社会の表と裏、上と下 1
魚沢市から百キロメートルほど離れた地方都市に、その探偵事務所は存在する。裏の世界では知らぬ者はいないとされるほどの、強力な組織。
相川探偵事務所。
表向きは探偵事務所ではあるが、実際は、異能を持つ者によって構成される秘密結社に近い。違法な仕事でも引き受ける反面、彼らのポリシーに反する場合は、逆に依頼主が潰されることで有名である。
その異能者の集まりの中で、二人だけ異能を持たない戦闘要員が存在する。その二人、相川探偵事務所最弱を自負する男と事務所の所長が二人、向き合っていた。
「それで、相川さん、京浜製薬に関しての報告ですが……」
二十代半ばほどの男が分厚い書類の束を手渡すと、白髪交じりの男性はは老眼鏡をかけ、ものすごいスピードで読み始める。
若い方の男は塩沢雅史といい、老人の方は所長の相川昭二という。いずれも裏社会ではかなり名の知れた人間である。いずれも、異能を持たない分、銃火器や刀剣類を用いた白兵戦に長け、実力はプロの軍事訓練を受けた兵士を軽く凌駕する。
書類を全部通読すると、相川は顔を上げて塩沢を見つめた。
「この仕事は、君と水葉でやってもらおう。二人で分担するか、昔のように両方とも一緒にやるかは、君たちに任せるとしてな」
「しかし、何なんですか、この依頼の内容は。片方はいいとして、もう片方はとんでもない話だ。これに適した人材は事務所にいませんよ」
塩沢は厳しい表情で苦言を呈する。今回の仕事は、またしても彼を揉め事の渦中に投げ込んでしまうことになる。
「しかも、この仕事の依頼主がまた、とんでもない人ですし……」
仕事の依頼の手紙を受け取った時点で、塩沢は絶句していた。依頼人の名前に心当たりがあり過ぎだった。
「京浜製薬はお得意様中のお得意様。依頼の内容もアレだが、我々としては問題ない。まあ、依頼人が件の事情を知っているかは別だが、問題ないじゃろう」
相川は苦笑いしながら、書類を机の上に置く。
「……このリストによると、例の博士が参加するとのことですが、まさか、相川さん、彼を投入するおつもりですか?」
塩沢はとんでもないといった表情を浮かべている。しかし、相川は笑いを消さなかった。
「彼も、覚悟はあるんじゃろう。我々からのお年玉だ。ちょっとしたトレーニングのつもりで誘ったらどうかな?」
依頼の内容は二点。片方は殺しを含む、まさに裏の人間でしかできないこと。もう一方は、普通の探偵に頼むような比較的安全なものだった。しかし、安全なものだが、一人でするには手が余る。誰かアシストをする人間が必要だった。そして、アシスト役の条件を向こうが提示してきている。思い切りふざけた条件で。
「殺しは、雅史、君に頼もう。それで、残りは例の彼と、水葉に頼むとよかろう」
塩沢は気乗りしなかったが、相川の言うことは大体上手くいっている。今回も従った方が無難だろうと考えた。
「……わかりました。では、また直接会って協力を仰ぎます。断られたら、水葉のアシストをする人間は俺が勝手に選びますよ」
相川はうなずく。塩沢はため息をつくと、事務所を出た。勝手に選ぶと言ったものの、実際に条件に合致する知り合いは他にはあまりいなかった。何とか彼を説得するしかない。
*
浦沼駅から、しばらく歩いたところにその家はある。表札には雨野と書かれており、それなりに大きな一軒家だ。しかし、住んでいるのは十代の若者三人だけである。
インターホンを鳴らすと、ドアが開く。
「三条、今日はお休みでいいって言ったはずでしょ」
「すみません。時間が空きました。今日もよろしくお願いします」
霧矢に向き合っている吊り目の女性は、雨野光里といい、県立浦沼高校の生徒会長である。霧矢よりも一つ上の上級生である。
かなりの暴君タイプの生徒会長で、腕力ならば学校一強く、会長では歴代最凶とされる。その腕前は、何人もの武器を持ったチンピラを一分足らずで、こちらは無傷のまま、殺さずに戦闘不能に追い込むほどであり、また、契約主と魔族、二対一の状況で手加減しながら互角、いや有利に戦いを繰り広げることができる。
ゆえに、霧矢は彼女を自分の師匠として選んだ。殺さずに敵を倒す方法を身につけるために。
「……いいわ。でも、自分の体も気遣った方がいいわよ。私は手加減しないから、限界が来たと思ったら、すぐにやめなさい」
霧矢はうなずく。雨野はコートを羽織ると、靴を履き庭に出た。
雪の積もった庭先で、雨野と霧矢は向かい合う。
「じゃあ、まず、いつも通り、私の攻撃を受け流すところから。段々スピードを上げていくから、ダメージを受けないように、しっかりとついてきなさい」
霧矢は身構えると、雨野が動く。
先に、霧矢の肩を狙う正拳が飛んでくる。霧矢は避ける。そのまま、雨野は左足で霧矢のすねを蹴ろうとするが霧矢は雨野の足を逆に払う。
しばらく防ぎ続けていたが、ついに雨野の動きのスピードが霧矢を上回る。右足から繰り出された蹴りが霧矢の腹部をとらえる。そのまま、霧矢は痛みに耐えかねうずくまった。
「少しは、反応がよくなってきたわね。でも、これじゃまだ弱いまま。相手にやられる」
歯を食いしばって、霧矢は立ち上がる。
「…まだ…まだ…いける……続きを…お願い…します」
雨野は感心半分、心配半分の表情で霧矢を見つめると、再び身構え、霧矢に向かって動いた。