災厄を招くモノ
住み慣れた自室の寝台の上に、もう何の気力も起きない身体を無防備に預ける。
今まで使ったことのないモノを使えば疲れてしまうのも無理はない。けど、原因はそれだけではない。胸に疼く感情。これが一番厄介な代物であるに違いなかった。
「――そうか。すまない。ありがとう」
外で父の声がした。と一緒に、声の質からして近所のおじさんとみられる人物の声も。
「辛いだろうが、そう気を落とすな。彼女だって立派な応龍なんだ。簡単にへばってしまうような奴ではないのは、お前さんがよく知っているだろう」
「……ああ」
会話が止んだかと思えば、玄関の戸が軋む音がした。衿泉が家の中へと戻ってきたのだ。
そっけない会話だったが、あれだけでも十分察しはついた。
この村に黎琳の姿はない。そして、その理由は逃げ出したなどではなく、助けるに助けに来れなかったから。つまりは。
「「攫われた、ということか……」」
親子同時に呟く。
「!燐燐……」
すぐ背後で父の声がし、ようやく彼が同じ呟きを吐きながら自分の部屋に入ってきたことに気付いた。
上体を起こし、父を見据えると、今までに見たことのない悲痛な表情を浮かべていた。
「母さんが攫われるなんて……考えてみたこともなかった」
「確かにあいつが黙って攫われるなんてまず想像できないからな」
一緒に旅した時の事を思い出す。いつだって彼女は絶対的で、圧倒的な力を見せつけて。でも心の内は案外幼く、脆くて。使命の重圧に押しつぶされそうになったり、その力故に何かと自由が利かなかったり。でもそんな彼女だからこそ、傍に居たくて、出来るだけ守ってやりたかった。だから一番隣に居られるようにと、この生活を選んだのだ。
なのに、この両手はいとも簡単にするりと黎琳をかっさらわれてしまった。この村での安泰な暮らしに甘んじていた、と言われればぐうの音も出ないだろう。
「……それにしても、あいつをこうも簡単に連れ去った奴等の正体が気になる」
「そうよね、母様が一介の術師や妖魔なんかに屈する事なんてないものね」
随分前に燐燐が出くわした一匹の妖魔。最初は友好的だったが、燐燐が応龍の娘だと知った途端に襲いかかってきた。心が通じ合っていたと思っていた相手を、黎琳は自分の目の前で命の終焉を叩きつけた。どうしてそんな酷い事をするの、と言いたかったが、絶対的な彼女の威厳を放つ雰囲気に黙らざるを得なかった。
後からあの妖魔はあどけない子供を餌にしていた相当性質の悪い妖魔だと知ったのだが、その妖魔がこうもあっさり母親の手で倒された事を思うと、どうも危険性を感じなかった覚えがある。きっと母が居れば安全だ、彼女は応龍で、絶対的な強さを誇る正義の守護者なのだから、などと思うようになったからだろう。
「母さんの居場所が分かれば、すぐにでも助けに行くのに……」
「それは危険だ」
きっぱりと衿泉は言った。
「相手は黎琳をも手玉に収めた、相当の力の持ち主だ。そんなのを相手にお前がかなうはずもないだろう」
あっさりとした言われように、思わず燐燐はむっとした。
ほんのさっき応龍の力に目覚めたとは言え、それまでにそんな力がなくとも世を渡り歩いていけるような力はもう十二分につけたと思っている。
燐燐は反論を唱える代わりに、先ほどは慌てていて持ち出すのを忘れていた自身の剣を、鞘ごと胸に握りしめた。厳しい父の教えを共に受けてきた愛用品である。もう何年も使っているが、母の力が込められているので、刀身は今だ月光のごとき輝きを維持している。
今こそこの力も実用性があるというものだ。
「それが、お前の答えか」
意図を察して、衿泉がため息交じりに言う。ゆっくり頷くと、それ以上とやかく言うこともなく、部屋を出て行ってしまった。
「言い出したら聞かないのも、母親譲りだったな……」
そう自嘲気味な呟きを残して。
父が去った後、燐燐は全てを寝台へ投げ打った。気力もほとんど残されていなかった身体を反射的に起こしたのがとどめを刺したといったところで、あっという間に燐燐はまどろみの中へと落ちて行く。
「母さん……」
母を呼んでみたら、案外すぐ近くに居てやって来るのではないかと一瞬期待したが、やはり黎琳は応じない。分かりきっているはずなのに、虚しさがより一層込み上げてくる。
涙が一粒、零れ落ちた。その滴が枕へと染みる前に意識は闇の中へと吸い込まれていったのであった。
夜明けを告げる鳥の囁きが耳に届く。
いつもならここからようやく村人が目を覚まし、あくせくと朝の支度を始める頃だ。しかしいつもなら聞こえる人々の囁きが今朝は聞こえない。
朝食の準備をしようとも、家畜は昨日の火事で燃え死んでいる。牛の乳も豚の肉もまかなう手段はない。耕地で栽培した作物も、家が燃えてしまった者にあるはずもない。
この静けさは、間違いなく嵐の前の静けさと言えるだろう。
これから始まる、生き残りをかけた戦いへの――。
「もうそろそろか……」
夜を誰も居ない居間で過ごした衿泉は、万全とは言えない身体を起こした。普段は隅の隅に、容易には出を出せない、けれどもいざ必要な時にすぐ出せるようにしまってある自身の双剣を手にする。
本当はこんな日が来ないことを望んでいた。彼女が作った新たな世界が、脆くも崩れ去る瞬間など、見たくもなかったのに。
それでも、こうして戦わなければ守れないのであれば。
意を決して静かに、ゆっくりと自宅の扉を開ける。
真っ先に目に入ったのは眩い太陽の光。そして、昨日の火事で燃え尽きた建屋の多くが露となっていた。昨日は気が動転して気が付かなったのか、有機物の焼ける異臭がやけに鼻をついた。
真っ黒に焼けた家の基盤の中に転がる複数の骨。飼っていた動物なのか、人の子供なのかさえもう分からないほど損傷は激しい。
「お前たちのせいだ……」
静寂に包まれた村の中に、ぼそりとした呟きが響き渡った。
振り返れば、光を失った目をした村人がいた。中には昨日燐燐を庇った者も混ざっていた事には驚いた。一晩中起きていたのか、その目の下には皆くっきりと隈が刻まれている。それも無理はないことだ。家族を亡くした者も居れば、生きる糧を一夜に全て失った者も居るのだ。寝ろという方が無理だ。けれども、心の均衡を崩してしまえば本当に見境がなくなってしまうのだと、我ながら人という生き物が恐ろしくも感じた。
「そもそも応龍を受け入れたのが間違いだったのだ。応龍の言葉に踊らされて、妖魔を容易く受け入れたのが!」
「そうだ!あんなのが出来るのは妖魔しかいない!妖魔が、俺たちの安息を奪ったんだ!」
村に少なからずも居ついていた妖魔も黙っていなかった。
『あたし達は何もしてないよ!』
『昨日は星空が綺麗だったから山の方に行ってたさ!』
兎によく似た容姿の妖魔と、黒い狼の姿をした妖魔が口々に反論した。しかしその反論を人々は真っ向から否定した。
「そんなの嘘に決まってる!」
「俺の女房の仇……とってやる!」
早まった男が妖魔たち目掛けて斧を振り下ろそうとする。兎の妖魔を庇うために狼の妖魔が進んで前に出る。
その僅かな合間に衿泉が割って入り、男の斧を双剣で受け止める。
「どいてくれ!お前は応龍に騙されているんだ!」
「どかない!」
男を斧もろとも弾き飛ばし、衿泉は村人を睨みつける。
「な、何さ……!あたし達が悪いみたいに!災厄を招いたのは、そっちのくせに!」
怒りと悲しみが蹂躙していく。
今にも吠えようかとした時、かたんっと自身の家から物音がした。一斉に皆がそちらへ注目する。
そこには唇をわななかせて立っている燐燐の姿があった。衿泉同様、怒りを覚えながらも悲しみの方が打ち勝っているように、瞳を揺らめかせて。
「この子は応龍の娘だ。この子も、災厄を招く!」
村人の容赦ない怒りの切っ先が向けられた瞬間だった。