冬の結晶
三年前、僕はとあるコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。
大学と実家の通学路の途中にあり、募集している時間帯も夜の八時から十二時までとそれほど長くなく、何かと都合がよいという理由だけで決めたバイト先だった。オーナーもさほど気難しい人ではなかった。昔に流行ったような大きな丸眼鏡の位置を執拗に直しながら、僕を採用した基準は「茶髪じゃなく、ピアスもしていなかったから」だったというごく単純な理由を話してくれた。そんなオーナーの口癖は「アルバイトは別にできる人間じゃなくていい。ごく一般的な常識さえ持ち合わせてくれりゃあ、たいていの奴はそれなりに働いてくれる」であり、その言葉を表わすかのように、他のアルバイトの面々も至極一般的な人々がそろっていた。専業主婦の合間に小遣い稼ぎをしているおばちゃん、僕と同じように、いくばくかの遊ぶ金を得るために時間を費やす大学生、それなりに稼がなければいけないからと長時間勤務しているフリーター。
そんな中で、僕の気を惹いたのは二人。その一人が赤本さんだった。
赤本さんは僕よりも七つ上の二十五歳で、がっちりとした肩幅は格闘家のような雰囲気を醸し出していた。
勤務初日、オーナーは制服に着替えた僕を連れて赤本さんの下に向かい「よろしく頼んだぞ」と声をかけ、そのまま事務室に戻っていった。残された僕を、赤本さんは舐めるように頭のてっぺんから爪先まで眺め、おもむろに肩を叩いてきた。「まあ適当にな」の一言で、他にはなにもなかった。だから僕も、適当に店内を掃除して、見よう見まねで商品の陳列を直した。
一通り掃除を終え、事務室に戻ると、赤本さんが机に向かってなにかを書いていた。オーナーはすでに帰宅したようだった。
「掃除とか、終わりました」と声をかけると、赤本さんは顔を起こして「おお、お疲れ、新人」と片手をあげた。
「武藤です」
「うん?」
「武藤です。名前」
「武藤か。じゃあ、ムッチーでいいな」
その時から、僕のバイト先でのあだ名はムッチーになった。
「何を書いてるんですか」
店内に客がいないことを確認しつつ、赤本さんの手元を覗き込む。黄色い紙に、髪の薄い眼鏡の男が『旨い! メロンクリームパン新発売!』と叫ぶ姿が、何色ものマジックを使い描かれていた。
「オーナー。似てるだろ」
言われてみると、男は確かにオーナーの姿に似ていた。叫んでいるのに、どこか哀愁が漂っているのが可笑しかった。
「今日の夜から入る新商品なんだけどな。オーナーがなにを思ったか、三十三個も注文してるんだよ。俺はどう考えても三個を打ち間違えたと思ってるんだが、いまさら返せるわけでもなし、これで売れないと捨てちまうしかないしな」
そういえば、店内を掃除している最中にもいくつか手書きのポップを見かけた。そのすべてを赤本さんが手作りしているようだった。
「うまいですね」いまだに客は来ないようだった。僕はポップを指差して言う。「オーナーそっくりです」
赤本さんは苦笑いを浮かべ頭を掻く。
「こんなの、落書きみたいなものなんだけどな」
「そんなことありませんよ」
「まあいい。まだ仕事中だ、ほら、表にでるぞ」
そう言うと、書き終わったポップを片手に事務室を出ていった。
褒められたことが嬉しかった、のかどうかはよくわからないけれど、それからというもの、赤本さんはよく僕に話しかけてくるようになった。勤務時間帯が似通っていたのもあるのだろう。仕事の合間や仕事を終えた後、僕らは様々な話をした。
たとえば、このコンビニエンスストアが潰れそうだという話。
この店舗は、脱サラしたオーナーが、近くにある高校の学生を狙って始めたのだが、その高校は市内の高校の統廃合により、最近なくなってしまった。近くには住宅街もあるけれど、立地条件が悪いのか、利用者はさほどいないらしい。確かに、客足が伸びていないことは勤務初日からうかがえたことだった。
「潰れそうな店にわざわざバイトに来るバカはどんなやつかと思ってたんだが、まさかなにも知らないだけだったとはな」
「本当になにも考えていませんでした」
「無知は罪だぜ、ムッチー。あ、いいな。無知だからムッチー」
僕のあだ名に、もう一つの意味が加えられた。
そういう赤本さんの目標は画家だということも聞いた。
一枚だけ、描いたものを見せてもらった。どこかの高原だろうか、一本の桜が見事なまでに咲き誇って、背景の山並みと見事にマッチしていた。
「凄いですね。まるで写真みたいです」
それは僕としての最大限のほめ言葉だったのだが、赤本さんは「そうか」と気のない返事をしただけだった。
僕らの他にも、夜間担当のバイト仲間はいたが、赤本さんはあまり彼らを好んではいないようだった。
「あいつらは、どうやって仕事の手を抜くかしか考えてないからな。いくら客が来ないとはいえ、だらけるにも程がある」
無精ひげをはやし、一見だらしない赤本さんだが、仕事は丁寧で素早かった。根が生真面目なのだろう、他人にも厳しくあたることがあり、僕も時折注意をされた。「怒ってくれる人がいるうちが花だぜ」が、赤本さんの口癖だった。
そんな彼が、職場で唯一認めているのが『スミちゃん』だった。
スミちゃん。正式名称は須美早苗。朝の六時からお昼までの勤務のため、会うことはなかったけれど、どこか気になる人だった。
理由の一つは赤本さんだ。朝まで勤務することも多い彼はよく須美さんとも仕事をするらしく、「スミちゃんはたいしたもんだよ」とことあるごとに口にしていた。
「仕事はキチンとこなすし、素早くて正確で文句の付け所がないね。それに毎朝笑顔なんだよ。仕事なんて続けてりゃやりたくない日だってあるだろ。それが朝っぱらならなおさらだよ。でも、スミちゃんが笑顔じゃない日なんて、俺の知る限りないぜ。たいしたもんだよ」うん、たいしたもんだ、と赤本さんは自分に言い聞かせるように繰り返す。「ただ、どっかこう、謎めいた感じもあってな。底が知れないっていうか。いや、別に怖いってわけじゃないんだけどな。歳もよくわからなくてな。見た目は俺よりも若そうなんだが、なんかこう、変わった魅力があるんだよ。人物画はあまり描かないけど、スミちゃんは一度描いてみたいね」
赤本さんにここまで言わせる人とはいったいどんな人なのだろう、と俄然興味が湧いた。
気になったもう一つの理由は、日誌だ。職場では、店員が業務の引き継ぎなどを行うために、業務の終わりに日誌を付ける。たとえば新製品の陳列に関してだったり、客からの要望をオーナーに伝えるためであったり。
という使われ方は、しかし、めったにされない。だいたいは「疲れた」といった感想や「最近涼しくなってきた」といったごく個人的な意見が書き込まれているのだった。
須美さんは週六で働いているようで、僕が出勤するとたいてい彼女の書き込みがあった。そして、その書き込みには法則のようなものが存在した。
たとえば、彼女が『明日は雨』と書けば、まず間違いなく雨が降る。天気予報が大雨だと叫んでも、彼女が『明日は降っても小雨。それもすぐにやむ』と書けば、彼女の言うとおりなった。
この法則に気づいているのは僕だけのようで、誰も疑問に思うことがないようだったが、どんな天気予報よりも正確に天気を当てられるなんてあり得るのだろうか。
ある日、またも彼女の雨予報を日誌で見つけた僕は、その脇に小さく書き込みをした。『どうしてわかるんですか?』
翌日、返信が書き込まれていた。『雨の前日はまゆ毛がいつもより重くなるのです』
なるほど。彼女はまゆ毛で予報する。
『大雨と小雨の違いも、まゆ毛の重さの違いで分かるんですか?』
気になったことを付け足す。翌日、再び少し癖のある丸字で返信があった。
『レディに重さのことを聞くとは、なってないよキミィ』
まゆ毛の重さですら、女性に尋ねると失礼にあたることを学んだ。
順調に月日は流れていた。大学に入って初めての試験を終え、夏休みに入ると、コンビニはクーラーの効いた天国へと変貌を遂げ、特に予定もなかった僕はほぼ毎日バイトをしていた。
赤本さんは、「絵を描きにいく」と言い残して月に一週間程度、決まって給料日の後にどこかに出かけているようだったが、絵が完成したという話を聞くことはなく、淡々と仕事をこなしていた。
スミちゃんは、いまだ会う機会はなかったけれど、相変わらず天気の予報をしていた。彼女の予報手段はまゆ毛だけではなく、髪の毛のウェーブ具合で判断する時もあれば、『いらっしゃいませ』の発音がうまくできるかどうかで分かる時もあるらしいことを知ったが、どんな方法にしろ、彼女が天気予報を外すことはなかった。
コンビニエンスストアへの客足も相変わらずだった。バイトの同僚が一人辞めたが、補充されることはなく、必然的に僕らの仕事は少しだけ増えた。
いずれも些細な変化で、すべては日常だった。
そのまま、秋が訪れた。
コンビニエンスストアのおでんは、実は秋に一番売れるらしい。本当に寒い冬よりも、寒くなってきたな、と感じる秋の方が暖かいものをより欲しがるらしく、相変わらず客数が伸びない我がバイト先でも、おでんはそれなりに売れるヒット商品だった。
「スミちゃんが辞めちゃったんだよな」
おでんの出汁の味を確認しながら、赤本さんがつぶやいた。世間話の延長線上にあるような、抑揚のない声だった。
「辞めちゃったんですか」
「ああ。オーナーに聞いたら、もともと今月末までの契約だったらしいんだけど、どうしてもやらなきゃいけない用事ができたって懇願されたんだってさ」
どうしてもやらなければいけない用事。僕はスミちゃんのことを考える。日誌でやり取りをしていながら、僕らはまだ会ったことがない。僕にとってスミちゃんのイメージは『天気予報の人』だった。
相変わらず客がいない店内から外を眺める。色づいた街路樹に、冷たい北風が吹きつける季節になっていた。
「そろそろ、北海道では雪が降る季節ですね」
「あ? ああ、そうだな」
「きっと、雪の予報を誰かに伝えにいったんですよ。明日はここに雪が降るでしょう。明後日はこっちに雪が降るでしょう。ほら、早く車のタイヤを取り替えないと、コートを買うなら今のうちですよ、って」
赤本さんは、きょとんとした表情で僕を見て、「スミちゃんも変わってると思ったけど、お前も大概だな」としみじみといった。
「赤本さんも、画家には変人が多いって言いますけど、そう見えませんよ」
「言うようになった」
赤本さんはにやりと笑い、僕の肩を強く叩いた。
やはり、日常の範囲内だった。
それから数日して、オーナーがこの店を閉めると言い出したことも、ほぼ毎日客足を眺めている立場からすれば、決しておかしな決断ではなかった。
オーナーは、市内の別の場所に建てられるチェーン店を任されそうだと話し、赤本さんと僕を誘ってきた。
赤本さんは「そうだな。別に行くあてもないし、それでもいいさ」と乗り気だったが、僕は丁重に断った。新しい店舗は、大学から見て僕の家と正反対の方向だったからだ。
「バイト辞めてなにするんだ?」
赤本さんの問いに、僕は思案する。バイト代を使うあてもなかったため、それなりの貯金はできていた。かといって、特にこれがしたいと言うものはなかった。
「冬の間は、冬眠しようと思います。幸い、それなりにお金も貯まりましたし」
「食料でも買い込むのか?」
「いえ。本が数冊あれば、コタツという名の穴倉に引き篭もれます」
赤本さんは笑って僕の肩を叩いた。彼にとっては、肩を叩くという行為が友情の証のようなものなのかもしれない。
「そうだ。携帯の番号、教えてくれ。機会があったら、飲みに誘うよ」
「そうですね。赤本さんの絵が売れたら、おごってください」
そうして、携帯電話の番号を交換する。僕から連絡することはまずないだろうなと思う。けれど、彼と酒を酌み交わす姿を想像して、悪くないなと思う自分もいた。
かくして、コンビニエンスストアは閉店した。閉店したら、今まであったコンビニチェーン特有のカラーリングは一瞬のうちに剥がされて、味気の無い白い箱と化した。
大学からの帰り、僕はいつも跡地の前を通る。近所のおばさんたちが「便利だったのに、つぶれちゃったのね」と立ち話をしていた。
そう思うなら、もっと来てくれていればよかったのに。あなたがたが毎日通ってくれていれば、それだけで潰れずに済んだんですよ。そう言ったら彼女たちはなんと言うのだろうか。えぇ。だって、コンビニって高いじゃない。主婦の感覚からすれば、そのような台詞だろうか。
結局、コンビニエンスストアはこの場所に合わなかったのだ。北風に吹かれながら、僕はそんなことを思う。
今日は雪が降りそうだ、とテレビが叫んだ日の夜。僕は、コタツに埋もれながら本を読んでいた。バイトを終えてから、五冊の本を買った。一冊は天気予報を含めた気象に関する本で、もう一つは絵画に関する本。何気なく購入してから、僕は案外あのバイト先が気に入っていたのかもしれないな、などと考えた。
絵画に関する本を読んでいたら、携帯電話が鳴り始めた。手に取ると、見慣れた液晶ディスプレイに、見覚えのない番号が表示されていた。
「もしもし」
『もしもし。やあやあ、元気だったかい』
やたらと明るい女性の声が響いた。
「どちら様ですか」
『なんだいなんだい。あたしの声がわからないなんて、なってないよキミィ』
「わかりません。お間違えではないですか」
『む。あたしだよ、スミちゃんだよ』
スミちゃん、という単語は僕を覚醒させた。思わず体を動かしてしまい、コタツの上のみかんが床に転がった。
「須美さんですか。あの、バイトの」
『そうそう。いつの間にかコンビニ潰れちゃったんだね。びっくりしたよ。帰ってきたら青色だった建物が真っ白になってるんだもんね』
少なからず僕は混乱していた。須美さんとは、実際にあったこともなければ、話したこともない。携帯電話の番号を交換しているわけもない。そのことを問うと、須美さんは『あれ、話したことなかったっけ』と言いつつも、番号は赤本さんに聞いたと教えてくれた。
『赤本っちと話してたら、君の話になってね。ああ、赤本っちは元気そうだったよ。相変わらずオーナーの似顔絵をポップにして飾ってたよ。あれは才能だね。あの絵をみて、本物のオーナーを見ると、こう思わずにやけてしまうような愛嬌があるよね、あの絵は。赤本クンもさ、早く絵画なんてものには目処をつけて、漫画とか、そっちの世界に進めばいいのにって思うよ』
「漫画ですか」
『おうよ。漫画だってアートだよ。それを認めないのはただの頑固なバカなのさ。赤本っちもちょっとそういうところがあるんだけどねえ。見たことはあるかい、赤本っちの絵』
畳み掛けるような須美さんの声に、僕は流されるように思考を変える。赤本さんの絵。僕が見たことがあるのは、桜を描いた風景画一枚だけだった。
「すごい、綺麗な風景画を見たことがあります」
『綺麗、か。確かに綺麗だよね、赤本っちの絵はさ。きめ細かい筆づかいとか、間違いない色使いとかすごいと思うよ。まねできないよね。で、他になにか感じたかな』
他に、と言われて、絵を思い出そうとする。鮮明に、とはいかないまでも、徐々にイメージが輪郭を帯びていく。綺麗な風景画だった。そう、まるで――
「写真みたいな感じでした」
『そう。そこなんだよね』
大真面目に須美さんがうなずく姿が目に浮かんだ気がした。
『赤本っちの絵は綺麗だよ。写真みたいって言っても過言ではないよ。それはすごい才能だと思うよ。でもさ、絵って、それでいいのかな。写真みたいな絵と、写真と、違いがなかったら写真でいいじゃない。写真なら誰でも撮れるよ』須美さんは興奮しているかのようにまくし立てる。『絵ってさ、綺麗とか、そういう以上に何かを込めないといけないと思うんだよね。赤本っちは、残念だけど、そういうのがないんだよね。すごい上手に空間を切り取って、それを写し取るように描ける才能には恵まれてるけど、そこから何かを感じられるようなものは描けない。見たものを圧倒するほどの威圧感もなければ、どこか安らげるような柔らかさも感じられない。いわゆる絵画じゃあ、赤本っちは一流にはなれない』
須美さんが言うことは、どことなく理解できた。とても綺麗な絵。でも、それだけの絵。絵を見せてもらった時を思い出す。僕は「まるで写真のようだ」という言葉で、赤本さんの絵を褒めた。けれど、彼は少しも喜びを口にしなかった。僕の言葉は、たんに「よく描けてますね」と言っただけなのだと、いまさらながらに気づく。
『でも、赤本っちが描いたポップのユーモラスな感じとかさ、あーゆーのは誰にでも描けるものじゃないよ。そっくりで、思わず笑っちゃうような、柔らかな絵だと思うんだよね。だから、あたしは結構前からそっちの道に行けって言ってるんだけどね。なかなかこれが頑固でね。もう一度だけ、もう一度だけって懲りずに風景描いてるんだよね。さっき会った時もさ。あたしを描かせてくれって言うから、じゃあオーナーの絵みたいに描いてくれ、って頼んだら、すごい嫌そうな顔してさ』
須美さんは楽しそうに話を続けている。僕はというと、いまだになぜこの状況におかれているのかが理解できていなかった。
「あの、須美さん」
『うん、なんだい』
「どうして僕に電話してきたんですか」
素朴な疑問だった。同じところでバイトをしていた、けれど一度も会ったことも話したこともない人間に電話をしてくる理由とは、いったい何なのだろう。
『そうだねえ』須美さんは少し考えるように間を置き『興味があったってとこかな』とつぶやいた。
『あのバイト先で、私は日誌に天気のことを書き続けていたけど、気づいたのは君だけだったからね。いや、気づいていたけどみんな言わなかっただけなのかな』
少なからず、日誌でのやりとりは僕らの間に何らかのつながりを作り出していたらしい。決して、嫌な気分ではない。そんなつながりが、たまにはあってもいい。
「本当はどうやって天気を占ってるんですか?」
『それはだね。こう、眉間に皺を寄せるでしょ。雨の日だと、その皺が増えるんだよ』
「それって、歳を取るとずっと雨になるんじゃ」
『むぅ。キミは本当にレディに対してなってないね』
見たこともない彼女が、不満そうに唇を尖らす姿が頭に浮かび、思わず笑みがこぼれる。
「それじゃあ、そうですね。今日は初雪が降りますかね」
『うん。降らせるつもりだよ』
ボタンを掛け違えたかのような、違和感。
「降らせる、なんですか。まるで、雪は須美さんが降らせてるみたいですね」
『ああ、うん。初雪だけはね。あたしの仕事なんだよ』
須美さんは何事もなかったように言い放つ。これは彼女なりのジョークか何かなのだろうか。
「いったいどうやって雪を降らせるんですか?」
話を合わせると、彼女は嬉しそうに声をはずませた。
『ふっふっふ。本当は企業秘密だけど、教えてあげよう。ある時期になるとね、山に雪の種が下りてくるんだよ。私はそれを探して、街に持ってくる係なのさ』
雪の種。運ぶ係。企業とはなんだろう。混乱している僕を尻目に、須美さんは言葉を続ける。
『上空が寒くなれば、雨が雪へと変わるってのも、理屈としては間違っちゃいないよ。雨は夜更け過ぎに雪へと変わるからね。でも、それだけじゃないんだよね。初雪だけは、運ぶ人がいるんだよ。私はこの街の担当だから、他の人なんか知らないけどね。もしかしたら、人じゃなくて動物が運んでいるのかもしれないし。トナカイが空を飛びながら初雪を降らせたりとかさ。あれ、トナカイって空飛ばなかったっけ。まあいいや。ともかくね、種がないと、初雪は降らないんだよ。これは絶対。あたしは、山に種が届いたら、それを受け取りにいくのさ』
「へぇ」それくらいしか言葉が出てこなかった。「そうなんですか」
『ああ、その言い方は信じてないなキミィ』
「と、言われましても」
雪は種から生まれる。雪を降らせる人もいる。それも、何人も。もしくは何匹も。学校の教科書は、そんなことは教えてくれない。
『じゃあ、特別にキミの希望を聞いてあげよう』須美さんは言った。『いつ、雪を降らせようか?』
初雪を降らせることができる。それは初雪を降らせないことができると同義なのだろう。僕はテレビをつける。ちょうど、天気予報が流れていた。今日の夜が雪。明日は曇。明後日から三日間は、快晴。
「三日後ではどうですか」意地悪なことをしてみる。たとえ今夜雪が降らなくとも、天気予報で晴れの日、しかも快晴が続いている間に初雪が降るとはあまり思えない。
『三日後だね』そんな僕の考えを知ってか知らずか、須美さんがうなずいた、ように思えた。『わかったよ。三日後、楽しみにしてやがれっ』
捨て台詞のような言葉を残して、電話が切れた。
いったい、須美さんはなぜ僕に電話をしてきたのだろうか。結局、彼女の目的がわからなかった。いや、目的などないのかもしれない。赤本さんと話をした後に、気まぐれで当時のバイト仲間に電話をかけまくっているのかもしれない。
僕とは天気の話でつながりがあった。ちょうど今は初雪の季節でもある。だから、そんな作り話をしたのかもしれない。
いや、本当に作り話なのだろうか。唐突に赤本さんの言葉を思い出した。
――どっかこう、謎めいた感じもあってな。底が知れないっていうか。
謎。いったい何が謎で、どこまでが謎なのか。それすらも分からず、僕は携帯電話を放り投げて、またコタツにもぐりこんだ。
その夜、夢を見た。
見たこともない女性が、夜、どこかの河川敷に立っている光景。
土手の外灯に淡く照らし出された彼女の手元には、小さな瓶。お土産屋にある、星の形をした砂が入っているような、透明な小瓶。
瓶の中にあるのは、よくよく目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、半透明な雪の結晶。
彼女は瓶のふたを取る。
結晶はふわりと浮かび上がると、ゆらゆらと揺らめきながら瓶を抜け出し、そのまま上空の闇へと姿を消していく。
全てを見届けて、女性は立ち去っていく。
そして、夢は終わりを告げる。
電話がきた夜。雪は降らなかった。
電話から三日後、街に初雪が訪れた。
「お久しぶりです」
僕が声をかけると、赤本さんは商品を袋に入れていた手を止め、顔をあげた。いぶかしげな表情は、すぐに見覚えのある親しみやすい表情に変わった。
「誰かと思ったら、ムッチーじゃないか。久しぶりだな、何年ぶりだよ」
「もう三年になりますか」
「三年か、早いもんだな」
当時のオーナーが新たに任されたというコンビニに、僕は初めて立ち寄った。別に用事があったわけでもなくて、ただ気が向いたというのが一番しっくりくる。ただ、どこかで、もしかしたら赤本さんがいるんじゃないかと思っていたのは事実だった。
僕は店内を見渡す。まだまだ新しさの残る店内に、人影はほとんどなかった。
「相変わらずだろ」赤本さんは手早く荷物を袋に入れながら言う。「オーナーの才能が無いのか、俺が疫病神なのかわからないけど、まあこっちもそう長くないんじゃないか」そういって、あっけらかんと笑った。
「そういえば、見ましたよ赤本さん」
思い出したように話しかける。赤本さんは、二年前からタウン誌に四コマ漫画を掲載していた。とあるコンビニの日常をコミカルに描いたもので、登場人物は、オーナーに、スミちゃんに、ムッチー。あまりにもそのまますぎて、読んだときは思わず笑ってしまった。評判も良いようで、近々単行本化するという話も聞こえている。
「ご活躍のようで何よりです」
そう言うと赤本さんは、よせやい、と照れたように頬をかいた。三年前の彼なら、漫画絵を褒められて照れることはなかっただろう。その変化に、僕は明らかな年月を感じる。
「まあ、まだあれだけで食っていけるわけでもないしな。本当は出演料払わなきゃいけないんだろうが、悪いがもう少し待っていてくれ」
「ええ、楽しみにしてます」そういいながら、僕はもう一つ、用意していた質問を口にする。「そういえば、須美さんとはまだ連絡はとっていますか」
「スミちゃんか」赤本さんは腕を組み、遠くを見るような目つきになった。「ムッチーと同じくらい会ってないはずだな。最後に会った時にも俺に漫画の道に進めってしきりにいってくれててな。今の俺がいるのもスミちゃんのおかげって気がするよ」
たぶん、気のせいじゃありませんよ。なんとなく、そう言いたくなった。赤本さんが漫画の道に進んだことも、僕が天気予報の勉強を始めたことも、そして来春から気象庁で働くことになったことも。全ては彼女から始まっていることなんですから。
そのあと、二つ三つ言葉を交わし、僕はコンビニを後にした。外の空気は痺れるように冷たく、白い息を吐きながら僕は三年前を思い出す。
三年前、初雪が降ったあの日、僕の携帯に一件のメッセージが録音されていた。
『どうだ、みたかっ』
たったの一言。以来、須美さんとは言葉を交わしていない。
あの日も、こんな寒さだったように思う。
冬が近くなるたび、僕は須美さんを思い出す。
初雪が降るたびに、彼女は無事に仕事を果たしたのだと、ほっとする。
きっと、これからもそれが続いていくのだと思う。彼女に出会える日が来るとするならば、それは僕が雪の種を発見した時だろう。須美さんよりも早く雪の種を発見して、それを取りに来た彼女に、僕は言うのだ。どうだ、みたかっ、と。
そのとき、彼女がどんな表情をするのだろうと想像して、僕は軽く、笑みを浮かべる。
いったいこの小説のキーワードはなんなのか。書いた本人でもわかりません。ジャンルってなんですか。
メリハリのついた作品もいいですが、たまにはぬるめの紅茶のようなものもいいと思うんです。これがそうなっているかどうかは別として。