逃れられぬ宿命
……どこかから、元気な赤子の泣き声が聞こえる。
何も視えぬ白き世界に燐燐の意識は彷徨っていた。それでも耳に聞こえた、新しき命の始まりの声。何だかとても懐かしく思える。
『ああ……やっと、やっと……出逢えた。私と、衿泉の大切な――』
「!」
未だ取り戻せていない母の声に、ようやく燐燐の目に映像が流れ込んだ。
真っ白な布にくるまれた小さな小さな赤子と、それを大切に抱きしめる母と父の姿だった。
――これは、記憶?
まだ燐燐が生まれて間もない頃の記憶のようだ。母が前に教えてくれた通り、この頃はちゃんと龍が人間化した証である長い耳を携えていた。
『よくやったな、黎琳。でも、喜んでばかりもいられないのも確かだな……』
『……ええ、分かってる。分かりきってて、私も、お前も、この子を望んだのだから』
ぎゅっと黎琳が赤子を抱きしめる力を強めた。
『絶対、奪わせはしない。何者にも』
『この子の――だけは、絶対に』
肝心な所が聞こえない、と目を見開けば、現実世界で目が覚めた燐燐。
辺りは日の光がほとんど入らず薄暗い。
ようやく目が慣れてくれば、ここは何処か入り組んだ洞窟の中らしい。遠くから水の滴る音や樹のさざめく音が聞こえる。
「う……」
拳の一撃を受けた腹が痛むが、それを顧みずに身を起こす。
右隣には欠かせぬ戦いの相棒である剣が置かれていた。これを奪われてしまったらと考えるだけでも恐ろしいが、とにかく無事で何よりだった。
剣を所定の位置に携え、動こうとした時だった。
「何処へ行く気?」
気配もないままに、一人の女が背後に立っていた。背後に揺らめく十の尾が彼女が妖魔であることをしかと示していた。
薄暗闇の中で彼女の目はギラリと金色に光っていた。獲物を逃さないと言いたげな鋭い獣を思わせる目だ。けれども……。
「貴方……私をどうこうしたいって訳ではないのよね?」
「!?」
「殺気立ってるって訳でもなくて……何て言ったらいいんだろう。私の身を案じてくれている、そんな気がするんだけれど、間違っているかしら?」
ひどく似ていた。鋭い眼光でありながらも落ち着いた気の流れ――心配といった感情を秘めた父の態度と。
しばらく呆然としていた女であったが、やがて吹き出すと笑いがしばらく止まらなかった。
「ふふふっっ!これはまた面白い娘を持ったものだわ、黎琳は!」
馬鹿にしているのか、それとも気に入ってもらえたのか分からず、燐燐は苦笑いを浮かべるしかなかった。
何はともあれ、この状況は燐燐にとって喜ばしくない。早く敵の本拠地へと乗り込んで母親を助けなければ。そのためにもこの女の元から脱出を試みなければならない。
しかしその考えを読み取って、女が真顔で先手を打った。
「でもその無謀さは命取りだわ。とても黙って行かせる訳にはいかない」
「!でも私は……!」
行かなければ。その続きは声にならなかった。
突如どこからともなく出現した白き炎が燐燐の全身を包み込んだからだ。
襲いかかる熱と風が邪魔をして息がまともに出来ない。普通の炎なら焼け死ぬ、と考えるべきなのだがこの炎にそうした殺傷能力はない。いわば、咎めの炎といったところである。
――いくら焼け死なないと分かったところで……!
これでは満身創痍まで追いつめられるのは必至だった。この状況を打開するにはやはり内なる力を解放しなければならない。
目を閉じ、己の中へと意識を集中させた時だ。
バアンッと強烈な破裂音と共に意識が突然吹き飛びそうな感覚がした。視界が真っ白に染まり、何が起こったのかその視界では確認できない。
――何、これ……
まるで精神だけが現実世界から切り離されてしまったようだった。先程までしかと見えていた洞窟の景色、女の姿が映る気配が全くしない。
そんな状況下で、ただただ自身から何かが抜け出ていくことだけは認識できた。
しばらくするとはっと夢から醒めたように視界が戻った。目の前には何故か満身創痍となっている女の姿。そして自分の手にはなかったはずの剣がしっかりと携えられていた。
「……?」
「まさかもうここまでとはね。予想以上の速さで力が増大してるわ」
何が起こったのかさっぱり分からず、燐燐は苛立ちを募らせる。この女は何かを知っている、でもその手の内を明かそうとはせず燐燐を惑わさんとするような立ち振る舞いが頭にくる。
「一体何があったの?貴方は私に何をしたのよ!?」
「わたくしがしたんじゃないわよ、燐燐。それは」
「お前自身の問題だ、燐燐」
背筋をゾクリと震わせるような響きに燐燐は振り向く。
龍から人の姿をとる際に黎琳が携えていたのと同じ、長い銀髪の持ち主が剣を握る燐燐の片腕を掴んだ。その手は僅かだが震えていた。
「溜謎、燐燐の封印はどうだ」
「もう完全に機能しなくなるのは時間の問題ってところかしら。本当に人の血が濃くなるほどそういうのの安定度はなくなってしまうものよね」
封印とは何のことだ。考えようとすれば頭が軋むように痛んだ。
「燐燐、よく聞くんだ。これはお前だけの問題ではない」
「?」
「お前は黎琳の、我が妹の力を継いでいる。しかし人の血が濃くなったお前の身体ではそれを上手く御せはしないのだ」
つつ、と長い爪が燐燐の胸に下ろされた。
「強大すぎる力はその身はおろか、この世ですら震わせる災いを呼ぶ。決して、決してその剣を肌身離すな。そして、その応龍の力にこれ以上頼るな」
一呼吸おいて、燐燐の母が兄である黎冥は告げた。
「さもなければ、お前の命は長らえられない」
一瞬何を言われたのかが分からなかった。黎冥の声だけが頭に何度も何度も繰り返し響いた。
ようやく意味を解釈した時には燐燐の膝から力が抜けていた。
かたかたと震えが剣の柄に伝わって音をたてた。
「な、何なの……それは」
何の悪い冗談なのだろう。でも真っ直ぐに射抜く母と同じ瞳が冗談ではないことをまざまざと表していた。
「黎琳は自分の口からいずれ話すと言っていたけれど、貴方が単独で行動を始めた以上話しておかないわけにもいかないから、わたくし達から話すわ。貴方に課せられた運命を」
否応なく、燐燐は自身に隠された運命を聞かされるのだった。




