼女の肩をつかもうと腕を伸ばしてきた。
パチィィン……。
望まない誘いを完全拒否する、乾いた心地よい響きが周囲に伝わる。
「その汚らわしい物で、触れないでくれます? この下衆野朗」
「なっ」
ナオトも含めた男四人全員が、目を丸くして絶句した。まさか穏やかそうな彼女が、こんな暴言を撒き散らすとは思ってもいなかったのだ。しかも笑顔で……。
「どうしたのですか。ただでさえ残念で手の施しようがないお顔が、より醜悪な顔になっておりますよ」
「んなっ、この……」
言われた男は、次の言葉が出ず口をパクパクするのが精一杯であった。他の二人も同様で、彼女の豹変振りにショックから立ち直れていないようだ。
「なにを金魚のような口をしているのですか。酸素が足りないのですか。聞いているのですか。悪いのは耳ですか。頭ですか?」
「こ、このクソ女が……」
「わたくしはそのような名前ではありません。教えるつもりもありません。モブキャラさん。あなた方は早く自覚すべきですよ。この世に生まれてきたことが失敗だったと。うふふ」
「こいつ、もう許さん。絶対に許さん!」
「誰もあなたに許しをこうてはおりません。ただ強いてあげるなら、あなた方より高貴に生まれて申し訳ございません。ですかね」
「この女!」
事態がどんどん悪い方向へ全力全開に走っていく。ナオトは事の成り行きをただ見ていることしかできなかった。とてもじゃないが、中に割って入ることなどできない。
周囲には少しずつ野次馬が集まってきた。かなり注目されているが、数多い目線の中で少なくない割合が、生暖かい目ではなく、気の毒な目を向けていた。男三人の方を……。
その間にも、彼女の一方的で心をえぐるような精神攻撃が、ついに反撃する手段もなくなり、中にはうっすら涙を浮かべていた。
こうなってくると、逆に男三人組の方が哀れに見えてきた。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
ついに男達は口では勝つことができず、暴力に訴えることにしたようだ。
おまけにこのままでは立つ瀬もないとばかりに、一人の男がポケットの中に手をつっこんだ。そこから微かに発せられた金属音に、ナオトは反射的にその男の腕を力強く握った。
「そんな二二口径の銃を出したら、本当に後に引けなくなるでしょ」
「なっ」
腕を握られた男はぎょっとなった。本人でさえ聞き取りづらかったうえ、銃の種類まで言い当てられれば驚くのも無理はない。
「こ、こいつ……」
それでも無理矢理ポケットから得物を出そうとするが、ナオトがそれを必死に止めようと力を加える。
「周りを見てよ。君達は目立ちすぎてる。それにケーサツも近づいているみたいだよ」
「なに? どこにいる……」
その時、甲高いサイレンが聞こえた。人だかりが徐々に解散していく。
「……くそ、帰るぞ」
三人の男達は二人を睨みつけると、人ごみの中に消えていった。
「ふう……」
緊張の糸が切れたナオトは、その場にへたりこんだ。ソナーマンとして文字通り、命を掛けた実戦は経験しているが、格闘戦は素人に毛が生えたような実力なので、こういうのには慣れていなかった。
「あなたはすごいですね。その耳のよさ勇気。ますますわたくしどもの社に迎えたいですわ。ぜひ入社してください」
「い、いや。その……」
まだ迷いはあった。避けられるなら避けたいが、彼女の笑顔を見ているととても断れそうになかった。なにしろ目が笑っていないのだ。おまけに彼女の手がゆっくりと肩に置かれた。傍目から見ればうらやましがられるだろうが、その手は決して離さないという力がこめられていた。
「ぜひお願いします」
もはや、今のナオトに選択肢はなかった。仕事がない。お金がない。腹も減っている。こうして広告先の社員と出会ったのも何かの縁ではないだろうか。そう思えてならなかった。背に腹はかえられず、食べるためと好奇心のためだと自分で納得することにした。
「わかりました。雇ってもらえるのでしたら、ぜひお願いします」
「よかったです。絶対に後悔はさせません。あっ、もちろん入社テストもあるのですが、あなたのような耳の持ち主なら大丈夫でしょう」
ほっとした表情になった彼女は手を差し伸べた。それをつかむと、ひょいっとナオトを立ち上がらせてしまった。見た目とは裏腹に意外と力があるらしい。
「ではご案内いたします」
二人は野次馬の輪をかきわけ歩き出した。
まさかもう一度、ソナーマンの仕事が出来る可能性が生まれるとは……。
ナオトは軍をクビになった原因。今から数ヶ月前のことを思い出す。すべてはアレを発見したことが、すべての始まりであった。