社会の表と裏、上と下 7
「……お久しぶりです。塩沢先輩」
虚ろな視線で池を眺めていると、背後から声をかけられる。塩沢はゆっくりと振り返ると、哀しみをたたえた笑顔を見せた。
「久しぶりだな、柳都。今年は里帰りしなかったみたいだな」
「……教授のつてで、パーティーのチケットが手に入りました。自分の代わりに行ってこいと」
塩沢の知る限り、最も成績の優れている後輩がそこに立っていた。男性にもかかわらず目が隠れるほどの長い前髪を蓄えている。
北条柳都、九年前のガス事件において、塩沢の後輩の中で唯一生き残った人間である。しかし、回復が遅れたせいで、高校に通うことができなかった。
しかし、回復後は高卒認定資格試験をパスし、独学にもかかわらず大学に現役合格した猛者だ。今は、国立の医学部に通っている。
「……橋野が死んだそうですね。その他関係者も、クリスマス・イブに」
「俺はノータッチだったがな。だが、水葉が一人始末している」
九年前のガス漏出中毒事件の首謀者、橋野友成はリリアン・ポーンが始末している。そして、その協力者も水葉のような異能を持つ事務所のメンバーが、同日、同時間に天誅を下していた。水葉もその中の一人を殺害している。
仕事を終えて帰ってきた水葉の表情は、他のメンバーよりも暗かったと塩沢は思う。
「……正直、僕はわからない。これで一通りのけじめがついたのかどうかは……」
北条は水葉を見る。意識が戻って以来、塩沢をはじめとする相川探偵事務所のメンバーと彼は旧知の仲になっていた。彼は水葉とよく会っているが、塩沢と会うことは水葉と会う回数より少なかった。
「私は依頼をこなしただけに過ぎない。理由は私が異能を持っているから。ただ、それだけ」
北条の目を見ながら、ポケットからカードを取り出す。
魔族の作るマジックカードとは原理が異なる、水葉しか使えないカードだ。彼女は魔族との契約によって後天的に異能を手にした人間ではなく、生まれつきの突然変異種とも言うべき、先天的な異能を持つ人間だ。
「私は、こんな殺しの仕事よりも、人助けとか、調査の方が好きなんだけど…ね」
まわりに誰もいないことを確かめると、水葉はカードを池に放り投げる。カードが光を放ち、雷撃が水面に落ちた。そのまま水飛沫が上がり、再び、池に雨のように降り注いだ。
水葉は北条の方へ向き直る。
「…今晩の京浜製薬のパーティー、北条君も出るんでしょ。教授から招待状をもらったって言っていたし」
「……出ます。教授から頼まれたことでもあるので」
「じゃあ、また、その時に会おうね」
水葉は時計を見ると、歩き出した。北条は塩沢の隣に立った。
「……先輩は、行かないんですか?」
「俺は、別の仕事がある。麻薬密買組織の調査を依頼された。そいつらの上に大物政治家が絡んでいるらしくてな、警察も動けんらしい。それに、その組織に京浜製薬の一部社員が何らかの形で関与している可能性がある。それを調べろとも依頼を受けている」
そして、必要とあれば、殺してしまってもよい……
北条は塩沢の横顔を前髪越しに見た。中学校時代の生き生きとした表情は、あの事件を境に、見ることはできなくなった。
「柳都、お前の選択は正解だった。その選択をしたことは誇っていい」
彼は、あの事件を機に異能や魔族の存在を知り、同時に、相川探偵事務所をはじめとした裏社会の存在も知った。しかし、彼は塩沢のように、本格的に裏社会に与しようとはしなかった。そのまま、裏社会と一定のパイプを保ってはいるものの、あくまで表社会に残り続けた。
「……僕は、感情が薄い人間でした。仲間を亡くして悲しいとさえ思えない自分を、疎ましく思うのが精一杯でしたから」
「…あの事件は、俺が探偵助手としてやった仕事の中で、最初にして最大の失敗だった。ガセネタに踊らされていなければ、もう少し多く生き残っていたかもしれなかったが……」
目を細めながら、塩沢は水草を眺める。
「……誰も、あなたのせいだなんて思ってはいません。悪いのは救世の理で、それ以外の誰にも責任はないんですから」
塩沢は軽く息を吐くと、踵を返した。
「お前と話せてよかった。もう残りわずかしかないが、よいお年を」
「……はい……」
歩き去ろうとする先輩の背中を北条は無言で見つめていた。