社会の表と裏、上と下 4
「そんなことがあったのねえ……わかったわ、支度するから」
一通りの説明を終えると、理津子は二つ返事で承諾する。霧矢としては、もう少し文句を言ったらどうなのかと思っていた。いきなりこんなことを言われてオーケーするのはいくらなんでも問題、いや問題外だ。簡単に詐欺に引っ掛かるだろう。
霧矢はため息をつくと、淳史に電話をかける。
「パーティーに行くことになった。母さんとそっちに行くから、よろしく」
「わかった。会場で会おう」
電話を切ると、今度は上川晴代の携帯電話の番号にかける。正直な話、黙って出て行きたい気分だが、万が一連絡が取れない状況になってしまうと、霜華も困るだろう。
しかし、そのことを伝えたら、霜華もきっと一緒に行きたいと言うだろうし、そうなれば、風華もどうなるかわからない。
「もしもし、霧矢? あたしに何の用?」
「正月の間、東京に行くから家を空ける。霜華にそこんところ伝えといてくれ。以上」
「ちょっと待ちなさい。いきなり東京に行くって、何なのよ。おじさんの都合?」
霧矢は「ご名答」と答えると、話題を打ち切って電話を切ろうとしたが、晴代が話を続けて切らせようとしない。
「あんたがそんなこと言うなんて、絶対裏に何かあるでしょ。あたしの目をごまかすことはできないよ。さあ、白状しなさい」
霧矢はため息をつく。ここではぐらかしたところで、晴代は折れるような人間ではない。しかし、すべて話してしまえば、晴代は霜華にそれを伝え、霜華はついてくると言いだすだろう。
「……まあ、ご想像にお任せします。というわけで、何かあっても、明日と明後日はいないから、そこんところ、よろしく頼む」
「霜華ちゃんに隠すことか何かでしょ。あたしをごまかそうなんて百年早いわよ」
霧矢は舌打ちする。勉強はさっぱりできないのに、こういう推理だけは得意な幼馴染だ。もっと他のところにその能力を生かすことができてほしいというのが素直な感想である、
「……塩沢の依頼だ。でも、霜華には内緒にしといてくれ。これは僕の問題だから」
霧矢が塩沢の依頼について説明する間、晴代は真剣に聞いていた。
「無理よ。もし、仮に彼女が家に誰もいないことに気付いて、霧矢が東京に行ったあとだったとしたら、それで納得すると思う? それに、塩沢さんだって、霜華ちゃんたちには東京観光をしてもらえばいいって言ってたんでしょ?」
「……それは……」
「だから、きちんと説明しておきなさい。電話変わってあげるから」
「……おい!」
霧矢が反論を口にする前に、保留のメロディーが流れる。電話を切ろうかとためらったが、霧矢はそのまま、受話器を握り続けた。
「もしもし、霧君?」
「……東京に行くことになった。元日の夕方まで戻れないと思う。あと、父さんが帰ってくるっていうのも、なしになった」
「よくわからないんだけど、説明お願い」
内心で、こうなることなら、晴代に塩沢の仕事のことなど明かすのではなかったと思う。ごまかしたところで、晴代がすべて霜華に話してしまうだろう。
「……と、いうわけだ」
「それで、霧君は、私たちについてくるなと言いたいわけね」
「手っ取り早く言えば、これは僕だけの問題で、これはあくまで腕試しだ。それに、お前がついてきたところで、万が一父さんと会ってしまったら、説明に困る」
霧矢は苦し紛れの説明をする。しかし、霜華は霧矢を責めなかった。
責めなかったのではなく、見放したような口調になっていた。
「別に、私には関係ないことだし、家族水入らず、行ってきたらどうなのかなあ…?」
「何で、そんなしゃべり方をするんだよ。言いたいことがあるならきちんと言え」
霧矢は突き放したように抗議するが、霜華はまるで応えていない。
「まあ、霧君がどういう人かわかったような気もするけれど、ここではあえて言わないよ」
「………おい……いい加減にしてくれ。何で、僕がこんなに嫌な気分にならなきゃいけないんだよ。行きたいなら行きたいときちんと言ったらいいだろうに……」
霜華は黙ったまま何も答えようとしない。霧矢としても電話をさっさと切ってしまいたかったのだが、ここで切ってしまったら負けのような気もしていた。
「ああ、もう、わかったよ! 好きにしろ。行きたいんだったら、明日、浦沼駅に十時に集合だ。それでいいだろ!」
「……最初から、そう言えばいいんだよう」
霧矢は舌打ちする。風華にこのことを伝えるように厳命すると、電話を切った。
(……くそ、何で僕はあいつに強く出ることができないんだよ……)
部屋に戻ると、霧矢は塩沢から渡された依頼の内容にもう一度目を通す。
依頼の内容は、社長令嬢の護衛。ここ数か月、正体不明のストーカーにつきまとわれており、警察にも被害届を出したが、警察はまるで正体をつかめなかった。そのため、最後の手段として、裏社会屈指の何でも屋に頼んだということだろう。
古町水葉、塩沢の元パートナーの女性。今回ともに仕事をするパートナーだが、いったいどのような女性なのだろう。
旅支度をしながら、霧矢は机の上の課題の山に視線を向ける。
(……こいつを今のうちに何とかしておかないとな…でないと、帰ってきてから地獄を見る羽目になるだろうし……)
今日のうちに少しでも片付けておこうと霧矢は、椅子に座り、ペンを握った。
宿題という敵と、ストーカーという敵、どちらがより手ごわいか、そんなことを考えていた。