社会の表と裏、上と下 6
「お前な、東京駅で会うって言っただろ。何でこんなところに雲隠れしてるんだよ」
「ごめんごめん。私ちょっと、この景色が無性に見たくなって」
東京都台東区にある不忍池にも、かすかではあるが雪が積もっていた。池のほとりには、コートを着た二十代半ばほどの男女が立っていた。
「雪の不忍池も多少は風情があるがな。だが、寒くないのか?」
「寒いけれど、別に私は平気よ。雅史こそ、寒いの?」
ポニーテールの髪をなびかせながら、女性は塩沢に向かって微笑を浮かべる。塩沢は目を合わせずに、池を泳ぐ水鳥を眺めていた。
「この程度大したことはない。ただ、今日はやたらと冷え込んでいるとは思う」
塩沢は問いに答えると、白い息を吐きながら、雪がちらつく鉛色の空を見た。
「……水葉、お前、俺に言いたいことでもあったんじゃないのか? それで、こんなところにわざわざ呼び出した。違うか?」
古町水葉の表情はいつもと違う。塩沢はそう感じた。
「……ねえ、私とコンビ、もう一度組まない?」
「…何を言うかと思えば…」
塩沢は固い表情を崩さないまま、池の水面を見つめる。
「コンビを解消して以来、雅史はものすごく殺伐としてる。まるで、殺すことが生きがいみたいになった。私と組み直して、殺しメインはもうやめようよ。もっと平和的に、できるだけ殺さないように仕事をしようよ…昔と同じように」
「……俺が、もう一度お前と一緒にやることにしたところで、俺の殺伐さがどうにかなるわけでもない。俺が異能もないのに事務所にいられるのは、殺すことを引き受けているからに他ならない。殺すことをやめたら、俺はお荷物にしかならないはずだ」
水葉は悲しそうな表情で塩沢を見る。かつてのパートナーは殺すことだけに囚われてしまっている。冷酷にただ敵を殺すだけが存在意義とでも言うかのように。
「相川さんは、雅史が殺し専門をやめても、お荷物だなんて思わないはずよ。それに、このままじゃ、雅史はきっと人の心を失ってしまう。ただ、敵を殺すだけの兵器と同じ存在になる」
水葉の言葉に対して、塩沢は黙っていた。
むしろ、それは喜ばしいことだった。無感情に殺戮のみを行えるようになったら、それはそれできっと幸せなことだろうから。そして、今自分はその域を目指している。
九年前のクリスマス・イブ、塩沢は親しい人を失った。しかし、復讐の感情は浮かばず、浮かんできたのは、自分がいかに誰かを守るという点において、非力であるかということ。そして、思い詰めて思ったのは、直接人を守ることができなければ、間接的に守るしかないということだった。すなわち、脅威となる前に危険を取り除く。つまり、ありとあらゆる危険となりうる敵を殺すことでこの世界を守ろうと考えた。
ただ、それはもう単なる建前になっていた。今となっては、悪人の返り血を浴びることで、自らの破壊衝動を満たしているに過ぎない。正義は後付けの理由であって、行動の根本を構成しているわけではない。だが、もはやそれさえもどうでもよいのかもしれない。
「……もう俺は引き返すには染まり過ぎた。俺はお前やリリアンとは違う。良心のもとに殺人を行うようなまだましな連中とは違うんだ。もはや俺には良心も善意もなく、愉悦のために殺人を繰り広げているようなものだ。そして、幸運なことに、最近は抵抗も薄れてきた」
今の塩沢雅史は、人間から殺人兵器への移行過程にあると言える。そして、人間に戻るにはもはや遅いだろう。この手は染まり過ぎた。
「そんなことはないと思う。雅史はまだ『あの約束』に基づいて仕事をしているんでしょ。だから、愉悦で殺人を繰り広げているわけじゃないと思う。そして、そのためには殺人の抵抗感を持ち続けている方がいいはずよ。矛盾があるだろうけど」
水葉の励ましの言葉に対して、塩沢は下を向く。心が苦しかった。
「正直、俺はよくわからなくなってきた。確かに俺は約束を絶対に果たしたい。だが、俺の心が先に駄目になってしまいそうなんだ。約束を果たすことが手段ではなくて、目的に置き換わってきてしまった気がする……それが悪いことかどうかさえわからないから、余計性質が悪い」
「どっちでもいいんじゃないの。でも、私は、雅史が殺人狂になったり、苦しんだりするのはあんまり賛成できないな」
だが、あれは約束だ。自分は交わした約束を絶対に守ると決めている。それを水葉に話すと、彼女は寂しそうに答える。
「あの子だって、雅史を縛りつけたくて願いをかけたわけじゃないだろうし、雅史だってそれに応えたいと思ったに過ぎなくて、約束したのとはまた違うんじゃないの?」
確かにそうかもしれない。すでにその願いを受けた相手は亡くなっており、その約束を無理に果たすことにどれほどの価値があるかも疑問がある。
「だから、もう殺しメインはやめて、私と一緒にやり直さない? 普通の調査員の仕事。あの時みたいに。苦しみ続ける必要はないよ」
塩沢はしばらく池の水面を眺めていた。
「…俺は、あれは約束だと思う。だから、この身をすり減らしてでも、やり遂げるさ」
ぼそりとつぶやいた塩沢の顔を、水葉は寂しそうに見ていた。




