ピアノの香り
私の初めての短編です。
深夜の病棟の奥で、御堂琢磨は、ふと誰かの視線を感じた。
琢磨は後方を見回した。
(……気のせいか?)
自動販売機のブレンドコーヒーの選択ボタンを押した。
廊下の非常灯の柔らかな光と自動販売機の薄暗い光が交錯する中、金属フレームの眼鏡をかけた琢磨が
『フーッ』とため息を漏らした。
(それにしても、なんという運命なんだ!)
琢磨は、心の中で嘆いた。
今日の夕方、最愛の一人娘、亜希の命が、ここ一週間が山場だと担当医から告げられた。
持病の心臓病の他に、すい臓癌が全身に転移して手の施しようがないということだった。
亜希は、15歳の時に本格的に従姉妹のピアノ教師(民子)についてピアノを習うことになった。
亜希ちゃんをピアノコンクールに出場させて、絶対優勝させるわ。
そして次は世界コンクールに出場ね。
亜希は19歳の時に、初めてのコンクールの一週間前に突然倒れた。
『コンクールは次回狙うから……』と気丈夫に応えていた。
コンクールの前日ベッドの中で亜希が嗚咽を漏らしていたのを琢磨は知っていた。
『ブーンブーン』と自動販売機の機械音だけが静寂の中響く。
琢磨は、冷えきった身体に、ブレンドコーヒーを流し込みながら
「明日は12月25日か」
誰とはなしに低い声で呟く。
──それにしても、琢磨は今日の夕方、亜希の言った言葉が刺のように胸に刺さった。
『ゴメンね……また、約束を守れそうになくて……』
夕方、亜希の病室に入った時、亜希は薄いブルーのパジャマを着て、ベッドに横たわっていた。
小柄で可愛いらしい顔立ちをした亜希は両親のどちらにも似ていない。
人の気配を感じたのかゆっくりと目を開ける。
繊細な指先を胸の上で走らせ寂しそうに笑った。
『ガーン』
琢磨は、右拳で自動販売機を叩いた。
『何故……俺から大事な人を二人も奪うんだ……』
悲痛な顔で、琢磨はむなしく天を仰いだ。
病室で娘の亜希と目が合った時、心臓が早鐘のように打ち出し軽い眩暈を覚えた。
琢磨は26年前に他界した恋人の亜希が横たわっているような感じがした。
付き合って半年後、心臓病で入院中の亜希に会いに行った。
亜希はやはり胸の上で指先を動かしていた。
二人の亜希の姿が、オーバーラップした時に、突然『ポロン♪ポン♪ポーン♪』
ラフマニノフのピアノ協奏曲が頭の中で鳴り響いた。
ピアノ協奏曲のメロディーに乗せて26年前の光景が冷たい感触とともに、まるで昨日の出来事のように蘇った。
イルミネーションに彩られた青山公園の木々、そして高くそびえ立つ純白の時計台。
所々、昨日の名残り雪が残っている。
去年は、明美と夜8時に明美の好きな時計台の下で待ち合わせた。
今年もその時計台の下で待ち合わをした。
近くの旨いと評判の北京ダックの店で、琢磨の20歳の誕生日を祝う予定だった。
明美がクリスマスの一週間前に琢磨に告げた。
「ごめんかさい。私が一方的に悪いの。
琢磨の25日の誕生日は祝ってあげられないわ」
明美の告白を聞いた時、何故かホッとしたような寂しさが入り混じった奇妙な感覚に琢磨は陥った。
イルミネーションに彩られた時計台の針は8時5分を指している。
(来るはずのない人を待ってどうする……
8時30分になったら帰ろう)
琢磨は、心の中で呟いた。
琢磨は、時計台の針を見上げた。
(そろそろ退散するか)
自嘲気味に心の中で呟きながら明美に貰ったブルーのマフラーに手を掛けた。
突然、左側面から視線を感じて首を横に向ける。
髪の長い少女と視線が合った。
その少女は細面の目鼻立ちのはっきりした美貌の持ち主であった。
睫毛が長く愁いを含んだ瞳が、不思議な透明感のある表情を醸し出していた。
そしてにっこり微笑みながら会釈された。
琢磨は慌てふためいて会釈をした。
その少女の髪は風に乗ってシャンプーのような良い香りがした。
これが最初の亜希との出会いであった。
琢磨は会釈を交わした後、その少女の顔を見て赤面した。
(俺に会釈する訳ないな。もしかして誰かと勘違いしているのだろう)
そう心の中で呟きなから鼓動か激しく波打つのを感じた。
琢磨は、緊張のあまり金縛りのようになった。
琢磨は誰かいないか首を右に、ゆっくりと回した。
だが彼女の待ち合わせの人は見当たらない。
どのくらいの時間が経過したのだろうか。
琢磨は腕時計に視線を移した。
ほんの二、三分しか経過してないのに数十分以上経過したみたいに感じられた。
琢磨は、もう一度その少女の顔を見たいという衝動に駆られて横を向いた。
『ウフッ』
また微笑みかけられた。
琢磨は、勇気を振り絞って声をかけた。
「あのぅ……」
「なんでしょうか?」
少女は警戒しながら応えた。
「あのー……じ、実は……」
琢磨は星の光を映しているような少女の黒い瞳に見つめられた。
琢磨は胸が震えてしどろもどろになってしまった。
『ウフッ……』
少女は、微笑みながら琢磨に
「ハントですか?」
と、そう言った。
「いゃ……違います」
琢磨は、手を目の前で左右に振りながら弁解をした。
「ご……ごめんなさい」
琢磨が、慌てふためきながら少女に謝った。
「ウフッ……面白い人ね……」
少女が琢磨に一礼して立ち去った。
琢磨は、茫然として佇んでいたが突然小走りに少女を追いかけた。
琢磨は彼女の言葉に魅せられて気がつくと彼女を追いかけていた。
彼女が立ち去って行く後ろ姿を見ていたら、突然、胸が締め付けられるような寂しさに襲われた。
琢磨はまるで最愛の人が何処かに連れさられて行くような奇妙な幻想に捕われた。
「ち……ちょっと待ってください!」
琢磨は後ろから慌てて声をかけた。
「やっぱりハントです……」
琢磨は息を切らしながらそう言った。
『ウフッ』
少女は琢磨を凝視しながら微笑んだ。
「あなたは悪い人ではなさそうだし……いいわ。でも、どうして?」
少女が微笑みながら首を傾げた。
「どうしてと云われても……自分でもよく解らない?」
琢磨は頭を掻きながら照れたような口調でそう言った。
亜希との煌めく思い出は半年だった。
クリスマスイブ
雪の日
4月
5月
亜希と関わりを持った季節や 思い出が多すぎて時が流れても、亜希を忘れる事が出来なかった。
私は心の平穏を取り戻す為に、親の薦める見合いをして結婚した。
娘も生まれていつしか亜希との思い出も忘却の彼方に消えた。
しかし何故?
今頃になって封印した思い出が冷たい感触と共に甦ったのか?
御堂琢磨の初恋は高校3年の時だった。
琢磨は、いつものように屋上で昼飯を食べていた。
すると後ろから突然声をかけられた。
「ねえ。君。横に座っていいかな?」
「えっ……」
御堂琢磨は後ろを振り返った。
『ポロン♪ポーン』
啄磨は、ハッと我に返った。
病室から、ピアノの音が微かに聞こえた。
急いで亜希の病室に戻った。
亜希の病室から流れてきた曲は、ラフマニノフのピアノ協奏曲だった。
扉を開けた途端にピアノの音が消失した。
『……えっ』
啄磨は、目をパチクリしながら、亜希を凝視した。
「……どうしたの?」
亜希は不思議そうな顔を隠しもせずにそう言った。
「今、ピアノ協奏曲がこの部屋から……確かに亜希が弾いていた」
『ウフッ』
「……そう、弾いていたわよ」
亜希が胸の上でしなやかに指を躍らせた。
「……うん、解った。身体に障るからもうそれぐらいにしなさい」
啄磨が亜希の頭を軽くタッチしながら呟いた。
「……うーん、大袈裟なんだからぁ」
(……どういう事だ。亜希の口癖を娘が?……)
『ポロロン♪』
亜希が再び胸の上でしなやかに指を躍らせた。
(亜希!……似ている。 そんな馬鹿な?)
琢磨は軽い目眩を覚えた。
完
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