白の使者
黎冥が帰ってきたのは日が明けてからのことだった。
柄にもなく駆けてくる音がしたものだから、溜謎が只事ではないとは思っていた。しかしその内容が予想外なものだったので思わず声を荒げてしまった。
「衿泉が女と一緒に居たですって!?」
素っ頓狂な声で起こされた燐燐と甜瑠が何事か、ととろんとした目で問う。それを豪快にも無視して溜謎が声を落ち着かせて話を続ける。
「それで?」
「あまりにも割って入れる雰囲気ではなかったので、そのまま帰ってきた」
「黎冥……。貴方って人は」
元々口下手で、人の輪の中に入るのが苦手な性格が災いしてしまったようだ。
「場所なら把握したから問題ない。砂漠近くの森の中だ。にしても、夜通し語り明かすなど相当仲睦まじいと言うような感じだった」
「つまり、ずっと機会を窺っていたけど結局何も出来ずに帰って来たのね。いいわ、わたくしが行くから」
このような時に脇目に逸れるなど、衿泉も巷の男どもとそう変わらぬと言うことだろうか。
とにかくしかとこの目で確かめに行く必要がある。場所は黎冥から聞いたので、天狐の姿に戻れば疾風のごとく目的地に辿り着けるだろう。
洞窟の外に出て変化しようとした時だった。
「強大な妖魔、発見」
抑揚のない声がした。
刹那、地面から無数の鎖が現れ、溜謎をがんじがらめに拘束した。
「なっ……!?」
少なくとも妖魔を束ねる天狐である溜謎はたかが一人の人間に御されるような存在ではない。だが、鎖は溜謎の力をもってしてもびくりとも震えない。
木陰からようやく姿を現した声の主は雪を連想させるような白い人物だった。
服装が白で統一されているだけでなく、後ろで編まれた髪ですら白銀で、肌も血の気がうっすらとしか感じさせない。まさに「白」という色を擬人化したような少女だった。
「悪しき妖魔は祓う。それが、我が一族のつとめ」
「待て」
落ち着いた、しかしどこか怒りや苛立ちを募らせた声音を発し、黎冥が姿を現した。
「……一度闇に堕ちた天龍」
「それは我が連れだ。離してもらおう」
「戯言を。悪の象徴である妖魔は祓う。例外はない」
淡々としたその口調に感情は一切感じられない。
話が通じない相手と認識し、黎冥が実力行使に出た。気の力で鎖を粉々に砕き、溜謎を抱きとめる。
次に少女目掛けて衝撃波を放った。衝撃波が少女を吹き飛ばし、木に激突させて気絶させる――はずだった。
しかし衝撃波は彼女に届こうかというところで見えぬ壁に阻まれて破裂した。バアンッと地も震えるような音が辺りに響き渡る。
「!これは……」
彼女は気を理解している。理解し、自在に操っている。龍同様に。
「まさか、お前は……呪術師!」
こんなにも早く燐燐の所在を突き止めてくるとは。周囲に薄い気の結界を張り、その気配は感知出来ないようにしてあったはずだが、相手は呪術師。完全に舐めてかかっていた。
「我が妹を手にかけ、今度は姪にまで!」
「そう言えば、現応龍は捕らわれているのでしたね」
自分には関係ない、他人事だと言いたげなその言い様に思わず激情が込み上げる。
「何今の音!?」
破裂音に驚いた燐燐と甜瑠が慌てて外に飛び出してきた。まさに飛んで火に入る夏の虫のごとく。
「お前達は来るな!」
咄嗟に黎冥は叫んでいた。しかしここまで姿を見せてしまえば今更制止したところでどうにもならないのは分かっていたが。
くるりと向きを変え、呪術師の少女は燐燐の元へと歩き出す。
「待て!」
攻撃を加えようとした黎冥に少女はびゅっと何かを投げつけた。それが呪符であると気付いた時には既に時遅し。展開した結界によって黎冥と溜謎はその場に封じ込められてしまった。
一介の呪術師程度の呪術なら黎冥で十分解けた。しかし強大な呪術は黎冥の破壊の気を拒み、あっさり無効化してしまう。
――まずい……この力は我ら天龍の力すら凌駕している!
そんな相手に黎琳はおろか、燐燐も歯が立つまい。
燐燐を庇うように甜瑠が前に立ち、大剣を構える。しかし敵う相手ではないと分かっているせいか、切っ先が微かに震えていた。
「――甜瑠、どいて」
「大丈夫だ、俺は……」
「ううん、その必要はないわ。この人も感じないの。私をどうこうしようっていう悪い感じがしないもの」
「「!?」」
溜謎と初めて対峙した時もそうだった。悪意はなかったとはいえ、気絶させるために手を出そうとしたにも関わらず、彼女ははっきりとその本質を見抜いていた。
一体彼女は何を見据えているのか。
「――流石は応龍の娘。応龍にはない新たな応龍として生まれた御子よ」
燐燐の目の前まで辿り着いたかと思うと少女はその場に跪いた。
突然の出来事に燐燐は頬を紅潮させ、うろたえた。
「な、何で私の前で、跪くの!?」
「何故?この危機的状況を救える新たな救世主にこれくらいの敬意を表すのは当然のこと」
「へ?救世主?まっさか!」
自分の命はおろか、下手をすれば世界すら滅ぼしかねないとつい先日宣告されたばかりだと言うのに。
「我々白牙一族は貴方様を最大限にお支えする所存。この白牙樢、貴方様をお迎えに参りました」
「迎え?」
「今の貴方様に必要な物を手渡すために我が里にて長がお待ちになっています。それは貴方様自身の未来をも切り開くための一歩となりましょう」
呪術師は顔を上げ、言葉を続けた。
「その宿命に打ち勝ち、我らに再び光を見せたまえ、応龍よ!」
「!」
燐燐は実感した。
もはやこの命は自分自身だけのものではない。この存在に希望と救いを求める人々が何人も居る。その人々の想いを踏みにじり、ましてや死の運命に呑まれるなど言語道断なのだ。
――私はもう、諦めるのを許されはしないのね!
「……分かったわ。行く、貴方の里へ」
「待て、これは罠かも知れないのだぞ?」
黎冥が苦しみに悶えながらも言った。しかし燐燐はかぶりを振った。
「私は自分を信じるわ。自分を信じて、彼女を信じる」
黎琳とよく似た強い意志の宿った輝く瞳に、黎冥も溜謎も何も言えなくなる。これ以上口を挟むのが阻まれたからだ。彼女は自らの運命を受け入れ、なお希望を捨てずに応龍としてあろうとしている。その意志を摘み取るべきではない。
落ち着きのある凛とした面持ちで燐燐は呪術師に臨んだ。
「私は貴方の言葉に応えた。今度は貴方が私の言葉に応える番よ。二人を解放して」
「……仰せのままに」
あっさり呪術師は術を解き、二人は束縛の術から解放された。二人の元に駆け寄るや否や、燐燐は二人を両腕を広げて抱きしめた。
「ありがとう。私は行きます、彼女の一族の元へ。自ら未来を切り開くために」
今かけるべき言葉はただ一つ。
「……頑張って。辛くなったら、いつでも呼ぶといいわ」
もし子供が居たらこんな温かい気持ちになれるのだろうか。
――同じように黎冥が思ってくれたのなら……
そんな思いで溜謎は言葉を紡ぎ、燐燐を送り出すのであった。




