御せぬ力
「貴方の母親・黎琳は天竜と人間の間に生まれた応龍。それはここにいる彼女の兄である黎冥もまた同じ。今こそ二人とも天竜として安定した存在となっているけど、応龍として存在していた頃その力は実に不安定だった」
感情の激化によって陰の気に呑みこまれ、黎冥は正気を失って悲劇を起こしたその経緯を聞いた燐燐は驚きを隠せなかった。人は皆黎琳を、天竜となる前から「救世主・応龍」としか捉えなかったし、黎琳も天竜と化したことの説明をしていなかったからだ。
「どうして母さんは言ってくれなかったの?」
「一番はお前が普通の少女として力に目覚めずに居てほしいという切なる願いのためだ」
つまり、応龍として目覚めることは、両親の意向に背くものであったことを意味していた。
ずっと憧れていた母と同じ力に目覚めた時、ようやく同じ立ち位置に立てるのかと喜びに満ち溢れていた。けれど、今の燐燐の胸には困惑と失望がただただ渦巻いていた。
「そんな……私はこの力に早く目覚めて、多くの人を守りたくて――」
それが世界をも震わす誤った選択を導いただなんて。
最初から力があるはずなのに行使出来なかったのが既にこの事実の伏線であったなんて、思いもしなかった。
そんな思慮浅き自分に愕然とし、片目から一滴が零れた。
「力に目覚め、挙句次期応龍として名乗りを上げた以上、もうただの応龍の娘としては生きられない。待ち受けるのは……」
一呼吸置いて、まるで苦々しいものを出すような呻きに似た口調で、黎冥は言った。
「その強大な力を付け狙われて殺されるか……、あるいは自ら力に呑みこまれて死ぬか、二つに一つだ」
いずれにせよ、そう遠くない未来に死が待っている。
まだ人の人生の半分ですら辿り着いていないこの齢で、残された時間はもう長くないと告げられるのに耐えられるはずもなく。
「そんなの、信じない!」
背を向けて逃げ去る燐燐を二人は追いかけなかった。こうなることは予測していたことであるし、元々この事実を告げるのはもっと先であったはずなのだから、今すぐ受け入れろと言っても受け入れられるはずもない。猶予はそうないといえども、時間が必要なのは明白だ。
「つらいわね、黎冥」
「我の心の痛みなど、取るに足りないだろう。本当につらいのは、あれの両親である黎琳と衿泉、そして当事者である燐燐自身だ」
「それはそうだけれども……」
ひやり、と冷たい肌に溜謎の唇が触れた。
「忘れないで、貴方の痛みはわたくしの痛み。そんなに一人で抱え込む必要はなくてよ」
「溜謎……」
「約束したでしょう。共に、過去の罪も、痛みも全て受け止めて、分け合って、生きていくって」
「……そう、だったな」
強張った表情を崩し、黎冥はうっすら微笑んだ。
二人が過ちを犯してから十年。全ては二人が生まれる前からの神と妖魔の因縁が誘発したものとしてほとんど罪を問われることはなかった。それでも二人が手にかけ、奪われた命の数は人と妖魔共にはかりしれない。表面上は赦されても、皆に刻んだ恐怖と芽生えた憎しみ、悲しみまでは免れまいと自ら浮世から隔離されたこの山の洞窟にひっそりと暮らすことを選んだ。
あの戦いからそうしないうちに黎琳からめでたい知らせを二つ受け、心から喜んだものだった。彼女達はその運命に立ち向かい、自ら望む未来を勝ち取ったのだから、これくらいの恩賞は当然だと思っていた。
しかしもうすぐ臨月のはずの黎琳が身重の体をおしてまでここに現れた時には、何か悪い予感めいたものを感じた。
『この子が……応龍の力に耐えきれずに死んでしまう』
青ざめたその顔に、黎冥も絶句せざるを得なかった。罪ある自分がそうなるのは因果応報と言うべきだろうが、本来なら天から祝福あるべき彼女がそのような仕打ちを受けるなど、何故だとしか言えなかった。
力の封印は施せても、その力そのものをなくすことは出来ない。もはやそれは子供の命の源そのもので切り離せば即死するのみだった。出来る手は尽くしたが、その先に待ち受けるモノまでは変えられなかった。
あの時ほど運命というものを恨んだことは黎冥のみならずあの場に居た皆なかったことだろう。
けれど――。
「気付くのだ、燐燐。皆一人で生きているのではない。どんな過酷な運命が待っていようとも、共にある者に――」
せめてもの救いは独りでないということ、だろうか。
「嘘よ……嘘っ!」
暗闇から一転、眩い光に包まれた外の新緑の世界へ出た燐燐はその場にうずくまった。
がたがたと震える身体が、恐怖と驚愕を露にしていた。
「私はただ、母さんと同じことをしたかっただけなのに!」
母のように人々と妖魔の安寧を願い、駆け巡る存在に。それが叶わないのはおろか、その強大すぎる力がいずれ身を滅ぼすという。
何てこの世は……この世界は残酷なのだろう。
「こんなことなら……産んでくれなければ良かったのに。生まれて、こんな運命だって知って、苦しまなければならないなら、生かされたくなんてなかった……!」
その瞬間、自身の中で何かが弾ける感覚があった。
「!?」
刹那、剣が弾き飛ばされ、体中に膨大な電気のような気が巡った。身を裂くような痛みに思わず燐燐は喉を裂くような悲鳴に似た声を上げた。
燐燐の心の葛藤を余所に青々としていた空に急に暗雲が立ち込め始める。
体中が雷に打たれているように焼かれるような状態が続き、意識が飛びそうになる。これが先程告げられた強大すぎる応龍の力の暴走だと言うのなら、ここで意識を手放せば――死ぬ。
抵抗しようとも身体中から力が抜けていく。全身を裂くような痛みは増していく。
――どのみち、私は死ぬしかないのよね……
だったらもうここですべてを捨ててしまったら、楽になれる。
何をしたって、あがいたってどうしようもないならここで終止符を打つのもいい。
攫われた母の事は自分が今ここで居なくなっても、叔父や父が何とかするだろう。そこは何も心配しなくていい。ただ一つ心配、というよりも心残りなのは……。
「燐燐!」
未練のせいか、今ここにいるはずのない人物の声が聞こえた。
何故だろう、その声を聞いた途端に泣きたくなってしまうのは。
「燐燐!帰ってこい!燐燐!」
これが夢や幻ではないとようやく気付いた燐燐が、声になるかも定かでない喉を震わせた。
「甜……瑠――」
真っ白で何も捉えない視界の中でも彼の姿を懸命に探した。




