トラブルは必ず起こる 5
「そろそろ、移動してもいい頃合いだろう。行くぞ、お姫様」
結局、水葉から鈴原を捕まえたという連絡が入ることはなかった。霧矢は苦虫をかみつぶしたような表情で、スイートルームのソファーから立ち上がった。
「じゃあ、拳銃を持った男から、きちんと私を守ってちょうだいね。騎士様」
霧矢はため息をつくと、無線機を取る。
「…こちら三条。水葉さん、移動します。今の状況はどうですか?」
「問題ないわ。今のところ、何も問題はないわ。館内に不審人物もいないし、雅史もターゲットに接触していないから、館内は安全よ」
ひとまず、危険はないようだ。霧矢は古めかしい望遠鏡にしか見えない魔力分類器をくるくると指先で回しながら、エレベーターホールへとつながるドアを開けた。
「レイさんはパーティーに出ないのか?」
「本当は出ない予定でしたが、護衛の都合があります。先ほど電話があり、私があなたのアシストをするように、つまり、護衛のサブを務めるようにと申し渡されました」
霧矢は興味深そうにレイを見ると、興味深そうにうなずく。そのまま、閉まろうとするドアを押さえて、美香が部屋を出られるようにした。
エレベーターのボタンを押すと、霧矢は深呼吸する。
(さて、万が一のことがあったら、最悪だからな。注意に注意を払わないと……)
霧矢はエレベーターのドアが開くと、美香に一礼する。ちょっと格好をつけたくなっただけだが、美香は霧矢の姿を見てくすくす笑いを浮かべた。
「さあ、姫よ。騎士、三条霧矢がお守り申し上げます……なんてな」
「…じゃあ、よろしく。私のナイト様」
三人とも、エレベーターに乗り込むと、霧矢は壁に寄りかかりながら、目を閉じた。
とにかく、塩沢が早まったことをしないことを望むほかない。薬局の息子として、麻薬の密売人は絶対に許すことはできないが、爆弾で何百人もの人を一気に殺すよりはまだましなのかもしれない。そうなるくらいなら、見逃してしまった方がよいと思えないこともない。
しかし、彼らを野放しにすると、麻薬で苦しむ人間がどんどん現れる。そして、社会は乱れ、人の心は荒んでいく。
(……どっちをとっても、ひどい結末にしかならないのか……)
霧矢は隣の診療所の先生、理津子、淳史という医学・薬学のプロから、薬物の乱用がいかに悲惨な結果を招くかということを、小さいころからこれでもかというくらい教え込まれてきた。
薬は、人の苦しみを和らげ、命を助けるものであると、霧矢は信じている。間違っても、薬は、快楽に任せて溺れるものではないと確信している。
そんな連中をのさばらせておくのは、絶対に嫌だ。しかし、多くの人間が死んでしまったら、それこそ悲劇的な結果になる。
「落ち着いて。何をそんなにピリピリしているの、あなたは」
できるだけ表情には出すまいとしていたが、美香には霧矢の様子が変だということに気付いてしまったようだ。レイも心配そうな顔をしている。
「…大丈夫だ。ちょっと、緊張しているだけだから、心配ない」
簡潔に背中で答えると、エレベーターのドアが開いた。霧矢は一歩踏み出す。
「さて、ここからは、あんたが主役だ。先を歩くのはあんたがいいだろう。僕は後ろを歩く」
エレベーターホールに降り立った、美香の後ろ側に霧矢は控える。
「…さて、元のモードに戻らなくてはいけませんわ。それでは霧矢さん。参りましょうか」
「わかりました。美香さん。参りましょう」
霧矢は苦笑いすると、表情は見えないが、同じく苦笑いをしていると思われる美香に、レイに先導される形でついていく。喧騒がだんだんと大きくなり、廊下の角を曲がると、多くの正装した各界の要人がいるのが見えた。全員、美香に注目している。
「とりあえず、会場に入るより控室でもう少し待つのがよろしいでしょう。こちらへどうぞ」
レイが小さな楽屋のような部屋に案内する。スイートルームよりは質素だが、それでもやはり、豪華な作りとなっていた。最高級品の家具が取り揃えられ、極上のくつろぎを与えてくれそうだった。ただ、やはり霧矢にとって、高級すぎるのは息が詰まった。
レイが扉を閉めると、部屋の中は再び三人だけとなる。
「はあ、少し歩くだけでも、ここまで視線を浴びるとは。疲れるものだわ」
「やれやれだ。大変だな、お嬢様っていうのも。ある意味、僕は田舎者でよかったと思うよ」
霧矢はドアを少しだけ開け、廊下を魔力分類器で見回してみた。出入り口はドアが一つしかない密室であり、万が一外に敵がいたりしたら困る。
(一応、魔族や契約主はいないな……)
魔力分類器を下ろすと、ドアを閉め、霧矢は腕組みする。しかし二人は霧矢に注目していた。
「三条様、先ほどから気になっていたのですが、その望遠鏡のような筒は何なのですか?」
「……まあ、暗視スコープみたいなものと言っておこうかな。こいつがあれば、電気を消されても、人を確認できるんだ。出所不明の代物だけどな」
霧矢は魔力分類器をしまうと、腕組みしながら扉に寄りかかる。美香は納得したようなしないような微妙な表情を浮かべていたが、これ以上は詮索しないことにしたらしく、黙っていた。
ソファーに座っている美香をちらりと見て、霧矢は、ここにいるよりも部屋の外で門番をすることを選んだ。レイに目くばせをすると、部屋を出る。
廊下は招待客の喧騒に包まれていた。霧矢は、人ごみ自体はそれほど苦手なわけではない。ただ、ここまで多くの上流階級の人間が集まっている中に身を置くというのは初めての体験で、居心地の悪さは今も続いていた。
少なくとも、今のところは不審な人物がまわりにいない。霧矢が知っている情報は決して多くないが、鈴原らしき男もここにはいない。
ドアの隣にSPのごとく立ちながら、霧矢は無線のマイクを指でいじっていた。
今一番起こってほしくないことは、この爆弾を持った男がホテルにいる状況の中で、魔族の可能性のあるストーカーが現れることだ。最悪の場合、それによって騒ぎが起こり、感づかれたと誤解した密売人たちが、暴挙に出ることも考えられる。
今できることと言ったら、怪しい人間がいないか見張り、もしいたら、すぐに美香を逃がす。それだけだろう。
しばらく壁に寄りかかりながら、立っていたが、そろそろ時間となった。ドアを開けて中に入ると、美香も気だるそうにソファーに座っていた。
「行こう。まだ少し早いけど、もう会場に入ってもいいだろう。お姫様とそのお付きさん」




