アニーの世界
アニーが少し後ずさると、見えない透明の壁が、自分の尻尾の辺りに触れるのを感じた。そう。この透明な壁。敷き詰められたふわふわの木屑のようなもの。身体がちょうどすっぽり納まるくらいの器に入った水。そしてミユキが与えてくれる、細切れのネズミの死骸。
それらがアニーの世界の全てだったので、目の前に現れたエメラルドグリーンの生き物が一体何なのか、彼女には理解することが出来なかったのである。湿った皮膚は神々しいまでの緑色を放っている。また、際立って大きい目玉の黒色の光沢も、愛嬌があるようでいて一種不気味でもある。そして何より、生臭い。
「あはは、こいつ蛇のくせに蛙にビビってる」
透明の壁の向こうで、その緑色の物体をアニーの水槽に入れた人間が笑っている。浅黒い肌に短い金髪。上半身裸のまま少し屈み込みながら水槽を覗きこんでいるので、首にかかった金のネックレスの先端に象られた鷹がゆらゆら揺れている。アニーはその動きに少し警戒心を覚える。
「ちょっと、アニーびっくりしちゃったじゃない。だから蛙なんて食べないって言ったでしょ!」
男の後ろからそう声を掛けるのは、ミユキである。ミユキは腕組みをするような形で、布団のシーツを羽織っている。被ったシーツが却って、張りのある二つの乳房を、陰に隠れた性器を強調する形となっている。
「この子、私があげるマウスしか食べないんだから」そう言うミユキの口調は少し誇らしげである。
「だけどミウちゃんさー、こいつだって少しは野生に慣れたほうがいいんじゃねーの?」そう言いながら振り返った男は、ミユキの身体を改めて見渡すと、小さく息を呑んだ。そして無言のまま彼女を布団に押し倒した。
ミユキ達の交尾を背景に、アニーの警戒は続いていた。何か、自分の感じた事の無い感覚が自分の中に芽生えてきているのが分かったのである。大きさでは自分の方が10倍もある。考えるまでもなく、闘えば自分が勝つだろう。なのに、この焼けるような焦燥感は何だろう――アニーが考えていると、目の前の蛙が口を開いた。
「こんな綺麗な蛇に食べられるなら、まぁ満足かな」
「食べる?私が、あなたを?」アニーは驚き聞き返す。
「食べないの?どうも、人間の中では蛇には蛙、と決まっているらしいけど」
「カエル?あなた、カエルって言うの?」
「蛙を知らないんだ?そんな蛇がいるんだ」蛙は少し笑う。
「そんなこと言ったって、私はずっとここで暮らしてるんだから、しょうがないじゃない」アニーは少し恥ずかしくなり、少し怒気を込めて言った。
「ごめんごめん。でも、本当に珍しいね。その白い鱗も珍しいけど……」
「これって珍しいの?私は本当に何も知らないから……」今度は元気なくそう言った。
「珍しいよ。少なくとも、僕が育ってきた山ではそんな色の蛇は居なかったよ。蛙の僕が言うのもなんだけど、その、凄く綺麗だと思うよ」
「きれい?きれい、ってどんな事?」
「そこから説明しなきゃならないんだ?えーっと、気に入っている、好き、って事かな。」
「あ、そういう事。ありがとう。私もあなたの緑色、「きれい」だと思う」
男とミユキの息遣いが聞こえる中、アニーと蛙は、並んで水槽のアクリルに自分たちの姿を映してみた。真っ白なアニーの赤い瞳と、緑の蛙の黒い瞳がうっすらと透明な壁に映る。
少し間を置いて、蛙が口を開いた。
「僕の事、食べてみる?」
「食べたらあなた死んじゃうんでしょ?」
「うん、死んじゃう」
「なら食べない」
「僕は、死んでもいいと思ってるんだよ。あの男に掴まった時から、ああ、僕はきっとすぐ死ぬんだな、と思ってたんだ。どうやって死ぬのかな、痛いのは嫌だな、怖いのは嫌だな、って思ってた。そしたらここに連れて来られたんだ」そして蛙は少し間を開けて、恥ずかしそうに続けた。
「僕、蛙だけど、蛇にずっと憧れてたんだ。蛙の身体はずんぐりしてるでしょ?僕、どうもそれが好きじゃなくてさ。蛇はその点良いよね、すっとしてて。次生まれ変わるなら、蛇が良いなって思ってた。それが、蛇の餌にされるって聞いて、怖いけど、少しドキドキした」
アニーは黙って蛙の告白に耳を傾けていた。
「君みたいな綺麗で、世間知らずのお嬢様に食べてもらえるんならなおさらだよ」少し照れくさそうに、蛙は付け足した。
アニーはそこまで聞くと、徐に蛙を頭から飲み込んだ。そして10秒ほどして吐き出した。吐き出され、木屑の海に放り出された蛙は足を痙攣させている。
「だめよ、あなた、生臭いわ」アニーは笑いながら言った。
「君の中だって」蛙は息絶え絶えに言った。「中々の臭いだったよ」
それからアニーの世界は2匹の世界になった。アニーにとって、食べて寝て排泄する以外の日常が形作られたのである。
蛙を食べない事が分かっても、ミユキは蛙をそのままにしてくれた。それどころか、アニー用のマウスの死骸に加え、蛙用の飛べないショウジョウバエまで用意してくれるようになったのである。
蛙には、ルーファス、という名が与えられた。そしてミユキは、毎日アニーとルーファスに一日の出来事を報告した。『美羽』という名前でしている商売の事。そこに来る乱暴な客の事。体や首の痣を見せながら、「私の味方は君たちだけだよ」というような事を言うようになっていた。アニーが知るミユキはいつも交尾していて、時には殴られたり、首を締められたり、時にはその場で排泄することを強要されたりしていたのである。
今日も男がやって来て、乱暴にミユキと交尾している。
「ねぇ、ルーファス」アニーもその名前で蛙を呼ぶようになっていた。
「今日も外のお話聞かせてよ」
「そうだね、じゃあ僕が育った池の主と競争した時の話をしようか」
「池の主?」
「鯉、っていう魚の事さ。大きくてね、君の倍以上も大きさがあってね……」
「魚、っていうのは、水の中を上手に泳ぐのよね。前教えてもらったわ。ルーファスとどっちが速いかしら?」
「そりゃ、魚の方が速いさ」
「じゃあ、ルーファスはその競争に負けたのね」
「いや、それが勝ったんだよ」ルーファスは誇らしげに言った。
「どうやって?」
「魚ってのはね、お腹の辺りの感覚が鈍いんだよ。だから、ゴール寸前までそこにしがみついて、ゴール直前で僕が飛び出して、僕の勝ち、って事さ。単純な力比べて勝てないなら、その位頭を使わないとね」ルーファスは自分の頭を指さし、誇らしげである。
しかし、ルーファスの武勇伝を聞きながら、アニーはくっくっと笑っていた。
「何がおかしいんだい」不審に思ったルーファスが聞くと、
「だって、一生懸命大きなお魚の腹にしがみついているあなたを思うと、おかしくって!」
「言ったな、蛙も食べられない蛇のくせに!」
「何よ!」
アニーは以前のようにルーファスを一飲みにすると、ぺっと吐き出した。そして2匹、顔を見合わせて笑うのである。
「君、外に出てみたくはならないの?」
「私、怖いし、ここの生活が気に入っているから出たくはないわ」
「そう。僕も、ここの生活は好きだよ」
ルーファスはたまにアニーにそんな問いかけをするが、いつも答えは決まっていた。
そんな何も変わらない日常の中、アニーは自分の変化に気付き始めた。ルーファスを初めて見た時に感じた焼けるような焦燥感が、ほんの少しづつではあるが、確実に育っている事に気付いた。
食べてしまいたい。
明確にそう感じるようになったのである。
ミユキがいつものように男との乱暴な交尾を終え、部屋を出た際に、アニーは話を切り出した。
「ねぇルーファス」
「どうしたの?」
「いつも色々話してくれてありがとう。ルーファスと話すの、私大好きよ」
「僕もアニーと出会えてうれしいよ」
「でも、もう駄目かも知れない」
「どうして?」
「私ね、あなたを食べたくなっちゃった」
「そりゃまた急だね。……どうしたの?」
「私にも分からない。でも、あなたを見ているとそう思う気持ちを抑えられないの」
「そっか。……でもそれならそれで、僕は良いけど。最初から覚悟してたことだからね。……そっか、君ももう立派な蛇なんだね」
蛇。ルーファスが放った言葉が、アニーにのしかかった。2匹は暫くの間黙っていた。
突如、視界が揺れた。最初はゆっくりだったのが、直ぐに大きく、激しくなった。
「地震だ!」ルーファスが言うが早いか、激しい衝撃と共に世界が90度傾いた。水槽が落下したのである。
「ルーファス、大丈夫?」
「ああ、一応大丈夫かな……。でも、何か様子がおかしい気がする」
ルーファスはその鋭敏な皮膚感覚で、一早く部屋に煙が立ち始めている事に気付いた。男が吸っていた吸殻が何かに引火したようである。火と煙は見る見る大きくなる。
2匹は外への出口を探した。煙の中、皮膚の乾きに弱いルーファスは特に苦しそうにしていた。そして、キッチンの換気扇までたどり着いた時には、既に衰弱していた。
「君、頼みがあるんだが」
ルーファスが弱々しく口を開く。
「何?」
「僕が死ぬ前に、僕を食べてくれないか」
アニーは答えなかった。
「僕が死んだ後でも構わないんだけど、何か、生きてるうちにそうして欲しい、って思って」
アニーはやはり無言のまま、ルーファスを飲み込んだ。
アニーは換気扇のダクトを急いだ。喉にはルーファスの骨格の感覚を生々しく感じる。
ああ、このまま飲み干してしまいたい。ルーファスもそう望んでいるのだし、何も遠慮する必要はない筈だと、頭ではそう理解していた。しかし、その考えに至りそうになる自分を、喉の生々しい感覚が遮っていた。アニーはこの問いから逃れるように、只管に出口を目指した。
外は雨だった。アニーは、水溜りにルーファスを吐き出した。
「ルーファス、外に出られたよ!」
ルーファスは動かなかった。しかし、幽かに息をしているようだった。
アニーは心から安堵を覚えた。今度はじっくりとルーファスの姿を見つめ、匂いを嗅いだ。生臭い。そして意を決したように、ルーファスをまた飲み込むと、路地裏の側溝へと消えていった。