02頁 「親の慈悲心、子ゆえの闇」
部屋に踏み入ったユニを見るやいなや、書斎の奥で黒檀の机に座っていた紳士が立ち上がる。そして、ゆっくりとユニの前に歩みよってきた。
「生まれたばかりの黒猫に会うことができるとは光栄だ。私はクロフォード=ハミルトン。ベスの雇い主で、この家の主だ。ええと、君の名前は……」
「ユニ。ユニです」
クロフォードと名乗る男もまた、メイドのベスと同じように普通の人間だ。黒いスーツに身を包み、年の頃は40歳前後だろう。きちんと整えられた金色の髪に豊かな知性をにじませる穏やかな灰色の目をしていて、全身から品が匂い立っているようだった。生まれたてのユニにも分かる。クロフォードという人間は金持ちで、上流階級の人間だ。
「ベスによれば、ユニはこの家で生まれたそうじゃないか。本当かね?」
「ど、どうもそうみたいなんです……」
「ああ、確かだよ、旦那。素っ裸で廊下をうろついているユニをあたしが見つけたんだ」
「……フランシスカは新しく生まれたユニに会おうとするのだろうなあ」
クロフォードはため息をつくと、整髪料で綺麗に固められた髪をがりがりとかきむしる。髪が無残に乱れていくのもお構いなしだ。
「ああっ、ユニっ! どうしてよりにもよって我がハミルトン家で君がっ、黒猫が生まれてしまうっ!? これでは娘がっ、私の愛しいフランシスカが消えてしまうっ!」
病的な発作に見舞われでもしたかのように、クロフォードは「ぐああっ!」と叫び声を上げてごろごろと床の上をのたうち回る。
「だ、だいじょうぶですかっ!? わたしのせいですかっ? きっとそうですよねっ」
「ほっとけよユニ。澄ました旦那でも、お嬢のことになるといつもこうなんだから」
のんびりとタバコを吹かすノーラとおろおろするユニの足元でひとしきり暴れた後、クロフォードは息を切らしながら立ち上がる。暗い情念のオーラを身にまとって見つめてくるクロフォードは幽鬼のようで、ユニは恐ろしさに足がすくむ。
「今やフランシスカの望みはたった一つ。黒猫に会うことのみだ。できる限り娘の気持ちをくんでやりたいが、しかし、ユニを会わせるのは……」
「ユニを屋敷から追い出しても無駄だな。どうせ一時の時間稼ぎにしかならない。新生の黒猫は嫌でも目立つからすぐに街で噂になる。情報通のお嬢がそれを知るのに3日もかからないだろ。ユニを連れてこいってだだをこねるに決まってる」
「うむむむ……」
クロフォードは書き物がたまった机に腰をかけて頭を抱え、やがて魂が抜け出るかのように大きなため息をついて顔を上げる。この短い時間で十年も年をとってしまったかのようにやつれた印象をユニは受けた。
「ノーラの言うとおりだ。仕方がないな。どうなるかは分からないが、これからユニを娘に会わせよう」
ふらつくクロフォードを先頭にしてユニとノーラが後ろに続く。書斎のドアを開けたところで、部屋の前に控えていたベスと出くわした。
「旦那様。まさか、そのちびの黒猫をお嬢様に?」
「ああ。今から会わせる。もう私がフランシスカにしてやれるのはそれぐらいだからな」
自嘲の薄笑いを浮かべるクロフォードに、ベスの表情が厳しくなる。
「旦那様。そのユニという黒猫がお嬢様を殺すかも知れないのですよ? どうぞお考え直しを」
わけも分からずフランシスカの元へ連れて行かれようとしているユニは、殺すという言葉に驚いて耳をぴんと逆立てる。ユニには誰かを殺害する意思などない。不安になって隣のノーラに視線で問いかけるが、彼女は肩をすくめて見せるだけだ。
「……ここからは私とノーラとユニだけでいい。仕事に戻りたまえ」
深く頭を下げたまま畏まるベスの横を素通りし、クロフォードは廊下の先へ進んでいく。ノーラは当然のように、ユニはどこか申し訳ない気持ちでおずおずとベスの横を抜けてクロフォードについて行く。
ユニが振り返ると、ベスが氷のように極寒の目で自分をにらんでいるのが見えた。ユニはたまらずノーラの服を掴み、身体をすり寄せる。
廊下を歩き階段を上がる。重い沈黙と、クロフォードの哀愁を帯びた雰囲気がどうにもいたたまれない。まるで葬式に向かうかのような空気だ。
これから何が起こるのか、フランシスカという人物は一体何なのか、思えば思うほどユニの胸には不安がつのる。元気を失って頭の猫耳を垂れ下がらせていると、ユニは廊下の角で誰かがこちらを見ているのが目に入った。
「や、やあ、ダルジャンヌ」
「…………」
曲がり角から半身を出してこちらを覗いている少女。ダルジャンヌという名前らしい彼女にクロフォードがあわてて挨拶しても、少女は無反応だ。口を開くことなく、ただじっとユニ達を見ているだけ。近寄りがたい異様な暗いオーラを放っている。
灰色の短髪に、たくさんの白いフリルがあしらわれた漆黒のゴシック調ドレス。脚をおおうニーソックスと靴まで黒い。何よりもユニの目を奪ったのは、彼女の背中から生えている一対の小さな羽と、その頭の上に浮かぶ光輪だった。ぼんやりと黄色く光る光輪はダルジャンヌの真っ黒な服のせいで闇夜に浮かぶ月のようだ。
何日も眠っていないかのような、あるいは誰一人信用していないような不安と不信に満ちた目でユニを見つめている。底知れない闇をたたえた赤紫色の瞳はダルジャンヌの内面を完全に隠しているが、ユニやノーラのような黒猫と同じように彼女が人間でないことだけはすぐに分かった。
「ユニ。ダルとあまり目を合わせるな。あいつ、色々やばいから」
小声でそう注意するノーラに、ユニは恐いもの見たさで後ろを振り返ってしまう。廊下の先へ進んでいくユニ達を、ダルジャンヌは壁に半身を隠したままの姿勢でずっと見ていた。それも、ユニだけを見つめている。ユニはびっくりして、ワンピースの下の尻尾がぴんと伸びてしまった。
ダルジャンヌがひそんでいた場所から十分に離れた時点で、ユニは思い切ってクロフォードに顔を向ける。
「ダルジャンヌさんって、何者なんですか?」
「フランシスカが趣味で館に住まわせている子だよ。普段は部屋にこもっているのに、今日はめずらしく部屋の外に出ていたな……」
「新しく生まれたユニの気配に誘われたんじゃない?」
「ユニ。ダルジャンヌの存在は屋敷の住人以外には誰にもしゃべってはいけないよ」
そうユニに念を押したきり、クロフォードもノーラも口をつぐんでしまう。ダルジャンヌのまとっていた雰囲気が伝染でもしたかのように、さきほどよりもいっそう三人の間の空気が重苦しくなる。
禁忌の少女ダルジャンヌ。その正体は不明であり、存在を口に出すことさえはばかられる。彼女はハミルトン家の抱えるタブー。ダルジャンヌの病んだ目を思い出してユニの背筋は凍えたが、クロフォードとの約束はちゃんと守ろうと心に誓った。
「ここが娘の部屋だ」
たどりついたドアの前でクロフォードは深呼吸をくり返す。娘の部屋に入るだけなのにどうしてそんなに緊張しているのか、ユニには理解できなかった。
「……フランシスカ……。私だ。ちょっといいかい?」
「……何か用? お父様。用があるなら手短に話して」
ドアの向こうから届く女の子の声。その声は冷たく乾いていて、クロフォードへの興味の無さがありありとにじんでいる。愛情の反対は嫌悪ではなく、完全なる無関心だ。
「今日、この家で新しく黒猫が生まれたんだ。名前はユニ。ノーラといっしょにここにいるんだが、会ってみるかい?」
「すぐに通して。ありがとうお父様、好きよ」
フランシスカ嬢の感謝の言葉は歓喜に満ちていて、それを聞くユニの心まではずんでしまう。
娘の言葉に、クロフォードは嬉しさと悲しさを混ぜたような顔でたたずんでいる。娘と話せるのはありがたいが、黒猫を会わせてしまうことへの葛藤にさいなまれているらしい。
「どうしたの? 早くユニって子に会わせて」
石像のように固まっているクロフォードの代わりにノーラがドアノブを回し、それと同時にユニの手を引く。
「ユニとノーラだけでいいわ。お父様は入らないで」
フランシスカのドライな声に、クロフォードはドアを前で陸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を開いたり閉じたりしている。ノーラがさっさとドアを閉めてしまったので、クロフォードはフランシスカの視界からすぐに遮断された。
「初めまして、ユニ。まあ、小さくて可愛らしい黒猫。こっちに来てもらえるかしら。私は歩けないから」
「は、はいっ」
白くて清潔な壁に、曇り空の薄明かりが差す窓。何も無いがらんとした部屋の中に設えられたキングサイズのベッドの上に、フランシスカという名の少女が横たわっていた。
深窓の令嬢フランシスカ。さらさらとした美しい金の長髪に、灰色の瞳。年は10代前半程度。よく整った顔をしているが、かなり痩せている。肌も病的に白い。何かの理由で健康でないことは一目で分かった。窓から見える空の雲を思わせる灰色のパジャマを着ていて、手足は枯れ木のように細い。
「この家で生まれたんですって? すごいわ。運命的ね。ついに私の念願の黒猫が来てくれたのかしら」
「あのう、お聞きしたいんですが、黒猫って何なんですか? わたし、本当に黒猫なんですか?」