社会の表と裏、上と下 9
(……ここだな)
指定された待ち合わせ場所に着くと、霧矢はあたりを見回す。人が多すぎて、誰が誰なのかわからない。その点は、さすが東京と言うべきだろう。
もう少し、人の少ないところを待ち合わせ場所に指定してほしかったと内心で思う。霧矢は、水葉の写真を持っておらず、誰なのかはわからない。つまり、むこうから話しかけてきてくれるのを待つしかない。
(……ここで間違いないよな)
約束の時間はちょうど今だ。これで現れなければ、塩沢と連絡を取るしかない。もっとも、雪のせいで交通機関も多少乱れ気味になっているので、仕方ないのかもしれない。
息を吐くと、霧矢はベンチに腰掛ける。道行く人を眺めると、まさに師走といった感じだった。今年は残り半日もない。年を越すためにいそいそと歩いていた。
しかし、突然、人の流れが変わる。いきなり、人は霧矢のまわりから離れ、まるで霧矢のまわりの空間を切り取ったかのように、避けて歩き始めた。
(……何だ…これ?)
しばらくすると、通路から人の影さえ消え、霧矢のまわりは完全に無人状態になった。今の霧矢には別に驚くことでもない。どういうことが起こったのか大体予測がつく。
「古町水葉さんですね?」
霧矢が一人話すと、ゆっくりと、コートを着た二十代半ばほどの女性が近づいてくる。霧矢はベンチから立ち上がった。
「初めまして。私は古町水葉。話はいろいろ聞いているわ。三条霧矢君」
霧矢は彼女の差し出した手に応じる。握手を交わすと、彼女は霧矢に向かい合う形でベンチに腰を下ろした。霧矢も同じように座る。
「古町さん、今のはあなたの異能ですか?」
「私のことは水葉って呼んでくれていいわよ。そう、ちょっとしたカードの術で、あなたのまわりの空間に人払いをかけたの。効果はあんまり長く続かないけど」
塩沢の仲間とは思えないような、温和な雰囲気の女性だった。霧矢は戸惑いを隠せず、首を回す。妙な気分だった。
「とりあえず、クライアントに会いに行こうか。車を手配してあるから、ついてきてちょうだい……ん? どうかした?」
「いえ……雰囲気的に水葉さんが塩沢の元パートナーだなんて信じられなくて……」
水葉は曇った笑顔を浮かべた。
「…まあ、そう思うかもしれないわね。でも、昔は雅史もそんな性格じゃなかった。でも、あの事件が起きてから、どうも性格がどんどん残酷になっていって、最終的には、私とのコンビを解消して、一人で仕事をするようになったのよ」
「あの事件って、クリスマス・イブのガス中毒事件ですか?」
彼女はうなずいた。霧矢は息を吐く。
「うちの会長から聞きました。塩沢の過去にガス事件が関わっているらしいって」
「……後輩や友人を亡くしてるのよ。リィさんの弟を含めた仲間を。彼は、私と一緒に、テロ事件の調査をしていたけど、上手くいかなかった。結局、あんなことになってしまった」
霧矢は黙って聞いていた。しかし、あることにも思い当たる節があった。
「……水葉さん、あなたは、異能を使える事務所のメンバーだ。だったら、今年のイブ、事件の関係者を殺したんですか?」
「……ええ。殺したわ。十二月二十四日、午後八時五十三分。同時刻に、一人始末した」
「…人を殺すってどんな感じですか? 塩沢に聞いても、あんまりしっくりくる答えを言ってくれない。あなたはどんな感じがしましたか?」
塩沢にとって殺人はもはや呼吸をするのと同じことで、別に何の感触を持つものでもないとかつて答えていた。しかし、霧矢はそんな答えに納得できるわけもなかった。きちんとした答えが聞きたい。
塩沢は霧矢にとって頼りにできる存在であることは事実だ。しかし、その信条まで共感しているわけではない。彼の考え方は霧矢にとって理解できるものではない。
「そうね……案外あっけないものかもしれない。私みたいに異能が使える場合は特にね。ただ、その重みはずっと背負っていかなければならない。正義のために、殺人を犯す場合はそう。純粋な悪人は殺した重みを耐える必要はないけど、多少なりとも良心がある人間なら、差異こそあれ、背負うものはあるの」
「そういう重みは、苦しいですか?」
「自分が、正しかったと思うのであれば、苦しくなんてないはずよ。事実、救世の理のメンバーは教えが絶対なのだから、それは正しいと思い込める。だから、苦しいなんて思っていないのよ。それは殺しに限った話じゃないわ」
霧矢は水葉の顔を見る。彼女の言葉が正しければ、霧矢はあることを見い出せた。
「でも、あなたは正しいと思えないこともあった。苦しそうな顔をしてます」
「宗教的な支配みたいな狂信状態にあるわけでもない限り、善の下に殺人を犯すことは、常に自己矛盾のジレンマを抱え込んでいる。だから、根っからの悪人や洗脳された人間ならばともかく、私たちはその苦しみを常に抱え込んでいるの。雅史だって、隠してはいるけど、感じているのよ。罪悪感を」
霧矢もそれは理解している。悪を以て悪を制するとはいえ、それはやはりすんなり通らないものがある。平気な人間がいるとすれば、それはもはや、その境地に達した人間をやめた存在と言うべきだろう。
(……霜華も、その苦しみを抱え続けているんだろうな)
霧矢は目を閉じると、一呼吸置いて立ち上がった。
「ありがとうございました。勉強になりました。あなたは塩沢と違って、人間味のある人です。今回のパートナーが、そういう人でよかったです」
「どういたしまして。あなたも、雅史の影響を受けすぎてなくてよかったわ」
微笑を浮かべると、水葉も立ち上がる。
「それじゃ、行きましょうか。クライアントの下へ」
「はい!」
*
「しっかし、東京っていうのは、人が多いものだよう」
「でも、私としては、この程度で電車が動かなくなるというのが、やっぱり情けないと思うのよね。ケガ人だって出ているみたいだし」
風華が東京のあまりの人の多さに酔ってしまったので、霜華と理津子は、人があまり多くないところにやってきた。神田駅を出て、ひなびた街並みを歩く。
「東京にもこんな景色があるんだ」
霜華と理津子に挟まれながら、風華はキョロキョロと街並みを見回している。
「大学時代、私はここの近くに下宿してたのよ。親戚が昔ここに住んでいてね。寄せてもらっていたの」
学生の身分で東京都心に住めたというのは、非常に幸運なことだった。多くの友人は、家賃の安い郊外から、満員電車に乗って通っていた。
「雪もやんできたし、ここから浅草まで歩こうか。距離も大したことないし」
「浅草って、何があるの?」
風華が興味深そうな表情を浮かべた。霜華は本などで大体のことは知っているようだが、風華はまったく東京について知らない。理津子は微笑むと、
「行ってみてのお楽しみよ。人がちょっと多いけど、見る価値はあるわ」
風華はうなずくと、軽い足取りで歩き出した。