浄化の光
「お……おお……」
自らが何を口にしたのか、悟った弟王は慄くばかりだった。
皮膚が湿った音を漏らして溶け始めていく。
「ここで……終わらせられる……もの、か!」
生への執着が、彼の精神を何とか取り留めていた。
燐燐は弟王を取り押さえていた者を剣の鞘で殴り飛ばした。元は人であった以上、刃で斬るという手段は選べなかった。
精神をかろうじて保っているとは言えど、もはや一刻の猶予も残されていなかった。全身に邪悪な気は巡ってしまい、人としての身体が原型を留められないほどに膨れ上がってきていた。燐燐の瞳に映っている、彼の胸のあたりにある「魂」と思われる光は、どろどろと纏わりついた闇に今にも完全に呑み込まれそうだった。
「応龍の気なら、これを清め祓うことが出来るはず……」
しかしどう力を行使すればいいのか分からず、とりあえず燐燐は応龍の気そのものを身体から放出することを念じた。
念じに応じて、燐燐の身体が光り輝く。しかしあまりにもまぶしいその光にあてられた周りの屍達が絶叫し、灰と化した。燐燐のすぐそばにいる弟王も強烈な気のせいで、腐敗しかかっている箇所が砂塵と化そうとしていた。
――これでは助けるどころか完全に殺してしまうじゃない!
思い通りに扱えない力に、苛立ちは募る。
と、おもむろに左に握る鞘の重みを感じた。元々母の力を受け継いでいないとされてきた自分に最初が手にした力だ。そしてこれを媒介に気を扱えたことを思い出した。
あの時と同じように。
鞘を抜き、剣を構えた燐燐に、弟王の臣下達が怒声を上げた。
「弟王様をこのまま殺すつもりなのか!!」
「悪ならすべて滅ぼしていいとでも言うのか、応龍は!」
「許すわけにはいかぬ……!」
同じく剣を抜き、燐燐へ向けようとしたその切っ先を甜瑠が大剣で跳ね上げた。手から離れた剣はくるくると宙を舞い、臣下のすぐ背後に乾いた音と共に転げ落ちた。
「あいつはあのまま弟王様を殺すつもりではない!」
「でも……!」
「信じてほしい!……少なくとも、俺はそう信じる。だから、お前も自分を信じてやれ、燐燐!」
甜瑠の言葉で、何となく強張っていた身体が解きほぐされた気がした。
――私を信じて、私を信じてくれる人を、信じて……!
刹那、剣が閃いた。
剣は弟王を縦真っ二つにするかと思われる手前でぴたりと止まり、そこから応龍の聖なる気が放たれ、弟王の身体に蹂躙していた邪悪な気そのものを斬った。
反射的に振り上げられた剣をすぐさま横に振り、同様に気を放つ。
光の衝撃波と化した気は、屍達を動かしている根本の、怨念とも言える気を斬り、消失させた。原動力の核を失った屍は、ばたばたとその場に倒れていった。完全に命を落とし、ただの死体となって佇んだのみだった。
一方弟王は溶け始めていた皮膚が何とか火傷程度の負傷でとどまり、正気も取り戻した。
とは言え、重傷である事には変わりないので、すぐさま臣下達によって医者が呼ばれた。
魂も気も安定している様子からして、恐らく少し安静にしていれば問題ない程度であると燐燐は判断した。もう剣を振るう必要はなくなったと、剣を収め、周りを取り巻く複雑な視線を一瞥した。
「……例を、言う。応龍」
言葉を発するのもままならないほど身体が傷を負っているだろうに、弟王は燐燐へ感謝の言葉を述べた。
「もう少しで……あいつに、してやられる、ところだった」
「……約束、ちゃんと守ってもらわないといけませんから」
純粋に助けたいという気持ちもあった。けれど、別の理由で彼を助けた、という方が正しかった。自分の目的を果たすために彼を生かし、利用価値のなかったその他の者達を見殺しにした、図らずもそう思える結果に燐燐の表情は曇る。
すぐさま王城に、ましてや王族の私室に似つかわしくない死体は、ぞろぞろと部屋から運び出されていく。そして屍の残骸である灰など、惨事の痕跡は瞬く間に清掃によって跡形もなく消え失せる。
それでも、弟王もその他の臣下にも、そして燐燐自身にも刻み込まれた心の傷は消えない。弟王は帝位を共に争う妾腹の子に、このような卑屈な手段で葬り去ろうとされた事実、臣下達そして燐燐には手段を選ばない帝位継承争いによって罪なき人々が犠牲になったことが。
ぽんっと肩に置かれた大きな手。
振り向けば甜瑠が全てお見通しと言わんばかりに優しい笑みをたたえていた。
「大丈夫。お前は……ちゃんとよくやったよ」
「……っ」
堪えきれず、燐燐はその胸に顔をうずめた。
分からない。人の心が。
対立する存在をこんな残虐な行為に走ってまで排除しようとするその心が。
恐ろしく、理解できない。
「応龍が弟王と接触したのか!」
「はっ」
「しかし、娘は力を継いでいなかったと言っていなかったか?」
「……どうやら、眠っていただけで、覚醒してしまったようですね」
思わぬ誤算に妾腹の王子、そして傍らに控える諮問官も驚きを隠せなかった。
「そしてどうなったのだ、弟王は!」
「一命を取り留めてしまいました、応龍がすぐさま浄化を試みたことで」
標的であった憎き競争相手は存命している。その事実が納得いかず、王子は口に運ぼうとしていた果実を壁に投げつけた。中身が飛び散り、赤い果肉と汁が壁を色づかせ、垂れていく。
「だったらなぜお前は騒ぎに紛れて弟王を殺さなかった!」
「あ、あんなのを見せられて……応龍に刃向えるはずがないです!」
「あんなの?」
「圧倒的な力、浄化の光とでも言うのでしょうか。あれに触れた瞬間、毒で怪物と化していた者達が一瞬で灰と化したのですよ!?」
要は己の命欲しさに手出しをしなかった、ということだった。
「もうよい!お前は使えない!すぐさま私の目の前から消えるがよい!」
「いけませんね、王子」
王子の行動を諌めるように諮問官が動いた。
言い詰められた臣下を救うのかと思いきや。
――突如その臣下の身体が弓なりに反り、術式の輪の中に閉じ込められた。
「使えなくなった駒はしっかり処分しておかなくては」
「ぐ……ああっ……!」
もがき苦しむ臣下はやがて爆発音と共に四散した。残骸として肉や骨の破片がその場に堆く積り、血が滴った。
「わたくしの、私達陰家の呪術師の存在を応龍の娘などに気付かれては困りますから」
流石にここまでするとは思っていなかったらしく、王子は自分が今度はこうなる番となるのかと肝を冷やし、冷や汗を流した。
人が一人死んだと言うのに、諮問官ないし陰家の呪術師は妖艶にほほ笑んだ。
「浄化の光……果たしてその光で潜む闇を照らせるかしらね。母親でさえ気付けなかったその闇に」
漆黒の瞳に映るのは、どこまでも果てのない闇だけだった。




