暗躍者の足取り
「……ふ、あははは!」
突然堰をきったように笑い出した溟嬬。ほとばしるその狂気に誰しもが言葉を紡げずにいた。
力の上手く入らない足で、千鳥足とでも言わんばかりに歩いて燐燐の前に対峙する。ぎょろりと見開かれた目はもう正気を保っているとは到底思えないものであった。
「折角この国を裏から我々が支配しようと考えていたのに、見事に打ち砕いてくれたわね応龍」
彼女がずっと胸の内に秘めていた裏の思惑に、信じられないとばかりに固唾を呑む王子の側近達。それもそうだ。彼女は頭の冴える優秀な諮問官であっただろう。それこそ幻惑師のように上手に人を操れるほどやり手で。誰も彼女が国を乗っ取ろうと画策していたなど思う暇など与えられなかったのだろう。
「……でもまあいいわ。目的はしっかり果たしたし、ここで無理をしなくともいずれ我々の元に全てが舞い込むだろうし」
「裏で糸を引いているのは誰なの」
「それは教えられないわ。でも貴方、直に我々の計画を邪魔したことを後悔することになるわ」
「どういう事――」
言い終わる前に溟嬬の姿がその場から消え去る。
尋常じゃない速さで人々の間をくぐり抜け、宴会の場から逃走するのを目で追うのが精一杯だった。あれは人の力だけで成し得る業ではない。
だが、こちらとしても逃すわけにはいかない。王家側もみすみす逃がすつもりはないらしく、すぐさま兵士が溟嬬捕縛に乗り出す。
「追うわよ、甜瑠!」
「っ!言われなくても一人で行かせねえっての!」
もはやここが敷居高き王宮貴族の宴の場であることなどすっかり忘れ、二人は無作法もいいところで会場を後にする。
何かしらの術を施しているのか、溟嬬の気配は一般の人間のものよりも微弱だった。それでもかろうじて感じる方向へ燐燐が先立って走る。
「ちょっと待つんだ、燐燐殿!」
「!」
後ろからかけられた制止の声に、振り切ることが出来ずに燐燐は振り返った。
兵士を率いた銀蒐と、その少し後から春零が走り追って来ていた。
燐燐に追いつくなり、銀蒐がその手に剣の柄を掴ませた。宴には相応しくないと屋敷に預けたものだったが、どうやら非常事態のために予め城にまでは用意してあったようだ。甜瑠の大剣も、銀蒐の部下が本人へと返す。
「我々もすぐに追いたいが、あの場の混乱を鎮めるためにはまだ動けまい。追うのを止めるつもりはないが、くれぐれも無理だけはしないように」
「燐燐……っ!」
ようやく追いついた春零がふわり、と燐燐を抱きしめた。
「黎琳はきっと大丈夫ですから、命を削るような真似だけは絶対にしないで。……そして今度こそ親子で都に来て、お茶を飲みながらゆっくりお話しましょう。約束よ」
ここに帰ってくるつもりがないのはお見通しだったようだ。同じく屋敷にあったはずの、元着ていた衣服も包みごと渡された。
本当にいい仲間に母は恵まれていたのだとつくづく思う。
「……はい!ありがとうございます!」
とびっきりの笑顔で挨拶を交わし、あとは振り返らずに前へと走った。
甜瑠も軽く別れの挨拶を済ませ、後を追う。
小さくなっていく二人を見送る銀蒐と春零。
「とてもいい子に育ちましたね、黎琳の娘は」
「ああ。……だからこそ、願わずにはいられないな」
ここ最近で、一番最後に黎琳から送られてきた文の文章を思い出し、二人は表情を歪ませた。
「「どうか、あの子が無事に――ように」」
この思いが、願いがどうか天に住まう彼らへと届くように、と二人は星の瞬く空を見上げるのだった。
都から遠ざかるほど、夜の森はほぼ漆黒そのもので、道を見分ける事すら困難な状態にあった。
それでも道を踏み外さずにいられるのは、視覚に頼らず、燐燐から発せられて跳ね返ってきた気を感知して障害物や道そのものを認識しているからである。
後ろから追う甜瑠には燐燐の姿以外ほとんど闇でしかなかった。
折角上品にあしらわれた中華服も細枝に引っ掛かったりして傷物になっている。しかしそんな事を気にしている場合ではなかった。
着実に縮まっている相手との距離。
――きっと溟嬬を追えば、敵の本拠地に辿り着けるはず……!
恐らく母が捕らわれているであろう場所へ。
だからこそ、この好機を逃すわけにはいかなかった。
ところが、突然目の前に川が広がった。
「ああっ!?」
颯爽と走っていた勢いで、川べりに踏みとどまれず、そのまま水の中へと落下する。
「燐燐!」
慌てて甜瑠が自らの剣を背から放り出し、川へと飛び込む。
ただの川なら問題なかったのだが、この川はまるで入ったものを引き込むかのように、水面に似つかない水流で動いていた。容赦なく鼻腔から、口の隙間から水が燐燐の中へ侵入し、呼吸が妨げられる。
徐々に遠のく意識の中で燐燐は手を伸ばす。
母でも父でもなく、いつだって側にいて守ってくれる人に助けを求めて。
それに応じるかのように、幼馴染みはしっかり燐燐の腕を捕まえ、一気に水面へと引っ張った。その勢いのまま川べりへと引き上げられる。
「おい、大丈夫か!?しっかりしろ!!」
入り込んでしまった水を咳と共に吐き出し、何とか呼吸を確保する。荒い呼吸の中で、燐燐は甜瑠に大丈夫だと微笑んで見せた。
しかしこの状況はそう笑っていられるものでもなかった。
川はまさに大河のごとく広がっており、とても飛んで渡りきれるような幅ではない。近くに橋のようなものもないのだが、溟嬬の気配は確かにこの先へととんどん進んでいく。だが、何かに阻まれるかのようにその気配ですらも薄くなっていた。このままでは追尾することが出来なくなってしまう。
「なあ、そもそもここに川なんてあったか?」
「……たぶん、これは……一種の結界、だと思う」
もうほとんど感じ取れなくなってしまった溟嬬の気配にもどかしさを覚える燐燐。
深追いしたくとも、これでは自分はおろか、ついてきている幼馴染みを危険に晒す。それこそ活路を見いだせない泥沼に自らはまっていくかのように。
――私だけなら……
甜瑠を側から離して応龍の気を使えば、あるいは。
「甜瑠、ちょっと離れて」
「!?」
すらり、と剣を抜き、意識を集中させる。
そちらにばかり気が入っていたせいか、すぐ側までやって来ていた強大な存在にすら気付かなかった。
「やめておけ」
重圧的な言葉がすぐ背後で飛んだ。つい数瞬前まで全く感じなかった、強大な気配がそこに確かにあった。
とっさに構えていた剣を後ろに振ったが、それは虚しくも空を掠め――。
瞬時に燐燐の背後をとったその人物が、彼女に容赦なく強大な気を叩き付けた。
――これは……!
何かを悟った気がするが、あまりの衝撃に、たまらず燐燐はがくりと意識を失った。
力なくひれ伏したその身体を、謎の人物が軽々と持ち上げる。
何が起こったのかようやく理解が追いついてきた甜瑠が大剣を向ける。
「そいつから離れろ。さもないと……!」
「案ずるな。我は可愛い姪を助けに来たのだ。」
「姪……?ってまさか」
いちいち説明するのも面倒だと言わんばかりにその人物が顎を振った。
するともう一人、潜んでいた影が姿を現した。人でありながら、人ではない耳と十もの尾を持ち合わせた女だった。
「四の五の言うならもう伸びてなさい」
次の瞬間、甜瑠の腹に拳が炸裂し、意識が吹っ飛んだ。




