03頁 「籠鳥雲を恋う」
自信なさげなユニの目を見て、ベッドから上半身を起こしたフランシスカはきょとんとする。その後に薄笑いを浮かべながら、ドアのそばに控えているノーラに目を向ける。
「ねぇノーラ。生まれたばかりの黒猫はそんなことも忘れているの?」
「前世の記憶がある奴はいいけど、それ以外の生まれたばっかの黒猫は阿呆だよ。頭の中はほとんど白紙状態だ」
「そう。まあいいわ。私は黒猫については知り尽くしているの。だから黒猫のことを教えてあげる。
まず黒猫は私達人間とは違う。別の生き物よ。頭の耳とお尻の尻尾を見れば分かるでしょう? あなたの頭の耳と尻尾が黒猫である証」
ユニは反射的に頭に触れて猫耳を握る。こんな巨大でぴくぴく動く耳も、細かな毛で覆われた尻尾も、ベスやクロフォードやフランシスカにはついていない。それに、黒い髪や目もユニが見てきた人間達とは異質だ。
「黒猫がどうしてこの世に生まれてくるのかは誰にも分からない。仮説はいくつもあるけれど、どれも疑わしいものばかり。黒猫についてはっきり分かっていることは、人間を楽に死なせてくれるということ」
「楽に、死なせてくれる?」
「そう。人が頼めば、黒猫は死にたい人間を天に連れていってくれるの。いっさい苦しみが伴わない、慈悲深い死。死体も服も何も残らないの。黒猫はそういう能力をもっている。ユニにもその力があるわ。私がユニに死なせてと頼めばユニは私を殺せるはずよ」
ユニは不思議な気持ちで自分の小さな手を見つめる。この非力な手がどうやって人を殺すというのだろう。ハミルトン家に生まれる前もどこかで黒猫をやっていて、頼まれるがままにたくさんの人を天に連れて行っていたのだろうか。
「この街の名前はメメントモリ。ほんの少しの黒猫が住んでいる人の街よ。黒猫は天の使いと信じられているから人々に愛されているし、逆に畏れられてもいる。人の死にまつわる存在だから恐がられても仕方がないけれど。私は黒猫って好きよ。可愛らしいし、能力も魅力的」
フランシスカはユニとノーラを見て軽く笑うが、少し話しただけでもう息が切れてきている。額にも汗が浮かび、見るからに辛そうだ。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いんですか?」
「ああ、心配しなくても大丈夫よ。どうせそのうち死ぬから」
笑い飛ばすフランシスカの目に宿るのは、死への恐怖ではなく、純粋な諦観。彼女はもう己の死すべき運命を受け入れてしまっている。身近な死にすっかり憑かれてしまっている。
「生まれつき胸が悪くてね。小さなころからだんだん悪化して、いつ死んでもおかしくない状態なの。もう恐がるのにも、泣くのも飽きたの。死ぬのは恐くないわ。べつにいつこの世から消えても良いの。黒猫に殺してほしい。それが私に残った、ただ一つの生きる理由よ」
理想の死に方を求めるために、今にも消えてしまいそうな命をつなぎ止めている。フランシスカがどうしてそんなことをするのか、生まれたてのユニには理解できない。それに、黒猫ならすぐそばにノーラがいる。ユニは首をひねって後ろのノーラを見ると、「ノーラはノーラでいいのだけれど」というフランシスカの言葉で顔の向きを元に戻す。
「私は黒猫が好きよ。だからノーラをこのハミルトン家に置いているの。黒猫は街の共有財産だから個人が独占するのはいけないことだけれど、お父様が何とかしてくれた。お父様は金持ちで、一応の名士だから」
「ま、ここは良い家で住みやすいし、食事も美味しいからあたしに不満はないけど」
「そうそう、ユニ、ダルジャンヌには会った? 背中に手のひら位の羽がついてて、頭に光るわっかが浮かんでいる女の子……」
ユニが恐る恐るうなずくと、フランシスカはけらけらと笑う。
「あの子も私のお気に入りなのよ。ほら、ダルジャンヌってけっこうイカれてるでしょう? 私と同じみたいで面白いのよ」
あのダルジャンヌをそばに置いて養って、いったい何が楽しいのかユニには分からない。対人経験がほぼゼロのユニでも、このフランシスカという少女が人間の平均的な価値観からいちぢるしく逸脱した精神の持ち主であることがうかがえる。
「ユニ。あなたに興味があるわ。新生の黒猫のあなたにね。このまま病気に殺されるのは御免だけれど、自分の意志で自分の生に幕を下ろせるのなら満足なのよ。でも、黒猫なら誰でもいいわけじゃない。私は黒猫に、私を殺す資格を求めるの」
「殺す、資格ですか……?」
「つまらない黒猫、何の美学も哲学ももっていないどうでもいい黒猫に命を差し出したいとは思わないの。だってそうでしょう。どうせ命を持って行かれるのなら、好ましい相手がいいじゃない。この街の黒猫は全滅。ノーラは惜しかったけれど、殺されたいと思う黒猫は一人もいなかった。だから、街に新しく生まれたユニに期待しているの」
真摯な目で見つめられる。ユニは少し緊張し、それまで風に揺られるようにゆっくりと動いていた尻尾もぴんと下に向かって伸びてしまう。
こういう目にユニはおぼえがあった。前世の記憶は飛んでしまっているが、たしかに自分はたくさんのこういう目と向き合って生きていた。魂に深く刻まれた感覚は忘れたくても忘れられない。この世には生を謳歌する人間がいるように、狂うことなく真剣に自分の死と向き合う人間もいるのだ。
「わたし、フランシスカさんに何かしてあげたいと思います。ベスさんに身体をふいてもらったし、こんな綺麗な服ももらったし。この黒い服って、フランシスカさんのものらしいですね」
「ふぅん……。上出来ね。ちゃんと自分というものを持っている。あなた、なかなか見どころがある黒猫だわ」
ユニのどこを気に入ったのか、フランシスカはにやにやと笑う。そして、手をぱんと打ち鳴らす。
「決めたわ。今日からユニはうちの子よ。ユニはもともとこの家で生まれたんだし、それがいいわ」
その時、部屋のドアが勢いよく開けられた。どうもドアの向こう側にはりついて聞き耳を立てていたらしいクロフォードが、フランシスカの白い城にあわてて踏み入る。
「フランシスカ! ほ、本気なのかい? 黒猫のユニを迎えるというのは……」
「ええ。この子が気に入ったの。それよりノックもせずに勝手にレディーの部屋に押し入って不愉快よ、お父様」
汚物を見るかのようなフランシスカの目にクロフォードは一瞬ひるんだが、そらしかけた顔を正面に戻す。なにしろ今は非常事態だ。愛する娘に死をもたらしかねない黒猫が屋敷の住人となって、良い影響があろうはずもない。
「し、しかし、もうノーラもいるし、ダルジャンヌだっているじゃないか。友達は二人で十分だろう? それに、ノーラに続いてまた街の黒猫を独り占めしたとなれば私への風当たりがいっそうきつく……」
「お父様。私はいつ死ぬか分からない。だから残されたわずかな時間を後悔しないように生きたいのだけれど、それでもユニを捨てるとおっしゃるの?」
後半の心にもない言い訳を一蹴され、もはやクロフォードは何も口に出せなくなった。
「ユニ。お父様はこころよく認めて下さったわ。今日からここがユニの家よ。あなたはとっても運が良いわ。普通なら街で生まれた黒猫は自分の力で生きていかなければならないのだから。生まれたばかりの黒猫は苦労するのが常なのよ」
「ただで置いてもらうなんて、そんなのいけません。何かお手伝いします。お掃除でも、ごみ出しでも、何でもします」
耳を逆立てて息巻くユニに、フランシスカはどこかあきれたような顔をする。何も分かっていないといいたげだった。
「そんなの、メイドのベスに任せればいいじゃない。特別で稀少な黒猫がわざわざやることじゃないわ。実際、ノーラもダルジャンヌも何もしていないし、あなたもわざわざ働くことなんてないわよ。ここに住んで、たまに私とお話してくれるだけでいいの」
「いえ、どうか働かせて下さい!」
「変な黒猫だなぁ。わけが分からない。自分から働きたがるなんて」
頭を下げるユニの後ろで、ノーラがとあくびを漏らしながらやる気のない声を出す。
「そこまで言うならベスの手伝いなんかしてみたらどうかしら? メイドの黒猫なんて可笑しいし、聞いたこともないけれど、見てみたい気もするし」
ユニの顔がぱあっと明るくなる。名前をもち、住み家を持ち、職を得る。これで自分は一人前だ。黒猫としては半人前以下なのかもしれないが……。
「ただし、ベスは大の黒猫嫌いだから覚悟が要るわ。それは憶えておいて」
ベスの攻撃的な視線と言葉を思い出し、ユニの耳がしょぼんと垂れ下がった。
「何度も言ったはずです。もっと丁寧に、隅々までみがくのです。指先に心をこめるのです。まったく、物覚えの悪い黒猫ですね」
「ご、ごめんなさい……」
いっそ眉の端をつり上げたり語気を荒げてくれれば分かりやすいのだが、ベスは表情を消したまま無情な言葉を淡々と投げつけるだけだ。心の内が読めない分、余計に恐い。
階段の手すりを濡れぞうきんでふいていたところをユニはベスに見つかり、仕事の雑さをとがめられていた。ユニは丁寧に頭を下げ、ベスにも自分の仕事があるので説教は長く続かなかった。最後にユニをひとにらみして、ベスは階段の踊り場から去っていく。
ベスの後ろ姿を見送りながら彼女は鋼鉄か何かで出来ているんじゃないかとユニは考える。人間でない黒猫のユニよりもよほど非人間的。あまりに隙がなさすぎる。てきぱきと完璧に仕事をこなしていく様は、まるでそのために生み出された専用道具のようだ。